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第6章 安登間武浪の最後の砦、それは心(3)

 俺は夜の闇に肉体を溶け込ませ、ある雑居ビルの屋上で腹這いになっている。

 そこから、20メートルほど先にある家をじっと見つめている。

 カーテンは閉じられているが、今の俺には、窓の向こうを透視する特殊能力が備わっている。

 俺が見つめているのは、1階のキッチンで夕食の洗い物をしている女の姿だ。


 水夕。

 俺の愛した女、いや、今も愛する女だ。

 髪を短く切って随分と印象は変わったが、その美貌は変わらない。

 病気を患っていた頃の影響は完全に消え、すっかり元気になっている。

 隠し切れない大人の色香を漂わせ、それでいて乙女のように可憐な魅力も併せ持っている。


 嗚呼、水夕。

 相変わらず素晴らしい人。

 俺はペンダントをギュッと握った。

 俺が人間としての尊厳を守る上で、それは重要な道具となっている。

 まだ外見が人間だった頃、基本的にアクセサリー類を身に着ける習慣の無かった俺だが、これだけは特別だった。

 そのペンダントは、俺と水夕を結び付けるための大事なアイテムでもある。ダクーラからは、必要が無い物だから捨てろと言われているが、これだけは手放せない。


 不意に、水夕が何かを見上げた。

 目が合った。

 慌てて俺は、這ったまま後ずさりした。

 そして、すぐに自分の愚かさに気付いた。

 向こう側から、こちらを見ることは有り得ない。カーテンは閉じられているのだ。

 目が合ったというのは、俺の思い込みだ。

 たまたま何かの理由で天井でも見上げたのだろう。


 だが、俺の網膜の裏には、水夕がこちらを見つめる目が残像として残っている。

 その清らかな目。

 俺は両の掌を上に向け、じっと眺める。

 それに比べて、この俺はどうだろうか。

 もう、すっかり汚れてしまった。

 外見の問題だけでなく、そういう理由でも、もう彼女と会うことは出来ない。

 この手で、この肉体で、どれだけの人間を殺してきただろうか。


 ***


 あの時、俺は最初から殺しの仕事だと分かった上で、ダクーラとの契約を結んだわけではない。

 こんな姿になることも知らされていなかった。

 何をすればいいのか教えてくれと頼んでも、ダクーラは

 「こちらの指示に従うと約束すればいい。それで契約は成立だ」

 と言うだけだった。

 俺は迷った。

 水夕を助けたい気持ちはあったが、何をすればいいのかも分からず契約することには強い抵抗感があった。

 しかし俺には、交渉のための武器が何も無かった。

 結局は、ただ無条件に相手の要求を飲むしか無かったのだ。


 俺が承諾すると、ダクーラは契約書を取り出した。

 俺がペンを出してサインしようとすると、彼は契約書を引っ込めて、

 「そうじゃない」

 と意味ありげに笑った。

 彼は俺の右手をグイッと引き寄せ、人差し指を掴んだ。

 チクッと痛みが走り、見ると指先から出血していた。

 ダクーラは俺の人差し指を契約書に近付け、一滴の血を垂らした。すると血が落ちた部分が青紫に変色し、それは瞬時に全体へと広がった。

 「これがサインだ」

 青紫色に染まった契約書を掲げ、彼は言った。


 黒魔術の如き不可思議な現象に、俺はただ無言で驚くだけだった。

 それからダクーラは、

 「それでは、しばらく眠ってもらおう。次に目が覚めたら、もう我々の仲間だ」

 と告げ、右手で俺の両目蓋を押さえた。

 「何をするんだ」

 俺は手を振り払おうとしたが、突如、急激な眠気が襲ってきた。

 既に俺は、ダクーラも今回の契約も、真っ当なものではないと確信していた。カルト教団か何か、ともかく怪しい組織が背後にあるのだろうと推察していた。

 だから、眠りに落ちながら、これから彼らのアジトにでも連れて行かれるのだろうと思っていた。



 意識を取り戻した時、俺は後に自分の住処となる場所にいた。

 その時は、目の前に大きな鏡が置かれていた。

 その鏡に視線を向けた時、俺の想像力はパンクした。

 イマジネーションの限界を超えた事態が、俺の身に起きていた。

 今の姿に、彼らがガルティラーマと呼ぶ怪物に、変貌していたのだ。

 後で知ったことだが、ダクーラに眠らされてから、その時点で105日間が経過していた。俺を変貌させるために、それだけの日数が必要だったのだ。詳しいことは分からないが、手間の掛かる作業が行われたらしい。


 自分が怪物になったと自覚した時、しばしの沈黙の後、なぜか俺は笑い出した。

 その声が次第に大きくなり、馬鹿笑いがしばらく続いた。

 人間は自分の理解を超えたものに出会うと、笑ってしまうことがあるのだと、初めて知った。

 そこへダクーラが現われ、事情の説明を始めた。

 ダクーラは、自分がナラカの支配者ヤマラージャの側近であること、スカーヴァティーの支配者であるアミターバへの対抗手段として罪人処刑係を人間界へ送り込む計画があること、その処刑係に俺が選ばれたこと、これからはガルティラーマと呼ばれることなどを語った。

 だが、その内容は、俺の頭には全く入って来なかった。

 それらの信じ難い情報を把握するには、俺の脳は力不足だった。

 何とか事態が飲み込めたのは、随分と時間が経ってからのことだ。しばらくの間、俺の脳内は何も受け入れることが出来なかった。混乱が竜巻となって荒れ狂っていた。


 俺が落ち着くのを、ダクーラは待った。

 それから彼は、最初の仕事を俺に命じた。

 つまり、殺人だ。

 もちろん、俺は最初から喜んで引き受けたわけではない。

 だが、それを遂行せねば、水夕が死ぬ。

 単純なことだ。

 しかし水夕の命が懸かっていると分かっていても、今まで血生臭い世界と無縁に生きてきた俺にとって、人を殺す決意を固めるのは容易ではない。


 「ふざけるなよ」

 俺は、人殺しなど出来ないと突っぱねた。

 きっと水夕のことで脅してくるだろうとは予想したが、それでも拒否反応を示さずにはいられなかった。

 するとダクーラは、静かに言った。

 「人を殺さずして、お前に何の存在意義があるんだ」

 「何だと?」

 「いいか、もう一度、冷静になって自分の姿を見てみろ。お前はガルティラーマという罪人処刑者となったのだ。ガルティラーマとは、殺しに優れた者という意味なんだぞ。もはや、お前は元の世界には戻ることは出来ない。今後は、ナラカの下僕として生きていくしかないんだ」

 意外にもダクーラは、水夕のことを持ち出さなかった。

 いつでも切り札として使えると踏んでのことだったのだろうか。

 さらにダクーラは、なだめるような口調で続けた。

 「人を殺すことに躊躇があるのは当然だ。しかし、罪悪感を抱く必要は無い。どうせお前が始末するのは、凶悪な罪を犯した奴だ。自己の欲望を満たすためだけに犠牲者を出した極悪人だ。殺されて当然なのだ。天に代わって成敗するという言葉があるが、お前が代わりを務めるのだ。そう解釈すればいい」

 俺は乾いた唇を舐めた。

 「……しばらく、考える時間をくれ」

 苦渋の表情で、そう口にした。


 数日の思案の末、

 「分かった、仕事を引き受ける」

 と、俺は小さく告げた。

 長考は、言い訳を探すためのものだった。

 一応は拒否反応を示したものの、やらなければ水夕が死ぬ以上、引き受けざるを得ないことは理解していた。

 ただ、覚悟を決めるために、決意を固めるために、俺は言い訳が欲しかった。

 その言い訳を、ダクーラの言葉に見つけたのだ。

 ひょっとすると、そこまで見通してダクーラは語ったのかもしれない。

 相手は凶悪な犯罪者だから、死んで当然なのだ。

 俺は死刑執行人の代役を務めるだけなのだ。

 いずれは地獄に落ちる相手だから、それを早めるだけなのだ。

 そのように、俺は自分に言い聞かせた。


 ***


 そして俺は、最初の仕事を指示された。

 標的は、鹿波原賢人かなみはら・けんとという26歳の男。

 4人の幼稚園児を次々に拉致して惨殺し、切断した頭部を公園の砂場に置いたサイコパスだと、ダクーラは述べた。

 警察は容疑者を特定できておらず、鹿波原は普通に生活していた。


 「なぜ、その男が犯人だと特定できる?」

 鹿波原に関する説明を受けて、俺は尋ねた。

 するとダクーラはニヤリと笑い、前方を指差した。

 「見てみろ、奴の悪行だ」

 ダクーラが言うと、突如、何も無かった壁にスクリーンが出現した。そして、鹿波原が女児をどこかの倉庫に連れ込んでいる様子が映し出された。

 「これは、2人目の犠牲者だ」

 ダクーラは事務的に告げる。


 鹿波原は女児の手足を縛り上げ、口をガムテープでグルグル巻きにして塞いでいる。女児の瞳が、恐怖におののいている。

 舌なめずりをした鹿波原が、持っていた包丁を女児の右太股に軽く突き刺した。女児が苦痛に体をくねらせるが、その悲鳴はガムテープで遮られた。

 痛みに歪む女児の顔を見て、鹿波原はヒャッヒャッと嬉しそうに声を上げて笑う。太股から流れ出した鮮血を手で掬い取り、それを見せ付ける。

 「ほら、見ろよ。赤いぞお」

 からかうように、鹿波原が言った。

 女児の両目から涙が溢れ、震える頬を伝う。

 それを見て鹿波原は興奮し、今度は左の太股に包丁を深く突き刺す。

 女児は号泣し、苦悶に体を捻った。

 鹿波原は奇声を上げ、狂気の笑みを浮かべながら、女児の胸や腹に何度も包丁を突き立てた。

 女児の体から力が抜けていき、やがて全く動かなくなった。それでも鹿波原は気付かず、笑いながら何度も何度も包丁を突き立てた。



 「もういい、やめてくれ!」

 俺は叫び、スクリーンから目を逸らした。

 むごすぎる光景だった。

 強烈な寒気が、俺を襲った。

 ダクーラが手をかざすと、スクリーンは消えた。

 「我々は、人間の犯罪を全て記録している。今のは、奴の犯罪の一部に過ぎない」

 彼は落ち着いた口調で告げた。

 「これで分かっただろう、奴が極悪人だということは」

 「……ああ」

 俺は気持ちを落ち着けながら、小さく答えた。


 「もしも望むなら、奴が犯した他の殺人も見せるが」

 「いや、充分だ」

 「そうか。では早速、奴を殺しに行ってもらおう」

 「もう、やるのか」

 俺は戸惑いを示した。

 「もちろんだ。ひょっとして、今になって怖気付いたのか」

 「いや、そうじゃないが」

 「だったら、行くぞ。ただし最初なので、念のために私も同行する。とは言っても、殺しを遂行するのはお前の仕事だからな」


 ダクーラは俺を連れて、地獄から人間界へと移動した。

 その移動方法とは、穴を使ってのワープだった。彼が念じると穴が出現し、そこをくぐると目的地に辿り着くのだ。

 それは彼だけが出来る芸当ではなく、俺にも備わっている能力だと後で知った。ダクーラがやり方を説明し、2度目の仕事からは俺が念じて穴を出現させた。



 穴を抜けた先は、ある豪邸の寝室だった。

 羽根布団を敷いたダブルベッドの上に、1人の男がいた。

 男は顔を引きつらせ、俺とダクーラを見ていた。センター分けで度の強い眼鏡を掛けた、細身の男だ。

 鹿波原である。

 「な、な、なんだ?」

 動揺で、鹿波原の声は震えていた。彼は枕をギュッと抱き締め、壁にピッタリと背中をくっ付け、体育座りになっている。


 「ここは、どこだ?」

 俺は鹿波原のことよりも、まず場所が気になった。狂人が、そんな豪邸に暮らしていることに疑問が沸いた。

 「ここは鹿波原家の別荘だ」

 ダクーラは事も無げに言う。

 「こいつの父親は大企業の社長だ。そして、こいつの犯罪に気付いている」

 「父親は、息子が凶悪犯だと知っているのか」

 俺は愕然とした。

 「そうだ。そこで父親は、周囲に人のいない郊外の別荘へ息子を移し、隔離したつもりなのだ。見張りもいなければ簡単に外へも出られるので、隔離とは言い難いが」

 「そんな問題じゃない。すぐに警察へ連れて行くべきだろうが。なぜ通報せずに隔離しているんだ」

 「それが出来ない辺りが、親心という奴なのだろうな。私には分からないが」

 「俺にも分かるかよ」

 俺は言葉を吐き捨て、鹿波原を睨み付けた。

 血まみれで力を失っていく女児の姿が、脳裏に浮かんだ。

 耐え難い憎しみが、俺の心を煮えたぎらせた。


 「貴様は人間の屑だ」

 俺はベッドに駆け寄って左手を伸ばし、鹿波原の右腕を思い切り引っ張った。引き寄せてから、頬に怒りの拳を見舞うつもりだった。

 だが、俺は相手の右腕を引っ張ったまま、後ろに倒れて尻餅を突いてしまった。

 頭の中に疑問符を浮かべたまま、俺は鹿波原に目をやった。

 鹿波原は自分の右側に視線を移した。

 しばし沈黙し、状況を把握した後、彼は絶叫した。

 右肘から下の部分が無くなっていたのだ。


 俺は自分の左手を見た。

 そこには、鹿波原の千切れた右腕が握られていた。粗い切断面から血管が飛び出し、ブランブランと垂れ下がっていた。

 慌てて俺は、その腕を放り捨てた。

 「おい、どうなってるんだ?」

 抗議するように、俺はダクーラに尋ねた。

 すると彼は、淡々と言った。

 「ガルティラーマ、お前の力は、以前とは桁違いになっているのだ。腕力だけでなく、跳躍力や耐久力など、あらゆる能力がな」

 「何?」

 「それだけではない。以前とは違い、格闘の技術を持った優秀な戦士と化している。さらには、人間には無い特殊能力も備わっている。少しずつ自分の力を把握し、コントロールできるようにしていくといい」


 「なぜ最初から、そう言わなかった?」

 「最初に言わなかったからこそ、お前は第一歩を踏み出すことが出来たのだ」

 ダクーラは、俺の非難を受け流すように言った。

 「第一歩だと?」

 「きっとお前は……」

 何か言い掛けたダクーラだが、鹿波原がベッドから飛び下りて電話に駆け寄ろうとしたため、途中で言葉を止めた。

 ダクーラは鹿波原に向かい、手をかざした。

 すると鹿波原は、足を滑らせて転倒した。

 彼は立ち上がろうとしたが、なぜか足が言うことを聞かないらしく、その場から動けなくなった。


 「こちらの話が終わるまで、おとなしく座っていてもらおう」

 ダクーラは静かに告げ、それから俺の方に向き直って話を続けた。

 「きっとお前は、この期に及んでも、鹿波原を殺すことにためらいを見せたはずだ。だが、奴を見てみろ」

 ダクーラは鹿波原を指差した。右腕から大量に滴り落ちる血を、彼は左の掌で必死に塞き止めようとしていた。

 「助けてくれ、医者を呼んでくれ」

 鹿波原は懇願の目で訴え掛けた。

 それを無視して、ダクーラは俺に話を続けた。

 「このままでは、どうせ出血多量で死ぬ。だったら、引導を渡してやれ。今すぐにナラカへ送ってやれ」


 「……そういうことか」

 俺は呻くように言った。

 「親切心のつもりか?」

 「どう取っても結構だ。いずれにせよ、お前は殺しの仕事を遂行せねばならない。さあ、やるんだ」

 ダクーラは冷徹な表情で告げた。

 「そう難しいことではない。先程の出来事で分かっただろうが、自分が思っている以上に、お前の力は強化されている。顔面や胸、あるいは金的などを思い切り殴るなり蹴るなりすれば、それで奴は簡単に死ぬ。ある程度は力をセーブしても、間違い無く死ぬだろう。もちろん打撃以外でも、投げたり首を絞めたりという方法でも構わない。方法は、お前に任せよう」

 淡々とした口調に、俺は嫌悪感を抱いた。

 しかし、俺だってダクーラと同様、唾棄すべき存在なのだ。


 俺は目を閉じ、惨殺された女児の姿を思い浮かべ、自分に言い聞かせる。

 そうだ、こいつは凶悪犯罪者なのだ。

 死刑に処されるべき悪党。

 誰かが殺すべき鬼畜。

 その役目を俺が果たすだけ。

 殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。


 俺はカッと目を見開き、鹿波原に歩み寄った。そして視線を合わさぬようにしてから、心を無にして下突きを放った。

 その拳は貧弱な腹筋を簡単に突き破り、背中へと貫通した。

 「ぐえっ!」

 鹿波原が体をくの字に折り曲げ、潰れた蛙のような声を発した。同時に、口から大きな血塊を吐き出した。それは突き刺さった腕の付け根にポトリと落ちた。

 見れば、それは血まみれになった胃袋だった。

 ゾゾッと鳥肌が立ち、俺は慌てて右腕を引き抜いた。どす黒い血と粘着質の液が、俺の腕をベトベトに濡らした。

 鹿波原の腹は無残に破れ、そこから腸がベロンと垂れ落ちた。

 鹿波原の虚ろな目に、それが映っていたかどうかは分からない。

 彼は口から大量の血をダラダラとこぼし、床に突っ伏した。

 そのまま、今度は本当の意味で動けなくなった。

 つまり、絶命したのである。


 「ほら、簡単に死んだだろう」

 ダクーラは、すました顔で言った。

 「後は何もしなくても、こいつは自動的にナラカ行きだ。お前が殺した犯罪者をナラカへ送る直通便のシステムは、既に構築してある」

 ダクーラの言葉を無視し、俺はチラッと鹿波原の死骸を見たが、すぐに視線を外した。

 その顔は酷く歪んでいたはずだ。



 それが、最初の殺人だった。

 罪悪感は、なぜか全くと言っていいほど無かった。だが、今までに体験したことの無い類の恐怖が俺を襲った。

 俺は体を縮こまらせた。

 震えが止まらなかった。

 「初めてだからな、そうなるのも仕方が無いだろう」

 ダクーラは俺の肩を軽く叩いた。

 俺は過剰にビクッと反応した。

 「だが、いずれ慣れるだろう。そのゾクゾクが、別のゾクゾク感に変わるのも、そう遠くないはずだ」

 そう告げて、ダクーラは微笑した。


 ***


 その後、俺は幾度もの殺人を経験した。

 具体的な数は覚えていないし、覚えたくもない。

 ただ、ダクーラが言ったように慣れを感じている自分がいるのだから、相当の数であることは確かだろう。

 ただし、別のゾクゾク感を抱くことは、まだ無い。

 ダクーラの言った別のゾクゾク感とは、たぶん興奮とか快楽とか、そういう意味なのだろう。

 それを感じないのだから、俺はまだ境界線を超えていないと思っている。

 その境界線とは、人間と怪物を隔てるものだ。


 見た目が変わろうとも、魂まで売り渡したくない。

 心だけは人間でありたい。

 そうである間は、まだ水夕を密かに眺めることぐらい、許されるのではないか。

 勝手な解釈だが、俺はそう思っているのだ。

 俺は水夕を幸せにしてやれなかった。

 しかし会えなくなった今も、彼女の幸せを願っている。

 だから、彼女が幸せになれるかどうかを見届けたい。それだけだ。

 彼女を観察する理由は、それだけだ。



 俺は思いを巡らせながら、水夕を見つめた。

 彼女はキッチンを出て、リビングへ移動した。そして、ソファーに座っている男に微笑み掛けた。

 今、水夕には一緒に暮らしている相手がいる。その男に、彼女は心を許した笑顔を見せる。優しい表情で話をする。

 少なくとも、現時点では幸せそうだ。

 もちろん、その男への嫉妬心がまるで無いと言ったら嘘になる。正直、最初に知った時は動揺した。だが、すぐに冷静な判断能力を取り戻した。


 俺は水夕と離婚したのだ。

 彼女が新しいパートナーを見つけるのは、当然のことだ。

 何よりも大切なのは、水夕が幸せになれるかどうかということだ。その男が本当に水夕を幸せに出来るのかということだ。それが重要な問題だ。

 たぶん、あの男は水夕を幸せにしてくれるだろう。

 そう思う。


 複雑な気持ちも無いわけではないが、ろくでもない男と一緒になるよりは遥かに良いことだ。ここは嫉妬心を抑え付け、素直に応援すべきなのだ。

 幸せにしてくれるだろうという思いには、願望も入っている。

 だが、少なくとも悪い男ではなさそうだ。誠実で真面目で、人間味のある男に思える。


 頼む、水夕を幸せにしてやってくれ。

 泣かせるような真似だけはしないでくれ。


 俺は原田刑事を見つめながら、そう願った。


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