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第十四章『風の中のアチャフ』

その時、アチャフの体の周りには風が吹いていた。

視界は白く、自身の周りは凄まじい強風で呼吸をしようといくら口を開こうとも肺に空気は入らずそれを許してはくれない。


そして、視界が暗転し、意識を手放そうとするとそれを許さないと言わんばかりにその開けた口に何か硬く、弾力のあるゴムのような脈打つものを押し込まれ、その塊から生ぬるく鉄臭い液体が流れ込んだ。


その味に吐き気を催し吐いて意識を覚醒させられ、

再び意識を失いそうになれば飲まされる。


――やがて、それを繰り返していくうちに腹の中は元々の内容物と入れ替わりその液体で満たされていた。


意識がかすみ、

全方位の感覚を失い、

最初の頃は叫んでいた気がするが、今ではもはや叫ぶ余力もない。


自身が今どこにいるのか何をしているのかも曖昧になってゆく、先ほどまでの記憶も確かなのかわからない。


…記憶を手繰っても思い出せるのは要塞ポグレムでの普段行っている補給将校としての仕事と、要塞ポグレムの上司でもある要塞司令ラフィ・バンキンの迫力のある情けない土下座、そしてそれをなかったかのように横で仕事をし続ける司令補佐の男のいるいつもの困ったことがあると呼び出しをされる要塞司令室。


そして、先ほどまで説得をしていた『料理人』の少女の顔をした怪物の顔が自身の顔に近づいてきて、その手が自身の右手を掴み、その怪物に心を売った部下や同僚たちがその顔を醜悪なる笑顔に歪め、自身の背中に背負い籠を背負わせたところまでだ。


―「『飯』頼むぜ、アチャフ!」


―「絶対にアリシア姐さんの取った『肉』落とさないでよ!アチャフ!」


―「がんばれ…!がんばれ!!アチャフーっ!!」


その時の言葉を唐突に思い出した瞬間に意識が曖昧になっていたアチャフはふと一つの感情を思い出す


アチャフ「…許さない」


それは明確な感情であり、激しいものだった。

くすぶっていた炭が油をかけた瞬間のように急激に大きくなってゆく。


アチャフ「絶対に…、絶対に許さない、あいつら必ず『全てが終わったら』全員、一人ずつ、嗜好品を奪い、休暇という名の自由を奪い、少しずつ仕事を増やして最後には指1つ動けないほどの仕事を…ゆっくりと地獄という絶望をその身に味わわせてやる」


強い憎しみの籠もった呪詛とその必ずやってくるであろう彼らのその時の絶望する顔を、

その結末を思い浮かべた。


ー瞬間、アチャフはようやく曖昧になっていた感覚が戻り、その右手を未だに掴んでいる小さな手があることに気づいた。


その手はとても熱く、

まるで熱した金属のようだ。


そして自身はその手に強い力で引かれ、その強い牽引力により両足が浮いている状態だった。


目の前の手を引く少女は『料理人』の服ではなくその姿は、華奢な肩からふわりと広がり、膝下で柔らかなシルエットを描いていたが激しい動きによりその下からドロワーズを履いた

か細くも健康的な太ももが見える。


そして、土煙と血しぶきの中で血と泥に汚れたアチャフと対照的になぜか土埃も返り血の一つもない純白のエプロンが黒いワンピースのコントラストを際立たせ、若草と枯れ草を混ぜたような不思議な色の三つ編みが激しく踊る中、その頭についたカチューシャから垂れる鈴のついたレースもまた、その強風で激しく揺れているにも拘わらず彼女は一切、音を鳴らさず石畳から壁、屋根へと音を置き去りに走り、その踏み台となった箇所は大きく砕けはじけ飛ぶようにして吹き飛んだ。


そして、そのか細い手には『ポグレム兵舎食堂』と印字された彼女の背丈と同じ巨大な肉切り包丁があり、それを一振りするたびに目の前にいた『獣人』たちの首が次々に落ちてゆき、その身体はほどけ『肉』になってアチャフの背負い籠に入っていった。


―それはメイド服を纏った少女の姿をしている『料理人』という名の『怪物』だった。


その口には先ほど解体した『獣人』の脈打つ心臓が咥えられており、革袋の中に入った水を手を使わずに飲むようにしてその生き血を飲んでいた。


そして、らんらんと光る色褪せた彼女の赤い瞳が彼の緑の瞳と合ったその瞬間にアチャフの身体は勢いよく空中に投げられた。


その身体の横を巨大すぎる赤鋼の両刃斧が回転しながら通り過ぎた。


彼女が投げブーメランよろしく帰ってきたところである『フォグレギビーの両刃戦斧』である。

彼女は飲み終えた心臓を吐き捨てると帰ってきたそれを受け止め、流れるようにしてまたそれを投げ、その赤い戦斧はまだ投げ出され空中にいたアチャフの真横をまた通り過ぎる。


―もし、この投擲が少しでもずれていれば自身に当たり、この身体は真っ二つになっていたであろう。


そんなアリシアの投擲によって高速で回転するその大質量の斧の風圧でアチャフの身体は空中で錐揉み回転し、それによって一気に視界が広がった。


瓦礫の山。

変貌した街並み。

そして道端に切り刻まれ、肉だけ回収された頭と皮と骨となった『獣人』達の骸…。


たった一人の『料理人』という怪物に蹂躙され阿鼻叫喚の地獄と化した敵対勢力の拠点の1つ、陥落町ブルートニクの中心地であるとようやく理解した。

そして、彼の緑の瞳が捉えたのは、街の中央、つまり目の前に傲然とそびえ立つ、土と岩で組み上げられた歪な未完成の巨塊。


―敵の心臓部『獣の砦』だった。


アチャフ「な…んで、…もう―」


彼女の『食材集め』の為に最悪の場所に放り出された恐怖にアチャフが息を呑んだ、その瞬間だった。


戦斧を再び投げ終えた彼女――

―アリシアが、空中から落下してくるアチャフの視界を真下から遮る。

らんらんと輝く色褪せた赤い瞳。


一瞬、地面でその身をかがめたかと思えば空中で自由落下を始めた驚愕に目を見開くアチャフの目前に唐突に現れ、腹部へ彼女はまるで肉弾戦のタックルのように、容赦なくその小さな身体を叩きつけていた。


アチャフ「がっ、ふぅう……っ!?」


華奢なはずのアリシアの身体はその見た目とは裏腹に硬く重い、その衝撃で脳を揺らされ再び肺の空気をすべて絞り出されるような衝撃。

しかし、激突の痛みを感じる暇さえない。


アリシアは背負い籠を付けたアチャフの身体をガッチリと抱え込むと、落下の慣性を強引にねじ伏せ、弾丸のような速度で前方の空間を蹴った。


向かう先は、目の前にそびえ立つ『獣の砦』の、文字通り「壁」である。

頭と足の天地がひっくり返り、強烈なG(重力)がアチャフの全身を襲う。


気づいた時には、景色が猛烈な勢いで「真下」へと流れ去っていた。

ゴツゴツとした土と岩の壁面を、アリシアは重力を無視して垂直に駆け上がっていく。


視界の端で、彼女が踏み込んだ岩壁が次々に爆散し、蜘蛛の巣状の亀裂が走るのが見えた。


…しかし、おかしい。


これほどの破壊を引き起こしながら、耳元には風の鳴る音しか聞こえないのだ。


……いや、

―音がないのではない。

彼女の速度が、あまりにも規格外すぎるのだ。


―…どっどっ…どどどどどどどどどどどどどどっ!!!


一瞬の静寂の後、遥か真下から、鼓膜を震わせる凄まじい爆音が遅れて追いかけてきた。


彼女が蹴り飛ばした岩の破裂音、空気を切り裂き金属を勢いよく引き裂いたかのような激しい衝撃音が、二人の足跡を追うようにして下から上へと爆発していく。


音さえも置き去りにする超音速の垂直跳躍。


未だアチャフにできるのは、ただ彼女の肩越しに、空へと落下するかのようにぐんぐんと遠ざかっていくブルートニクの町並みと、

自分たちの足元を派手に吹き飛ばしていく爆音の光景、


ーそれらを生きた心地のしない死んだ目でただ、見届けることだけだった。



二人目の『獣人』将軍、

『冬の使者、ギャバー』と

真の英雄(料理人)

『狂戦士ノ料理人、アリシア・ヴァンシィ』


二人の戦いは近い。

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