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SSR武将に転生した腐女子ですが、見る専なのでおかまいなく  作者: Techniczna
第一章 この世界のBLは間違っている
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六 閑話―古渡と安城合戦

ブックマーク&評価ありがとうございます。当面毎週日曜日と水曜日に更新予定です。


今回は恒例の解説回です。

物語が本格的に動き出すまで後三話程度。序盤の展開上、どうしても退屈な回が続きますが、今しばらくお待ちくださいませ。

 天文八年(一五三九年)、織田信秀は那古野城を奪取したその翌年、古渡ふるわたり(名古屋市中区、現在の東別院駅周辺)に新たに城を築き、そちらに移り住んだ。


 那古野城には、まだ数え六歳でしかない吉法師信長を住まわせ、信秀が信頼する四人の武将を補佐として家老につけ、英才教育を施したのは既に述べたとおりである。

 信長は三男ではあるが、二人の兄は正室の子ではないため家督相続権はない。信長が庶子を除いた長子であるため、当然後継者として期待されているわけである。

 また信秀は同じころ、その那古野城のすぐ南に織田家の菩提寺として萬松ばんしょう寺(名古屋市中区丸の内、現在は名古屋市中区大須に移転)を建立している。


 一方、信秀が移った先の古渡は、交通の要所である。

 当時の尾張の商業の中心は津島と熱田であることは既に述べたが、古渡はこの津島と熱田の陸路の間にある。(この陸路は後に佐屋街道として整備されることになるが、ここでは割愛する。)

 加えて、古渡は熱田と那古野の中間にも位置していた。そして那古野から西に向かい、庄内川を渡れば清洲である。


 清洲からわざわざ距離を取ってまで古渡に移った目的は、何と言っても熱田である。

 津島を手中に収め、商業の重要性を認識していた信秀は、同様に熱田をも支配下に置くべく、本拠を移して地盤固めを行ったのだ。

 一説には、津島と熱田が生み出す財は領土三〇万石に匹敵するという。江戸時代の御三家水戸藩が三五万石であるから大国1つに相当するわけだ。莫大な財力である。


 信秀はこの財力を背景に軍事力を増強した。後に述べる安城合戦では、松平軍が歩兵主体だったのに対し、織田軍は騎兵だけでもその二倍の兵力を有していたと記録が残っている。

 また信秀は立て続けに城を築城し、勝幡しょばた城(愛西市・稲沢市)、那古野城(名古屋市中区)、古渡城(名古屋市中区)、末森城(名古屋市千種区)と本拠を転々とした。

 加えて那古野城の南の広大な原野を切り開いて、萬松寺を建立している。

 いずれも潤沢な財力が無ければ出来ないことだ。


 この時代、守護から連なる大名たるものはしっかりと領国に根を下ろして腰を落ち着けるべきであり、軽々しく本拠を動かすべきではないという考えが根強かった。

 武田家、毛利家、今川家、上杉家といった名だたる戦国武将も、その領土を大幅に拡大こそすれ、本拠は動かしていない。

 それからすれば、本拠を転々とした信秀は異質だという意見が多いが、別の見方もある。

 尾張の守護はあくまで斯波家であり、本拠は清州から依然動いていない。

 あくまでその部下の信秀が八面六臂の働きをするために作業場所を変えているだけだ、と言うものである。


 信秀はそのイメージから誤解されがちだが、実は忠義の人である。

 守護代である織田大和守家とはしばしば反目しているが、それは斯波家が大和守家に害されるのを守るためである。

 信秀が尾張守護である斯波家に直接手を上げたり蔑ろにしたことは一度たりとも無かった。

 那古野城奪還も三河への侵攻も、全ては斯波家の部下としての活動である。

 その証拠に、後に斯波家が大和守家に滅ぼされそうになった時に十五代当主義銀が頼ったのは、他でもない織田弾正忠家である。

 主従の勢力は明らかに逆転してしまっているが、その後も斯波家と織田弾正忠家は良好な関係を築いていたと言えよう。

 加えて、信秀はこの時期、盛んに朝廷や足利幕府に献金を行っている。主筋を重視する信秀の姿勢がうかがえる。


 信秀は血気盛んな武将であり、野心家でもあったが、主筋を害する、いわゆる下剋上は全く考えていなかった。隣国美濃の斎藤道三と対照的である。

 あくまで彼が望んでいたのは、足利将軍最強と呼ばれた斯波武衛家の栄光を取り戻し、それを通じて足利将軍家の威光を復権し、従わない全国の賊どもを平らげて天下をやすんじることである。

 この考えは信秀の足枷となり、後に井ノ口の戦いの遠因となるが、織田家の窮地を救う事にもなる。




 さて、織田信秀は熱田を手中にした後、三河へも勢力を伸ばしている。


 織田家の主筋である斯波家と今川家、二つの強大な守護大名の狭間で板挟みになっていた三河の状況は複雑だ。

 三河の守護は吉良家である。そして駿河守護である今川家は吉良家の分家で、力関係は既に逆転していたとはいえ、吉良家は今川家の主筋にあたる。

 一方で、吉良家は遠江の浜松にも領地を持っており、遠江守護であった斯波家とは良好な関係にあった。


 応仁の乱の後、今川家が遠江守護に任ぜられ、北条早雲を先頭に今川氏親が攻め入ってくると、吉良家は奪われた浜松を取り返すため、尾張の斯波家に遠江出兵を依頼する。

 斯波家十三代当主義達が、守護代の織田大和守家の反対を押し切ってこの出兵に応じ、大敗北を喫したのは既に述べたとおりである。

 そしてこれに伴い、吉良家も急速に力を失っていく。


 代わりに勢力を伸ばしてきたのが、三河・安祥あんじょうの国人、松平家である。


 松平家は五代当主長親の時に北条早雲を撃退し、今川氏親の進軍を止めたことで一躍武名を上げたが、吉良家に変わって三河の実効支配を成し遂げたのは七代当主清康の時である。

 時に享禄二年(一五二九年)、那古野城奪還より九年も早く、信秀はまだ家督すら譲られていない時期だ。

 信長が尾張を統一したのが永禄八年(一五六五年)であるから、その三六年も前に三河統一がなされていたことになる。

 だが、清康はその勢力を尾張にも伸ばそうとしたところで、家臣の裏切りにあい、横死してしまう(守山崩れ)。

 

 松平家とその家臣団は代々猛勇で、織田家や今川家にも劣らず対等に立ち回ったが、同時にお家騒動に泣かされ続けて来た家でもある。


 清康が守山城(名古屋市守山区)で急死すると、長親の三男であり清康の叔父であった松平信定が、松平宗家の居城である岡崎城(岡崎市)を占拠してしまう。

 信定は更に清康の子(徳川家康の父)である松平広忠の殺害を試みたため、広忠は岡崎城を脱出し、伊勢に逃亡する。

 その後、紆余曲折を経て、広忠は今川家十一代当主の義元(九代当主今川氏親の子)を頼ることになる。

 そして今川義元の助力により、松平広忠は天文六年(一五三七年)に岡崎城に念願の復帰を果たし、八代当主として反対勢力の排除に成功するが、これにより松平家は今川家に大きな借りを作ってしまうこととなる。


 織田信秀が三河に侵攻を開始したのはこのような状況下であった。

 広忠が完全に三河を掌握する前に乱入して出来るだけ領地を切り取ってやると目論見たのだろう。


 天文九年(一五四〇年)六月、織田信秀は騎兵二千で古渡城を出立し、途中、刈屋城(刈谷市)の水野忠政の手勢千を加え、安祥城(安城市)を目指した。

 これに対し松平広忠は歩兵主体の千しかなく、織田軍の三分の一の寡兵であり、苦戦を強いられた。

 だが松平軍は善戦し、多くの死傷者を出しながらも一度は織田軍を退けることに成功する。


 その後、水野忠政は松平家に恭順する方針に転換し、娘(於大の方)を松平広忠に嫁がせた。後にこの於大の方と広忠の間に竹千代(後の徳川家康)が生まれることになる。

 だが、天文十二年(一五四三年)に水野忠政が死亡し、子の水野信元が家督を継ぐと、水野家は再び織田家に従う姿勢を示したため、於大の方は広忠から離縁されている。

 水野家はこの後も今川家に帰順したり、再度織田陣営に復帰したりと、目まぐるしく主君を変えているが、戦国時代では別に珍しい事ではない。


 さて、安祥城の攻略は一度は失敗したが、天文十三年(一五四四年)八月に松平長親(広忠の曽祖父)が亡くなると、織田信秀は松平家が喪に服している隙をついて再度攻め入り、安祥城を攻め落とすことに成功する。

 松平広忠が激怒したのは言うまでもない。

 そして、これにより織田家は三河岡崎城への貴重な橋頭保を確保できたのである。


挿絵(By みてみん)

【解説】

 本作品では古渡遷都を天文八年としていますが、時期については諸説あります。

 天文十三年(一五四四年)朝廷の勅使である宗牧を那古野城で迎えていること、天文十五年(一五四六年)に古渡城で信長が元服していることから、遷都をその間の天文一四年ごろとする説もありますが、古渡城は天文十七年には廃城になっており、築城後わずか三年で廃城にするというのは現実味が無い気がします。

 築城が天文八年、遷都が天文一四年と考えれば辻褄は合いますが、じゃあその間の城主(または城代)が誰かと言う問題が生じます。

 私見ですが、古渡城は貴人を迎えるのに適さない実戦向きの城であったため、宗牧を本城ではない那古野城で迎えたのではないかと考えます。

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― 新着の感想 ―
[一言] 解説の遷都は都を移す意味なので、この場合遷住とか移住で良いのでは? 尾張国内の都の意味としても、作中に尾張守護の斯波家が居や政所を移した訳ではないのだし。
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