第7章 水夕の心に居座る謎の男
「ああ、サンキュー」
原田は顔を上げ、紅茶を持って来た水夕に言った。
彼は上着を脱ぎ、クリーム色のソファーに深く腰掛けている。
「どういたしまして」
少し芝居じみた言い方をして、水夕は原田の隣に座る。
「開慶さん、少し疲れているみたいね」
水夕は、原田のシャツに付いた糸くずを取りながら言った。
「うん、まあな」
原田は短く答え、受け取った紅茶をすすった。
元々、それほど饒舌なタイプではない。少なくとも家庭内ではそうだ。
「ねえ、玄関に新しい花が飾ってあったでしょう。気付いてくれた?お隣の沖島さんから頂いたのよ」
水夕が話し掛ける。
「えっ、そんな花、あったかな?」
「予想はしていたけど、やっぱり気付かなかったのね」
「ごめん、後で見るよ」
原田は自分の後頭部を軽く叩き、詫びる。
水夕は頬を緩め、そっと彼の膝に手を置いた。
「なあ、水夕」
ポツリと、原田が口を開いた。
「何?」
「唐突だけど、最近、変な奴を見掛けたことは無いかな」
「変な奴?」
水夕が怪訝そうな表情で聞いた。
「ああ。お前が見たわけじゃなくても、近所で誰か目撃した人がいるという話でもいいんだけど」
「変な人って、具体的には?変質者とか、そういう意味?」
「いや、そうじゃなくて、見た目が普通じゃない奴だ。どう言えばいいのか、例えば神話に出て来る悪魔のような姿とでも言えばいいのか」
「何だか、良く分からないわね」
水夕は微笑しながら言う。
「ようするに怪物なんだが、どうも上手く説明できないな」
「怪物?そんな話、聞いたことも無いわ。もしも誰かが見ていたら、もっと大騒ぎになると思うし」
「そうか、そうだよな」
原田は、自分の中で納得した。
「その怪物が、どうかしたの?」
「いや、何も無ければ別にいいんだ」
「何か捜査に関係すること?」
「そうじゃないよ。ちょっと気になることがあったんだ。だけど、もういいんだ、忘れてくれ。余計なことを聞いてしまったな」
原田は水夕の質問を受け流した。
彼が捜査について水夕に詳しく話したことは、一度も無い。
刑事として、家族にも情報を漏らすべきではないという考えを彼は持っていた。
ただ、仮に他の仕事をしていたとしても、同様だっただろう。そもそも、彼は仕事を家に持ち込むことを嫌う性分であった。
水夕は、そんな原田の横顔をじっと見つめた。
いつもとは少し雰囲気が違っていると、彼女は感じた。
きっと仕事で何かあったのだろうと、そう思った。
だが、深く詮索することはしなかった。そういう行為を原田が好ましく思わないと、彼女は知っていた。
原田は無骨な男であった。だが、その無骨さに水夕は惹かれた。
不器用な優しさに、水夕は惹かれたのだ。
水夕が原田と出会ったのは、2年ほど前だった。武浪が去ってから独身を通している水夕に、友人が原田を紹介したのがきっかけだ。その友人の兄が原田の学友で、付き合いがあったのだ。
「いい男を紹介する」
と友人に言われた時、水夕は渋った。
別に、水夕が男を紹介してくれと頼んでいたわけではない。お節介な友人の、勝手な行為だ。
「このまま二度と再婚せずに死んでいくつもりじゃないでしょ」
そんな友人の言葉に、水夕は口ごもりながら、
「そうじゃないけど……」
と小さく言った。
水夕は、もう武浪のことは忘れようと努めていた。ただ、少しずつ彼への思いは薄れつつあったが、どうしても完全に消し去ることは出来ずにいた。
別れた後は、男より女の方がスパッと過去を断ち切ることが出来ると良く言われるが、そんなのは嘘だと彼女は思った。それが本当だとしても、自分は少数派に属するのだろうと思った。
まだ武浪のことを引きずっている以上、新しい恋に生きる気にはなれなかったし、もちろん再婚なんて全く念頭に無かった。
友人の強引な勧めで仕方なく原田と会った時も、最初は適当に話をして終わりにするつもりだった。
だが、原田と出会って、頑なだった水夕の心の扉は、なぜかスッと開いた。
原田の方も、水夕と同じく強引に連れて来られていた。
彼は10年前に妻を病気で失って以来、独身を貫いていた。
今まで再婚しなかった理由を水夕に聞かれ、彼は
「妻への裏切りになるような気がして……」
と緊張した様子で語った。そこはクーラーの効いたレストランなのに、彼はかなり汗をかいていた。
「すみません、こういう席は慣れていないので」
原田は体を小さくして、困った表情を浮かべた。
思わず、水夕はクスッと笑った。
見た目は怖そうなのに可愛い人だと、彼女は感じた。
その第一印象で、2人の関係は決まったのかもしれない。
会食の終わり近くに、友人が
「今度は2人だけで会ったらどう?」
と持ち掛けた。
原田は戸惑いながら口をモゴモゴさせるばかりで、水夕も明確な返答をしなかった。
しかし、友人は強引に次の約束を決めてしまった。
「また勝手に決めちゃって」
水夕は頬を膨らませたが、どこかに浮かれる気持ちがあることを自覚していた。
2度目に水夕が原田と会った時も、やはり彼は緊張してぎこちない様子だった。会話もポツリポツリという感じで、全く弾まなかった。
ただ、水夕は彼といる時間に心地良さを感じた。
デートの最後になって、原田は遠慮がちに
「また、会ってもらえませんか」
と告げた。
「久しぶりに、女性に対して心が動かされています。あなたと、また会って、話がしてみたい」
そう言われた水夕は少し間を置き、
「はい、喜んで」
と答えた。
原田が見せる、外見とは裏腹の純朴で誠実な佇まいが、しばらく消えていた水夕の恋愛感情に仄かな火を灯したのだ。
それから2人は、デートを重ねるようになった。
静かに、そして少しずつ、水夕と原田の心の距離は近付いていった。
最初のデートから8ヶ月後、水夕は原田との同棲生活を始めた。
そして今から3ヶ月前、2人は正式に結婚した。
原田のプロポーズは、
「結婚してください」
というシンプルなものだった。
原田の愛情表現は、御世辞にも器用だとは言えない。だが、自分に対する深い愛情を、水夕は感じている。
水夕がケムコート病になった時には、原田は忙しい仕事の合間を縫って病院を訪れ、彼女を励まし続けた。
当初は、ずっと付き添いたいと主張し、そのために刑事の仕事を辞めようかと悩んだぐらいだ。
水夕は、原田との結婚生活に幸せを感じている。特に大きな不満は無い。
小さなことで言えば、もう少し悩みや苦しみを素直に打ち明けて欲しいということはある。原田は「男は黙って」という昔気質な男なので、そういう弱さをあまり見せたがらないのだ。
出来ることなら、何でも話してもらいたいと水夕は思っている。
しかし、それを直接、原田に言ったことは無い。
何でも話してほしい、隠さず打ち明けてほしいとは言えない。
そんなことを言える資格が自分には無いのだと、そう水夕は考えていた。
「水夕、悪いけど、ちょっと爪切りを取ってくれるかな」
原田が紅茶を飲み終わり、口を開く。
「分かった、爪切りね」
水夕は立ち上がり、箪笥に歩み寄った。
一番上の引き出しを開け、爪切りを手に取る。
ふと、その目が、箪笥の上に置いてある宝石箱に留まった。
水夕の顔に、わずかな影が差す。
それは後ろめたさの影だ。
宝石箱には、もちろん名前の通り宝石が幾つか入っている。
だが、それだけではない。箱の底に、隠すようにして1枚の写真が入っている。
原田は宝石に関心など無いので、箱の中身については全く知らない。だから、その写真の存在にも気付いていない。
その写真には、武浪が写っている。彼が会社を立ち上げて、夫婦でお祝いをした時に水夕が撮影したものだ。とびきりの笑顔を浮かべた武浪が、安いシャンパンを右手に持ち、左手でピースサインをしている。
再婚を決めた時、水夕は武浪との思い出の品を全て処分しようと考えた。
それが原田への誠意だと思ったし、これを機会に、武浪への未練をキッパリと断ち切ろうと思ったのだ。
しかし、どうしても全てを捨てることは出来なかった。
だから写真を1枚だけ、密かに取っておいた。
水夕の中で最も良く撮れていると思った写真だけは、処分せず残したのだ。
過去を断ち切れなかったのには、それなりの理由があった。
その理由とは、水夕が入院していた時の出来事だ。
手の施しようが無い状態だった水夕だが、常識では考えられないと医師も驚くような回復を見せた。ダクーラの処置によるものだが、もちろん彼女は知らない。
もう完全に病気は治ったと判断され、水夕は退院できることになった。
医師に礼を述べ、話をしていた時、彼女は妙なことを聞かされた。
それは、親戚の老人が病状を聞きに来たという内容だった。
だが、その人物に水夕は全く覚えが無かったのだ。
それはダクーラなので、覚えが無くて当然なのだが。
その人物を特定するため、水夕はどのような容姿だったのかを尋ねた。しかし、その特徴を聞いても、やはり誰なのかは分からなかった。
彼女は、その親戚の老人より、彼が息子として紹介した男のことが気になった。
その息子についても、水夕は特徴を尋ねた。医師は、左眉に十字の傷があったことを覚えていた。それを聞いた水夕はハッとして、さらに詳しい説明を求めた。医師もハッキリと覚えていたわけではなかったが、思い出せる限りの情報を教えた。
水夕は、その人物の特徴が、あまりにも武浪に似ていると感じた。
もしかすると、それは武浪ではないのか。
そう思った。
しかし、どうやって病気のことを知ったのだろうか。
なぜ別れた夫だと名乗らずに素性を偽ったのだろうか。
彼を連れて来た老人とは、どういう関係だろうか。
なぜ今になって会いに来たのだろうか。
なぜ病室には来てくれなかったのだろうか。
それが武浪だとしたら、聞きたいことは山ほどあった。
だが、それを確かめる方法は無い。
だから、そのことが彼女の中ではずっと引っ掛かっているのだ。
心のモヤモヤが消えずにいるのだ。
そして、そんなことがあったために、まだ武浪のことを完全に断ち切れずにいるのだ。
原田に対して済まない気持ちはあるが、どうしても心の隅に武浪が居座り続けている。かなり小さくなっているものの、色濃い存在として留まっている。
「水夕、どうかしたのか」
背中を向けたまま静止してしまった彼女を見て、いぶかしげに原田が尋ねる。
「ううん、別に」
振り返った水夕の顔からは、もう影は消えていた。




