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女子大生社長は、勝たない  作者: 久遠 睦


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41/51

第41章:数字の前の夜

社内向け文書を出した翌日、藤堂物産の本社には、まだ記事の余波が残っていた。

廊下の声は少し低い。

エレベーターの中で交わされる会話も短い。

誰も紬を責めるわけではない。

けれど、誰も完全に安心しているわけでもない。

それが分かった。

記事は消えない。

一度流れた言葉は、人の目に残る。

女子大生社長。

地域美談ビジネス。

現場疲弊。

元副社長の新会社。

実務派。

理想論。

その言葉たちが、会社の壁に薄く貼りついているようだった。

それでも、仕事は止まらない。

倉庫では、店頭用梱包の確認が進んでいる。

食品流通部では、相沢と柚木がFAQを三種類に分けて作っている。

美崎は、暮らしの森マーケット向けの販促表現確認リストを修正している。

加賀は現場へ行き、黒川と返品動線を見ている。

進藤は、暮らしの森マーケットへの次回提出資料と、記事対応後の社内説明を並行して進めていた。

そして一ノ瀬は、銀行向け資料を作っていた。

紬は午後、財務室へ向かった。

社長室ではなく、財務室で一ノ瀬と話したかった。

ドアをノックすると、中から短く声が返ってきた。

「どうぞ」

中へ入ると、一ノ瀬は複数の資料を机に広げていた。

資金繰り表。

売場検証案の収支表。

一店舗、三店舗、十店舗の比較。

倉庫改修を仮に入れた場合の資金需要。

人員を増やした場合の固定費。

銀行返済予定。

一つひとつの数字が、整然と並んでいる。

そこには、言い訳の余地がない。

紬は、財務室の空気がいつも少し冷たく感じる理由が分かった気がした。

ここでは、気持ちだけでは何も通らない。

「お時間、よろしいですか」

紬が聞くと、一ノ瀬は顔を上げた。

「はい。銀行資料の確認ですね」

「それもあります」

紬は椅子に座った。

「でも、その前に、一ノ瀬さんと話したいです」

一ノ瀬の手が、資料の上で止まった。

「私と、ですか」

「はい」

「何についてでしょう」

「会長から、一ノ瀬さんのことを聞きました」

一ノ瀬は、表情をほとんど変えなかった。

ただ、目だけが少し細くなった。

「会長は、何と」

「一ノ瀬さんは数字から逃げない人だと。でも、数字を守るために、自分の感情を殺しすぎる。数字の向こうで誰が泣いているかを、見ないようにする時がある、と」

財務室に、静かな時間が落ちた。

時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。

一ノ瀬は、ゆっくり眼鏡を外し、机の上に置いた。

「会長は、最後まで容赦がありませんね」

その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

「すみません。私が聞いてしまって」

「いえ。いつか話す必要があったのでしょう」

一ノ瀬は、資料を一枚閉じた。

「星野さんは、数字が怖いですか」

紬は、すぐに頷いた。

「怖いです」

「どのように?」

「人の顔を見ようとすると、数字が冷たく見えます。でも、数字を見ないと、結局もっと人を傷つける気がします」

一ノ瀬は、静かに聞いていた。

「前は、優しければ人を守れると思っていました。でも今は、それだけでは駄目だと分かってきました。売れた数、作業時間、返品費用、問い合わせ件数、固定費、人件費、返済。そこから逃げたら、誰かの我慢に乗るだけになります」

「その通りです」

一ノ瀬は、即答した。

「優しさだけでは、給与は払えません。借入も返せません。倉庫も改修できません。取引先への支払いもできません」

言葉は厳しい。

けれど、紬はもう、その厳しさを冷たさだけだとは思わなかった。

「でも」

一ノ瀬は続けた。

「数字だけでも、人は守れません」

紬は顔を上げた。

一ノ瀬は、資金繰り表に視線を落とした。

「私は、昔、数字を甘く見た経営者の下にいたことがあります」

その言葉は、静かだった。

だが、そこにはいつもの報告とは違う重さがあった。

「別の会社にいた頃です。社長は、人を大切にするとよく言う人でした。従業員を切りたくない。取引先に迷惑をかけたくない。地域に貢献したい。言葉は立派でした」

紬は、黙って聞いた。

「でも、資金繰りを見ませんでした。赤字事業を閉じる判断を先送りし、回収が遅れている売掛金にも甘く、借入返済の見通しも楽観的でした。私は何度も警告しました」

「その社長は」

「笑って言いました。数字だけ見ていたら、人の心はついてこない、と」

一ノ瀬の声が、ほんの少し低くなる。

「その言葉は、ある意味では正しいです。ですが、その会社は最後に給与遅配を起こしました。取引先への支払いも遅れました。守ると言っていた従業員が、最も傷つきました」

紬の胸が重くなった。

一ノ瀬は、表情を変えない。

けれど、手元の指が少しだけ握られている。

「私は、その時に思いました。数字を見ない優しさは、最後に人を裏切る」

その言葉が、財務室に落ちた。

紬は、手元のノートを見た。

何も書けなかった。

「だから私は、数字を甘く見る人を信用しません」

一ノ瀬は言った。

「人を守りたいと言いながら、数字を見ない人ほど危険です。本人に悪意がなくても、結果として人を傷つけます」

「私は」

紬は、声が少しかすれた。

「そう見えていましたか」

一ノ瀬は、少しだけ間を置いた。

「最初は」

その答えは正直だった。

胸に刺さった。

でも、紬は目をそらさなかった。

「最初、星野さんは人の顔を見たいと言いました。数字の前に人を見ると、ノートに書いていましたね」

「はい」

「その言葉を聞いた時、私は危険だと思いました。数字の前に人を見ることは大切です。しかし、数字を後回しにする言い訳にもなります」

紬は、あの頃の自分を思い出した。

社員名簿を見て、数字の前に人を見ると書いた夜。

その時は、それが正しいと思った。

今でも間違いではないと思う。

けれど、それだけでは足りない。

「でも、今は少し違います」

一ノ瀬は続けた。

「星野さんは、数字を見て泣ける人です」

紬は、思わず一ノ瀬を見た。

「それは、褒め言葉ですか」

「はい」

一ノ瀬は真顔で答えた。

「数字を見て泣く人は多くありません。数字を見ないで泣く人はいます。数字だけを見て泣かない人もいます。でも、数字の向こうに人がいることを理解しながら、それでも数字から目をそらさない人は少ない」

紬の胸の奥が熱くなった。

一ノ瀬の言葉は、甘くない。

だからこそ、深く届いた。

「私は、まだ数字が得意ではありません」

「存じています」

即答だった。

紬は苦笑した。

「もう少し遠慮していただけると」

「事実です」

「はい」

一ノ瀬の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

それは笑顔と言うには小さすぎる変化だったが、紬には十分だった。

一ノ瀬は、銀行向け資料を開いた。

「では、現実を見ましょう」

画面には、三つの表が並んでいた。

一店舗検証案。

三店舗展開案。

倉庫改修と人員増を見込んだ複数店舗対応準備案。

紬は、三つ目の表に目を留めた。

「これは」

「まだ銀行に出す資料ではありません」

一ノ瀬は言った。

「ただし、一店舗検証が成功した場合、次に必ず問題になります」

「複数店舗対応」

「はい」

一ノ瀬は、数字を指し示した。

「一店舗なら、既存の倉庫と人員で、相当の調整を入れれば対応可能です。三店舗になると、通常業務への影響が出ます。五店舗以上を視野に入れるなら、専用区画、人員、問い合わせ窓口、品質確認体制が必要になります」

紬は、表の下に並ぶ金額を見た。

倉庫内区画の整備費。

梱包台、保冷設備、返品確認スペース。

システム改修。

人件費。

研修費。

販促物制作費。

想像していたより、ずっと大きい。

「こんなにかかるんですね」

「はい」

「一店舗の棚を作るだけでは、終わらない」

「終わりません」

一ノ瀬は、はっきり言った。

「もし一店舗が成功し、取引希望が増えれば、むしろ資金需要は増えます」

紬は、前に考えたことを思い出した。

成功は終わりではない。

期待が増える。

声が増える。

負荷が増える。

そして、お金も必要になる。

一ノ瀬は、別の表を開いた。

「銀行は、感情では動きません。記事への反論でも動きません。大手チェーンとの話題性だけでも足りません。必要なのは、管理された計画です」

「はい」

「一店舗検証で何を測るのか。その結果をどう次につなげるのか。複数店舗に進む場合、どの条件を満たせばよいのか。どの段階で投資するのか。撤退ラインはどこか」

一つずつ言われるたびに、紬の背筋が伸びた。

「今回の一店舗案は、売場の戦いであると同時に、銀行に対して藤堂物産がリスクを管理できる会社だと示す場でもあります」

「はい」

「だから、赤字の可能性を隠してはいけません」

紬は頷いた。

「隠しません」

「初回は利益が薄い。場合によっては赤字です。それを検証費用として説明するなら、検証項目と次の判断基準が必要です」

「分かっています」

「本当に?」

一ノ瀬が、まっすぐ紬を見た。

紬は、少し言葉に詰まった。

「分かっているつもりです」

「つもりでは困ります」

一ノ瀬の声は厳しかった。

「星野さん。赤字を検証費用と言うのは簡単です。しかし、検証の中身が曖昧なら、それはただの損失です」

紬は、手を握った。

「はい」

「取引先を守るために藤堂物産が返品費用を一定範囲負担する。それは方針として理解できます。ただし、その費用をどこで回収するのか。次回以降の価格設計にどう反映するのか。銀行にどう説明するのか。そこまで考えなければ、優しさはまた誰かの負担になります」

紬は、一ノ瀬の言葉を正面から受け止めた。

痛い。

でも、必要な痛みだった。

「一ノ瀬さんは」

紬は、ゆっくり言った。

「数字を理由に人を切るのが怖いですか」

一ノ瀬の表情が、少しだけ変わった。

「会長は、そう言いましたか」

「いえ。私が聞きたいんです」

一ノ瀬は、しばらく黙った。

そして、静かに答えた。

「怖いのは、そこではありません」

紬は、息を止めた。

「私は、数字を理由に厳しい判断をすること自体は必要だと思っています。事業を止める。投資を見送る。採用を抑える。場合によっては、人員配置を変える。それが会社を守るために必要なら、避けてはいけません」

一ノ瀬の声は揺れなかった。

「私が本当に怖いのは、数字を見ない優しさで、もっと多くの人を傷つけることです」

紬は、一ノ瀬の顔を見た。

その目は冷たくなかった。

むしろ、とても静かに痛んでいるように見えた。

「数字を見ていれば、もっと早く止められた。もっと小さな傷で済んだ。そういう場面を、私は見てきました」

一ノ瀬は、資料を見下ろした。

「だから、私は厳しく言います。赤字です。無理です。採算が合いません。返せません。続きません」

その言葉の一つひとつが、いつも紬を緊張させる。

だが今、その裏側にある怖さを知った。

一ノ瀬は、人を切りたいわけではない。

人を守るために、数字を冷たく出している。

「一ノ瀬さん」

「はい」

「だったら、私が人の顔を見ます」

一ノ瀬が顔を上げた。

紬は続けた。

「一ノ瀬さんが数字を出す時、その数字の向こうにいる人の顔を、私が見ます。倉庫の人、食品流通部の人、取引先、店舗スタッフ、購入者。数字の中に入って見えにくくなった人を、私が見ます」

声が震えないように、ゆっくり言った。

「だから、一ノ瀬さんは数字から逃げないでください」

一ノ瀬は、黙って紬を見ていた。

その沈黙が長く感じられた。

やがて、一ノ瀬は静かに言った。

「では、星野さんも数字から逃げないでください」

紬は頷いた。

「はい」

「人の顔を見ることを、数字を避ける理由にしないでください」

「はい」

「守りたいと言うなら、守るために必要な金額を見てください。借りるなら返す計画を見てください。赤字を出すなら、その赤字から何を得るのかを明確にしてください」

「はい」

「そして、できない時は、できないと言ってください」

紬は、加賀の言葉を思い出した。

できなくはない、を疑う。

今だけ、今回だけ、少しだけ、を疑う。

それは現場だけでなく、数字にも同じなのだと思った。

「分かりました」

一ノ瀬は、資料を一枚紬の前に置いた。

「では、これを見てください」

そこには、一店舗検証案の詳細な収支があった。

売上予測。

原価。

物流費。

梱包費。

販促費。

返品引当。

問い合わせ対応工数。

取引先への報告資料作成費。

店舗スタッフ向け資料作成費。

想定利益。

ほとんど残らない。

条件によっては、マイナスになる。

紬は、その数字を見つめた。

「厳しいですね」

「はい」

「でも、やりたいです」

「やりたい理由は?」

一ノ瀬がすぐに聞く。

紬は、少し考えた。

「一店舗で、続けられる売場を作れるか確かめたいからです」

「それだけですか」

「いいえ」

紬は、資料に目を落とした。

「藤堂物産が、間に立つ会社として何を受け止めるのかを確かめたいからです。大手の条件をそのまま小さな取引先や現場に流すのではなく、どこを藤堂物産が引き受け、どこを調整し、どこで止まるのか。それを実際の売場で試したいです」

一ノ瀬は、黙って聞いている。

「それができれば、次に取引したいという農家や食品メーカーが出てきた時、ただ受けるのではなく、条件を見て判断できます。銀行にも、話題性ではなく、検証結果として説明できます」

一ノ瀬は、少しだけ頷いた。

「よろしいと思います」

紬は、少しだけ息を吐いた。

「ただし」

やはり続きがあった。

「その理由を銀行向けに数字と指標に落とす必要があります」

「はい」

「再購入希望、問い合わせ件数、店舗スタッフ評価、返品率、作業時間、取引先継続意向。それぞれ、測定方法を決めましょう」

「お願いします」

「お願いではなく、一緒に決めてください」

紬は背筋を伸ばした。

「はい。一緒に決めます」

それから二人は、ひとつずつ指標を決めた。

売上目標は高くしすぎない。

欠品は発生した場合の説明対応を評価対象にする。

返品が出た場合、原因と処理時間を記録する。

問い合わせは件数だけでなく、内容と一次対応で解決できた割合を見る。

店舗スタッフには、販売後に簡単なアンケートを依頼する。

購入者の声は、感想だけでなく、再購入希望と分かりにくかった点も集める。

取引先には、販売後に声を返し、次回も検討できるかを確認する。

倉庫と食品流通部の作業時間は、想定との差を見る。

一ノ瀬は、それらをすぐに表へ落とし込んでいった。

紬は、横で一つずつ確認した。

数字になると、急に現実になる。

怖い。

けれど、不思議と少し安心もした。

見えない不安が、測れる形になっていく。

それは、誰かを切るためではなく、誰かの我慢を見逃さないための数字だった。

夜が深くなった頃、一ノ瀬は最後のページを開いた。

「これは、まだ仮説です」

そこには、次の段階に進む条件が書かれていた。

一店舗検証後、三店舗展開へ進む条件。

返品率が基準内であること。

店舗スタッフ評価が一定以上であること。

倉庫作業時間が想定の範囲内であること。

食品流通部への問い合わせ負荷が許容範囲内であること。

取引先が継続を望むこと。

採算改善の見込みがあること。

そして、追加投資が必要な場合、銀行と協議すること。

紬は、その最後の項目を見つめた。

「銀行と協議」

「はい」

一ノ瀬は言った。

「もし一店舗が成功し、取引希望が増え、複数店舗への対応が必要になった場合、現状の倉庫と人員では限界があります。その時、融資の話が出る可能性があります」

「融資」

その言葉は、重かった。

希望にも聞こえる。

同時に、借金でもある。

「借りることは、勝ちではありません」

一ノ瀬は、紬の考えを読むように言った。

「はい」

「融資は、返済義務です。勝負の一手であると同時に、失敗すれば会社をさらに苦しくするものです」

紬は頷いた。

「分かっています」

「本当に?」

今日、二度目だった。

紬は、苦笑しそうになった。

けれど、今度は逃げずに答えた。

「まだ、完全には分かっていません。でも、分かろうとします」

一ノ瀬は、少しだけ目を細めた。

「その答えなら、よろしいです」

紬は、少しだけ笑った。

財務室の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

一ノ瀬は、眼鏡をかけ直した。

「星野さん」

「はい」

「私は、これからも厳しい数字を出します」

「はい」

「時には、星野さんがやりたいことに反対します」

「分かっています」

「人の顔を見ている星野さんには、冷たく聞こえると思います」

紬は、首を横に振った。

「冷たいとは、もう思いません」

一ノ瀬の表情が、少しだけ揺れた。

紬は続けた。

「一ノ瀬さんの数字は、冷たいのではなく、逃げないためのものです」

一ノ瀬は、しばらく何も言わなかった。

その沈黙の後、静かに言った。

「そう言われると、少し困ります」

「困るんですか」

「はい。私は、冷たいと思われている方が仕事がしやすいので」

その言葉に、紬は思わず笑ってしまった。

一ノ瀬も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

小さな笑みだった。

けれど、財務室ではとても大きな変化に感じられた。

「でも、これからは困ってください」

紬が言うと、一ノ瀬は軽く眉を上げた。

「なかなか厳しい社長ですね」

「一ノ瀬さんほどではありません」

「それは安心しました」

二人は、少しだけ笑った。

夜の財務室に、短い笑い声が落ちる。

それだけで、張りつめていた空気が少しほどけた。

帰る前に、一ノ瀬は資料を紬に渡した。

「これは、銀行向け資料の初稿です。明日の朝までに読んでください」

厚い紙の束だった。

紬は受け取りながら、少しだけ目を見開いた。

「明日の朝までに」

「はい」

「分かりました」

「分からない数字には付箋を貼ってください。分かったふりはしないでください」

「はい」

「質問は歓迎します。ただし、感想だけではなく、どの数字が分からないのかを具体的に」

「はい」

一ノ瀬は、いつもの一ノ瀬に戻っていた。

でも、紬にはもう、その奥の怖さが少し見えている。

それが嬉しかった。

社長室へ戻ると、机の上には、貴之側の華やかな売場写真と、紬たちの一店舗検証案が並んでいた。

その横に、一ノ瀬から受け取った銀行向け資料を置く。

華やかな売場写真。

地味な一店舗棚。

そして、数字。

どれも目をそらせない。

紬はノートを開いた。

『数字を見ない優しさは、最後に人を裏切る。』

その下に、もう一文を書く。

『一ノ瀬さんは、数字で人を切る人ではない。数字で人を守るために、冷たく見える場所に立っている。』

さらに、ゆっくり書き足した。

『私は人の顔を見る。一ノ瀬さんは数字を見る。どちらかではなく、両方から逃げない。』

ペンを置いた時、窓の外には深い夜が広がっていた。

記事の言葉は、まだ消えていない。

貴之の売場は、まだ強い。

一店舗案は、まだ小さい。

でも、今日、その小さな棚には新しいものが加わった。

一ノ瀬の数字。

冷たく見えるが、逃げないための数字。

人の顔を見たいという紬の願いを、現実に引き戻す数字。

その数字から逃げないことが、きっと誰かを守ることにつながる。

紬は、銀行向け資料の一ページ目を開いた。

まだ分からない項目がたくさんある。

付箋を取り出し、最初の疑問に印をつけた。

分かったふりをしない。

それが、一ノ瀬への最初の約束だった。


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