第34章:現場は首を縦に振らない
暮らしの森マーケットへ赤字だらけの契約書案を送った翌朝、藤堂物産の本社には、いつもより早く緊張が広がっていた。
返事はまだ来ていない。
それなのに、社内にはすでに大手チェーン案件の気配が流れ始めていた。
誰かが正式に発表したわけではない。
けれど、大きな会社の名前は、それだけで空気を変える。
廊下で交わされる声が少し低くなる。
会議室の予約が増える。
食品流通部の席では、松永の周囲に人が集まっている。
倉庫からは、黒川の短い確認メールが立て続けに届く。
広報には、美崎宛てに外部メディアから別件の問い合わせが入った。
銀行向け資料には、一ノ瀬の赤字が増えた。
新規事業チームでは、柚木が売場案のスライドを何度も直している。
星野紬は、社長室の机に両手を置いたまま、深く息を吸った。
大手チェーンの扉は、まだ開いていない。
それでも、その扉の前に立っただけで、会社の中は動き始めている。
期待。
不安。
警戒。
焦り。
それらが、少しずつ混ざり合っていた。
午前十時。
本社七階の大会議室で、現場説明会が開かれた。
出席者は、倉庫、食品流通部、営業、総務、財務、広報、新規事業の代表者たち。
黒川は倉庫から直接来ていた。
松永と相沢は、食品流通部の資料を持って並んで座っている。
五人の騎士も揃っていた。
進藤は会議全体の進行役として前方に立つ。
一ノ瀬は数字資料を手元に置いている。
美崎は説明文案を確認している。
加賀は壁際に立ち、現場側の表情を見ている。
柚木は、売場案の資料を抱えたまま、少し緊張した顔をしていた。
紬は前に立った。
「今日は、暮らしの森マーケット様からいただいている売場企画の打診について、現時点の状況を共有します」
会議室の空気が、わずかに硬くなる。
「最初にお伝えします。まだ契約は決まっていません。こちらからも、条件の修正をかなり多く出しています。現時点で、十店舗展開を受ける判断はしていません」
黒川の視線が、まっすぐ紬に向けられる。
松永も、手元のペンを止めた。
「私たちは、一店舗または三店舗からの検証を前提に考えています。ただし、それも取引先、倉庫、食品流通部、店舗側の条件を確認したうえで判断します」
紬は、そう言ってから、少しだけ言葉を切った。
「今日は、皆さんから反対意見を聞きたいと思っています」
会議室が静まり返った。
反対意見。
その言葉を先に出すと、何人かが顔を上げた。
紬は続けた。
「大手チェーンとの話は、会社にとって大きな機会です。銀行にも、社員にも、取引先にも、前に進んでいることを示せるかもしれません。でも、機会が大きい分、負担も大きくなります。だから、良い話として聞くだけではなく、どこが無理なのか、何が足りないのかを教えてください」
進藤が静かに頷いた。
美崎が、手元の資料を少し下げる。
加賀は腕を組んだまま、会議室全体を見ていた。
最初に口を開いたのは、黒川だった。
「倉庫としては、今の条件では首を縦には振れません」
その声は、いつも通り低く、はっきりしていた。
紬は頷いた。
「理由を聞かせてください」
黒川は、資料を開いた。
「まず、店頭販売用の梱包仕様が決まっていません。EC用の梱包と店舗納品用の梱包は違います。商品を店頭に並べるなら、外箱、個包装、ラベル位置、バーコード、陳列しやすさ、店舗での補充作業まで考える必要があります」
柚木が、すぐにメモを取る。
黒川は続けた。
「次に、返品動線です。店舗から戻る商品が、どこに、どの状態で、誰の確認を経て戻るのかが曖昧です。食品の場合、返品されたものを再販売できないケースも多い。廃棄判断も必要になります」
「はい」
「さらに、十店舗は論外です。三店舗でも、販売期間と商品数によっては通常出荷に影響します。一店舗からでも、店頭販売用に工程を組み直す必要があります」
会議室の中で、何人かが小さく息を吐いた。
一店舗からでも重い。
その言葉が、改めて現実として落ちる。
相沢が手を挙げた。
「食品流通部としても、現時点では受けられません」
紬は、相沢を見る。
「お願いします」
相沢は、問い合わせ記録を開いた。
「前回の小さな販売でも、保存方法、調理方法、発送日、ギフト対応、商品の形について問い合わせが集中しました。店頭販売になると、今度は店舗スタッフからの問い合わせが増えます」
「店舗スタッフから」
「はい。お客様に聞かれて答えられなかった時、店舗から本部へ、本部から藤堂物産へ、そこから食品流通部へ来る可能性があります。その流れを決めずに始めると、全部こちらに来ます」
松永も続けた。
「取引先への確認も同じです。森本さんや田宮さんに、毎回細かい問い合わせを回すわけにはいきません。販売前に、答えられる範囲と答えられない範囲を整理する必要があります」
紬は頷いた。
「FAQ作成会ですね」
相沢が少しだけ頷く。
「はい。ただし、前回より項目は増えます。店舗スタッフ向け、購入者向け、社内向けで分けた方がいいです」
柚木が、申し訳なさそうに言った。
「私が最初に作ります」
相沢は、柚木を見た。
「作るだけならできます。問題は、誰が確認するかです」
その言葉に、柚木は唇を結んだ。
「はい」
「食品のことは、食品流通部が見ます。でも、全部をこちらに投げられると回りません」
「投げません」
柚木は、はっきり答えた。
「私が分からないところを整理してから、確認をお願いする形にします」
相沢は、少しだけ表情を緩めた。
「なら、最初から一緒に作った方が早いです」
柚木が目を上げる。
「いいんですか」
「後から全部直す方が大変なので」
言い方は素っ気なかった。
けれど、拒絶ではなかった。
紬は、そのやり取りを見ていた。
少し前なら、柚木は自分一人で未来図を描こうとしていた。
相沢は、その未来図を現場の負担として受け止めていた。
今は、まだぎこちないが、同じ紙を見ようとしている。
それだけでも、前に進んでいるのだと思った。
営業部の若手社員が手を挙げた。
「社長、質問です」
「はい」
「大手チェーンの話があるなら、会社としては絶対に取りに行くべきではないんですか。今、うちには明るい材料が必要です。条件が厳しくても、やらないと何も変わらないと思います」
その言葉に、会議室の空気が少し揺れた。
期待の声だった。
不安だけではない。
会社の中には、チャンスを逃したくない人もいる。
一ノ瀬が静かに紬を見る。
紬は、若手社員に向き直った。
「そう思う気持ちは分かります」
「銀行も見ているんですよね」
「はい」
「だったら、慎重すぎると、また何も進まない会社に戻るんじゃないですか」
その問いは、まっすぐだった。
紬の胸に刺さる。
古い会社。
動けない会社。
判断が遅い会社。
藤堂物産は、そう言われてきたのかもしれない。
だから貴之は、切り離しを選んだ。
だから社員の中には、今度こそ早く動いてほしい人もいる。
加賀が、壁際から口を開いた。
「早く動くことと、雑に動くことは違う」
若手社員は、少し身構えた。
加賀は続けた。
「チャンスを取るなと言ってるんじゃねえ。取るなら、誰が何を背負うのか決めてから取れって話だ」
「でも、決めている間に他社に取られるかもしれません」
「それもある」
加賀は否定しなかった。
「だから難しいんだ」
会議室が静まる。
紬は、その静けさの中で、自分の言葉を探した。
五人の騎士は、いつも答えをくれるわけではない。
進藤は選択肢を整理する。
一ノ瀬は数字で突きつける。
美崎は見え方を整える。
加賀は現場の痛みを言葉にする。
柚木は未来を描く。
けれど、最後にどの言葉を選ぶかは、紬の仕事だった。
「大手チェーンの話は、取りに行きます」
紬は言った。
会議室に、少しだけ緊張が走る。
「ただし、取るために、守れない約束はしません」
若手社員が、まっすぐ紬を見る。
「今回の契約書案には、私たちがそのまま受けると、取引先や現場に負担が戻る条件がありました。返品費用、欠品対応、販促利用、問い合わせ窓口。そこを曖昧にしたまま契約すれば、たしかに話は早く進むかもしれません」
紬は、会議室全体を見た。
「でも、その早さで壊れるのは、現場です。取引先です。店舗スタッフです。そして、結局は会社の信用です」
黒川が、わずかに目を細めた。
松永がペンを置く。
「私たちは、動かない会社に戻るつもりはありません。けれど、誰かに負担を押しつけて動いたふりをする会社にもなりたくありません」
若手社員は、まだ納得しきれない顔をしていた。
「では、どうやって進めるんですか」
紬は、深く息を吸った。
「一店舗案、三店舗案、十店舗を受けられない理由をまとめます。こちらの条件を明確にして、先方と再交渉します。もし三店舗でも難しいなら、一店舗から検証する意味を説明します」
「一店舗で、大手が納得するんでしょうか」
「分かりません」
紬は正直に答えた。
「納得されないかもしれません。商談が止まるかもしれません」
会議室の空気が、また重くなる。
「でも、私たちが本当に回せる最小単位を持たないまま、相手の数字に合わせることはしません」
若手社員は、しばらく黙っていた。
完全に納得した顔ではなかった。
でも、口を閉じた。
その沈黙を、進藤が受け取るように言った。
「では、各部署から必要条件を出してください。反対意見は歓迎します。ただし、反対で終わらせず、どうすれば検証できるかまで一緒に考えましょう」
その言葉を合図に、会議は具体的な検討へ移った。
倉庫からは、保管場所、梱包、返品動線。
食品流通部からは、FAQ、取引先確認、問い合わせ窓口。
営業からは、売場での見え方、商品数、欠品時の店舗対応。
広報からは、販促表現と写真利用。
財務からは、返品費用をどこまで藤堂物産が吸収できるか。
総務からは、社内連絡体制。
柚木は、次々に出る条件を必死に拾っていた。
途中で資料のページが追いつかなくなり、ペンを持つ手が止まる。
その時、美崎がそっと横から補助資料を差し出した。
「ここに整理しましょう」
「ありがとうございます」
柚木は小さく頭を下げた。
一ノ瀬が数字の前提を補足する。
「この条件なら、利益はほとんどありません。ただし、検証費用として扱うなら説明は可能です」
進藤が議論を整理する。
「利益を出す企画ではなく、持続可能な売場モデルの検証として位置づける必要があります」
加賀が現場側へ声をかける。
「無理な条件は無理って言え。あとで飲み込むな」
黒川が短く頷いた。
「言います」
そのやり取りを聞きながら、紬は不思議な感覚を覚えていた。
五人が、それぞれ違う方向から支えてくれている。
けれど、ただ紬を守っているのではない。
紬の判断が逃げないように、あえて厳しい場所へ立たせている。
それは盾であり、刃でもあった。
守ってくれる。
同時に、甘やかさない。
その関係が、少しずつ輪郭を持ち始めている。
会議が終わる頃には、ホワイトボードは文字で埋まっていた。
一店舗案で必要な条件。
三店舗案で追加される条件。
十店舗を受けられない理由。
大手側へ確認すべき項目。
取引先へ話す前に社内で決めるべきこと。
その量を見て、誰かが小さく言った。
「これ、本当に間に合うんですか」
その声に、会議室がまた静かになる。
紬も、同じ不安を抱えていた。
間に合うのか。
やれるのか。
そもそも、相手が待ってくれるのか。
その時、柚木が顔を上げた。
「間に合わせます」
いつもの勢いとは少し違う声だった。
「ただ、私一人では無理です。相沢さん、FAQの初期整理を一緒にお願いします。黒川さん、梱包と返品動線の前提を教えてください。松永さん、取引先に出す前の確認項目を見てください」
相沢は、少し驚いた顔をした。
黒川も、画面越しに黙って柚木を見る。
松永は、静かに頷いた。
『分かりました。最初から一緒に見ます』
相沢も言った。
「時間を決めてください。だらだらやるのは無理です」
黒川は短く言った。
『現場で確認するなら、午後二時から三十分だけなら取れます』
柚木の顔に、少しだけ光が戻る。
「ありがとうございます」
紬は、その姿を見て、胸の奥が熱くなった。
誰かが一人で背負うのではなく、少しずつ手が伸びていく。
その手は、まだぎこちない。
でも、確かに重なり始めている。
会議後、五人は社長室に残った。
机の上には、現場から出た条件をまとめた資料が置かれている。
紬は、椅子に座る前に深く頭を下げた。
「皆さん、ありがとうございます」
進藤が少し驚いたように見た。
「急にどうしました」
「今日、分かりました」
紬は顔を上げた。
「私は、皆さんに守ってもらっているだけではないんだと思いました」
五人は黙っていた。
紬は続けた。
「進藤さんは、私が選択肢を見失わないようにしてくれます。一ノ瀬さんは、数字から逃げないようにしてくれます。美崎さんは、言葉が誰かを傷つけないように止めてくれます。加賀さんは、現場の痛みを私の前に置いてくれます。柚木さんは、未来を諦めないでいてくれます」
柚木が少し目を伏せた。
「でも、皆さんがいるから私が楽になるわけではありません。むしろ、逃げられなくなる」
加賀が、ふっと笑った。
「今さら気づいたのか」
「はい」
紬も少し笑った。
「でも、それがありがたいです」
進藤の表情が、少し柔らかくなる。
一ノ瀬は、静かに資料を閉じた。
「私たちは、星野さんを気持ちよく勝たせるためにいるわけではありません」
「はい」
「間違えそうなら止めます」
「お願いします」
美崎が言った。
「その代わり、星野さんも私たちをただの役割として見ないでください」
紬は、美崎を見た。
「役割として?」
「はい。広報、財務、現場、新規事業、経営企画。そういう機能だけでなく、それぞれに怖さがあります」
美崎の声は静かだった。
「私も、言葉一つで会社の印象が変わるのが怖いです」
一ノ瀬が続ける。
「私は、数字で人を切る判断に見えることが怖いです」
柚木が、小さく言った。
「私は、自分の未来図で誰かを疲れさせるのが怖いです」
加賀は少し黙ってから言った。
「俺は、現場を守ると言いながら、チャンスを潰してるだけなんじゃねえかと思う時がある」
進藤は、最後に静かに言った。
「私は、最善に見える選択肢を示しながら、その先にある痛みを完全には引き受けられないことが怖いです」
紬は、五人の顔を見た。
五人は、完璧な騎士ではない。
それぞれに怖さを持っている。
それでも、紬の前に立ってくれている。
そのことが、今までよりもずっと深く胸に届いた。
「私も怖いです」
紬は言った。
「大手の話を逃したら、会社を前に進める機会を失うかもしれない。受けたら、現場や取引先を壊すかもしれない。どちらを選んでも怖いです」
誰も、すぐに答えなかった。
進藤が言った。
「怖いまま、条件を作りましょう」
一ノ瀬が頷く。
「怖いからこそ、数字を出します」
美崎も言う。
「怖いからこそ、言葉を整えます」
加賀が続ける。
「怖いからこそ、現場に聞く」
柚木が、資料を抱きしめるようにして言った。
「怖いからこそ、広げ方を考えます」
紬は、ゆっくり頷いた。
「はい」
その時、スマートフォンが震えた。
暮らしの森マーケットの野上からだった。
紬は画面を見て、息を止めた。
『修正案を拝見しました。一度、社内で確認します。正直、当社標準条件から外れる点は多いですが、御社の考え方は理解しました。三店舗案に加え、一店舗検証案についてもお話を伺えますでしょうか。』
紬は、画面を五人に見せた。
柚木が目を丸くする。
美崎が小さく息を吐いた。
一ノ瀬は、すぐに表情を引き締めた。
加賀が、低く笑った。
「面倒くさい相手だって思われたな」
進藤が穏やかに言う。
「それでも、話は続いています」
紬は、画面を見つめた。
商談は終わらなかった。
面倒な条件を出しても、まだ話を聞くと言ってくれた。
それは勝利ではない。
契約でもない。
でも、小さな前進だった。
紬は、五人を見た。
「一店舗案を作りましょう」
進藤が頷く。
「はい」
一ノ瀬が資料を開く。
「数字を組み直します」
美崎がタブレットを立ち上げる。
「説明文も作ります」
加賀が腕を回す。
「現場に行くぞ」
柚木が、強く頷いた。
「売場案、作り直します」
その声を聞いて、紬は思った。
一人では、この返事まで来られなかった。
誰か一人が欠けても、ここまでは来られなかった。
五人は紬を守る騎士であり、同時に紬を甘やかさない問いでもある。
その問いと一緒に進むなら、怖くても足は止めずに済む。
夜の社長室に、また資料の山が積まれていく。
一店舗案。
三店舗案。
現場条件。
取引先確認。
返品基準。
販促表現。
どれも重い。
けれど、その重さを一人で抱えているわけではない。
紬は、机の上の学生証と社長印の間に、新しい資料を置いた。
『一店舗検証案』
その表紙に、柚木の手書きで小さくメモが貼られていた。
『小さくても、ちゃんと売場にする』
紬は、その文字を見つめて微笑んだ。
小さくても、ちゃんと。
それは、今の藤堂物産そのもののようだった。
まだ弱い。
まだ足りない。
でも、壊れない形を探している。
紬は、ペンを取った。
一店舗から始めるための条件を、もう一度書き出す。
そこには、五人の言葉も、現場の声も、大学で受け取った問いも、少しずつ重なっていた。
大きな売場へ急ぐ前に、一つの棚をきちんと作る。
その小さな棚を、誰かの我慢で支えないために。
紬は、静かにページをめくった。




