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第19話 コナラギカフェの収穫祭

 今日は、イフリーティアの果樹園の収穫祭だ。

 コナラギカフェの《オータムカラー》。

 村の人たちと、近隣からの常連客を招いて開く、秋の小さなお祭りである。


 丘の上のテラスには、朝から甘い匂いが満ちていた。

 焼きたてのタルト。バターの香るクッキー。煮詰めた果実のジャム。イフリーティアの温室で採れた苺や葡萄や柑橘が、大皿の上で朝の光を弾いている。

 海から吹く風が、テーブルクロスの端を揺らした。


「フランシスカお姉ちゃん! あとで、いちご食べてもいい?」


 ミシャちゃんが、頬を紅潮させて駆け寄ってくる。髪には、今日のために自分で結んだらしい小さなリボンが揺れていた。


「もちろん。でも最初はちゃんとご飯からね」

「はーい!」


 返事だけは立派だ。

 私は思わず笑ってしまう。


 少し前まで、あの子は誰かの後ろに隠れてばかりいた。

 今はもう、こんなふうに駆け回って、食べたいものを真っ先に宣言する。

 それが嬉しかった。


「フランシスカさん、見てください」


 マルタさんが、エプロンの裾で手を拭きながら瓶を掲げた。


「今朝の分のジャム、もう二瓶空きました」

「すごい。大人気ね」

「ええ。今日は持ち帰りたいって方までいて」

「追加、間に合いそう?」

「今夜のうちに煮れば、明日の朝には」


 働く顔になった彼女は、前に会った時よりずっと逞しい。

 その横で、トマスさんが大きな箱を抱えてテラスへ上がってくる。


「港町から来た連中、向こうの席に案内しといたぞ。あと、海の見える席がいいってさ」

「ありがとう。助かるわ」

「礼は売上でくれ」

「現金主義ね」

「商売人の仲間入りしたんだろ、あんたも」


 ぶっきらぼうな言い方なのに、口元は少し笑っていた。


 その様子を見ていたガランさんが、白い髭を揺らして、ふむと頷く。


「まったく、お前さんが来てから、この村は忙しくなったのう」

「文句ですか?」

「逆じゃ。忙しいというのは、贅沢な悩みじゃよ」


 その言葉に、私は返事をしなかった。

 できなかった。


 忙しい。

 でも、それは前世のあの忙しさとは全然違う。

 今日をやり過ごすためだけの忙しさじゃない。

 誰かの機嫌を損ねないための忙しさでもない。


 ここには、笑い声がある。

 食べた人の顔が見える。

 働いた先に、ちゃんと明日がある。


「フランシスカさん!」


 振り向くと、アリアが手を振っていた。

 今日は聖女の正装ではなく、淡いクリーム色のワンピースに薄いストールを羽織っている。

 大聖堂の聖女ではなく、この店の常連客として来てくれたのだと分かる装いだった。


「暗黒パフェ、ありますか?」

「開口一番それ?」

「だって楽しみにしてたんです。帰る前に絶対食べたいんです」

「あとでちゃんと出すわよ」

「約束ですよ?」


 彼女は本気の顔で念押ししてくる。

 私はまた笑った。


 テラスの奥では、イフリーティアが果物の説明をしていた。

 炎の色を映したみたいな葡萄を手に取り、温度と土と光の話をすると、若い女性客たちがうっとりと聞き入っている。


 その一方で、デーゼはカウンター脇でマダムたちに囲まれていた。


「この暗黒パフェは、ただ甘いだけの軟弱な代物ではない。最初に来るのは香りだ。次に苦味、そして……」

「あらまぁ、今日も素敵」

「ねえ、そのソースのかけ方、もう一度見せてくださらない?」

「やれやれ……人間というものは、なぜそうも視線がうるさい」


 不機嫌そうにしているくせに、手元だけは妙に丁寧だ。

 その足元では、小型犬モードのタロウが子どもたちに囲まれて、腹を見せて転がっている。


「タロウ〜!」

「ワンッ!」

「待て待てー!」

「きゃはははっ!」


 潮風の中に、子どもたちの笑い声が響く。


 私はその景色を見渡した。

 甘い匂い。

 果物の色。

 海の光。

 ベルの音。

 名前を呼び合う声。

 少し忙しくて、でも優しい、このざわめき。


 ああ、と思った。


 ――ここが、私の居場所だ。


 そうはっきり思った、その時だった。


「主よ」


 低い声が、すぐ後ろで落ちた。

 振り返ると、いつの間にかデーゼが立っていて、いつになく険しい顔をしていた。赤い瞳が、丘の下をまっすぐ見ている。


「まずいことになりそうだ」

「どうしたの?」

「バカ王子だ」


 短く、それだけ言った。


「あいつがこっちに向かっている」


 胸の奥が、冷えた。


「……レオン殿下が?」

「ああ。しかも一人ではない。兵と文官、それから精霊使いを連れている」

「何をしに……」

「さあな。だが、ろくでもないことだけは確かだ」


 私は無意識に、テラスの向こうを見た。

 まだミシャちゃんが笑っている。

 マルタさんが手を振って客に応えている。

 アリアがメニューを見ながら、暗黒パフェの出番を待っている。


 壊されたくない、と思った。

 反射みたいに、そう思った。


「デニースもいる」

「え?」

「縄をかけられている」


 その瞬間、思考が切り替わった。

 これはただの嫌がらせではない。

 公の場に、デニースさんを拘束して連れてくる意味がある。


「……会うわ」

「主」

「ここで逃げたら、余計に向こうの好きに言われる。たぶん、あちらはそれを待っている」


 私は深く息を吸って、肩を開いた。

 怖い。

 けれど、ここで怯えた顔を見せたくはなかった。


 ほどなくして、丘の下から怒鳴り声が響いた。


「どけ! 王家の使いだ!」


 音楽が止まる。

 子どもたちの笑い声が止まる。

 テラスを渡っていた風まで、止まった気がした。


 豪奢な馬車が、陽気な祭りには似合わない威圧感を纏って上がってくる。

 兵士たちの靴音が土を踏みしめ、村人たちが自然と道を開けた。


 馬車の扉が開く。


 降りてきた男は、外套の裾を払って周囲を見回した。

 金の髪。碧い瞳。整った顔。けれど、その表情だけが、記憶の中よりもずっと冷たい。


「……レオン殿下」


 レオンは私を見つけると、ゆっくりと笑った。


「久しぶりだな、フランシスカ」

「用件があるなら、手短にお願いします。今日は収穫祭なの」

「見れば分かる」


 彼は辺りを見回し、鼻で笑った。


「なるほど。辺境の寒村で随分と楽しそうなままごとをしているようだな」


 言い返しそうになった。

 でも、先に唸ったのはタロウだった。


「グルルル……」

「おやおや。まだそんな獣を傍に置いているのか」


 イフリーティアの周囲の空気が、じわりと熱を帯びる。

 アリアがそっと私の近くへ立った。


 レオンは兵士に顎で合図した。

 前へ突き出されたのは、縄をかけられたデニースさんだった。


「デニースさん!」

「……申し訳ありません、フランシスカさん」


 顔色は悪い。だが、声そのものはまだ折れていなかった。


「この者は、犯罪組織を維持するため、継続して物資供給を行っていた」


 レオンが平然と言う。


「警告はした。取引を止めろとな。だが、拒んだ」

「商人ってのは、命より約束を守る生き物なんですよ」


 デニースさんが絞り出すように返した。


「……何を言っているの?」


 私はレオンを睨んだ。


「この村のどこに、そんな違法があるというの」


 レオンは私を見ず、背後の文官へ命じた。


「読め」


 婚約破棄の場にもいた、あの文官が紙束を広げる。


「国家級精霊および精霊王の管理・保護・使用に関する国際条約に基づき――」


 堅苦しい言葉が続く。

 所在。

 管理責任。

 登録義務。

 未登録の越境保有。

 私的戦力化。

 秩序攪乱。


 意味は分かる。

 分かるからこそ、胸が冷える。


 レオンが言葉を引き取った。


「要するに、お前は国家戦力級の精霊王を未登録のまま他国へ持ち出し、この地に拠点を築いた。しかも、村人を巻き込み、商人まで抱き込んでいる」

「違……」


 違う、と言いかけて、喉が止まった。


 悪意はなかった。

 でも、黙っていたのは事実だ。

 村人たちに、精霊たちがどれほど大きな存在かを話していなかったのは、事実だ。


「タロウ、わるいせいれいさんなの……? うそだよね」


 不安そうな声がする。

 ミシャちゃんだった。

 マルタさんは娘の肩を抱き寄せたまま、私と精霊たちを見ている。

 トマスさんも、ガランさんも、言葉がない。


 レオンはそこを見逃さなかった。


「なるほど。つまり、お前は話していなかったのだな」


 勝ち誇るような声音だった。


「ずいぶんと悪質だ。善意の商人と、無知な村人たちを、自分の違法な隠遁生活に巻き込んでいたとは」


 その言葉に、イフリーティアが一歩前へ出ようとした。

 私は小さく首を振って止める。

 ここで怒らせたら、向こうの思う壺だ。


「……要求は?」


 ようやくそれだけ絞り出すと、レオンは満足げに口元を吊り上げた。


「二つだ。第一に、この地を去ること」

「……」

「第二に、王家の管理下へ戻ること」


 空気が、凍りついた。


「当然だろう?」


 レオンの声は落ち着いていた。

 それがかえって残酷だった。


「国家を左右する戦力が、王家の管理を離れ、他国の辺境で私的に運用されている。見逃せば、外交問題どころでは済まん。最悪、軍事的緊張を招く」


 戦争を招くのは、そちらだ。

 頭の中では叫べるのに、口は動かなかった。


 ここで拒めば、この人は本当に村を巻き込む。

 受け入れれば、私はこの場所を失う。


 ミシャちゃんの「あとで、いちご食べてもいい?」が蘇る。

 アリアの「暗黒パフェありますか?」が蘇る。

 テーブルの上には、まだ切り分けていない焼きたてのタルトが一台、そのまま残っている。


 どちらを選んでも、壊れる。


「さあ、どうする?」


 レオンは私だけでなく、その場にいる全員へ聞かせるように言った。


「お前一人の意地で、どこまで周囲を巻き込むつもりだ?」


 兵士たちが、じわじわと距離を詰めてくる。

 タロウが低く唸る。

 イフリーティアの背後の空気が熱で歪む。

 デーゼの足元では、影が不穏に揺れていた。


 ほんの少し火花が散れば、全部が終わる。


 そのぎりぎりのところで、レオンは小さく笑った。


「……まあいい。さすがに、この場で即答を迫るほど、私も無慈悲ではない」


 全身に冷たいものが走った。

 一番いやな言い方だった。


「一日やろう」


 村人たちが息を呑む。

 レオンはゆっくりと私を見た。


「明日まで待つ。その間によく考えろ。お前が意地を通せば、どれだけ多くの人間を巻き込むかをな」


 それだけ言うと、彼は兵士へ顎をしゃくった。


「この商人は預かっていく」

「なっ……」


 兵士がデニースさんを乱暴に引き立てる。


「返答は明日、改めて聞こう。その時までに逃げるか、決断できぬなら、この者は違法戦力への加担者として正式に処罰する。見せしめとしては、悪くあるまい」


 やがて馬車は丘を下り、兵士の足音も遠ざかっていった。


 誰も、すぐには喋れなかった。


 甘い香りが、まだ残っている。

 けれど、さっきまでそれを甘いと思っていた身体が、もうその匂いを受け取れない。


 テーブルの上では、手つかずのタルトが秋の光の中で、静かに冷めていた。


 ミシャちゃんが、そっとタロウの毛を握る。

 私は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

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