七 大秋城帰還
ブックマーク&評価ありがとうございます。当面毎週日曜日と水曜日に更新、次回は11月1日0時に投稿予定です。
再度、重郎左衛門の視点に戻ります。今回は里帰り回です。
なお、前回作成した年表ですが、あまりにも見づらく、またこちらでの投稿管理もやりづらいので、別作品に外だししました。ご了承くださいm(__)m
「SSR武将に転生した腐女子ですが、見る専なのでおかまいなく・資料集」(https://ncode.syosetu.com/n6084go/)
天文十一年(一五四二年)初夏、数え六歳になった重郎左は、約束通り大秋城に戻ることを許された。晴れて人質生活から脱出である。
といっても、那古野城では例の「ノブナガ語」問題があり、重郎左としても那古野城での生活が決して嫌いではないので、今後は吉法師様の御伽小姓という扱いで、引き続き那古野城に住み込むことになる。
ややこしい話だが、重郎左は大秋城主として知行があり、かつ那古野城での近習としての俸給ももらえることになる。
重郎左は那古野城で常勤するが、大秋家自体は林様の与力であることに変わりないから、戦時になれば重郎左は引き続き吉法師様の側にいる一方で、大秋城は城代家老である森下弥右衛門さんが兵士を招集し、林様の指揮下に入ることになるわけだ。
この計らいには林新五郎が多大な尽力をしたことは言うまでもない。
なお、吉法師様の小姓は現在重郎左以外に二人決まっているらしく、一人は吉法師様の乳母の子の池田勝三郎さん。もう一人はまだ誰か聞かされていない。
何はともあれ、城主として一度は顔見せをせねば、ということで、吉法師様の許しを得て大秋城に向かった。
「で、これはなんでしょうか…」
「若様は舟を見るのは初めてでしたね」
「いえ、そうじゃなくてですね…」
那古野城の堀に小舟が待っており、それに乗るよう指示された。
重郎左は大混乱している。
仮に前世であれば、地下鉄市役所駅から名城線で栄駅まで行き、そこで東山線に乗り換えて本陣駅降車である。
陸路であれば外堀通りまで南下し、名古屋高速高架の下を西進する経路である。
水路は完全に理解の範疇外だ。
確かに、前世の名古屋市内でも堀川周辺では海運が無い訳じゃない。
しかし本陣に舟で行くという発想は無い。そもそも川が無い。
大秋城に直接舟で行けるんですよ、と船頭に説明され、半信半疑ながら乗り込むことにする。
なかさんには「舟は草紙で見ましたよ」と誤魔化しておく。
「若様は陸路の方が良かったですが?一里弱ありますけど…」
「さすがにそれはきついですね。舟で良いです」
前世ですら4kmも歩いたら死んじゃうのに、今の体じゃなおさらだ。
一応身長は三尺一寸(約九三cm)まで伸びたが、まだまだ同年代の男子と比べると小柄である。
一方、なかさんはへっちゃらなようだ。この時代の人たちは男女問わず健脚である。まだ車とか駕籠とかが無いのだから、当たり前と言えば当たり前か。
「馬に乗れれば良いんですけどね。吉法師様は五歳の時には既に馬に乗っていたそうですよ」
「いや、内藤様に英才教育受けてるじゃないですか。それに人には向き不向きというのがあるんです」
「でも、吉法師様の小姓になったら外出時について行かなければいけないんでしょ?」
「うぐぅ、そっちは勝三郎さんにお任せしたいなあ、私はインドア派なので」
「いんどあ?」
「あ、いや何でもないです…」
。
重郎左と乳母のなかさん以外には護衛の杉原さんと安井さんがいる。
他にも林さんの計らいで、那古野城から護衛の足軽さんが二人ついて来てくれている。
たかが二人に護衛四人って大仰じゃね?と思ったが、この時代は当たり前らしい。
女子供が少人数で出歩いていたら命の保証はない。
六人が二隻に分かれて乗り込むと、ゆっくりと舟が動き出す。
(うわあ…)
重郎左は外の景色に息を飲んだ。
四年ぶり、というかこちらの世界に来て初めて那古野城の外に出たわけだ。
そこは前世の記憶とは全く違う、文字通りの別世界だった。
緑が青々と茂っており、低木や色鮮やかな草花が川と道の周縁を彩っている。
それでも木造平屋の民家がそこそこの数立ち並んでおり、人の営みがあることを主張していたが、前世とは圧倒的に自然の密度が違う。
前世で言えば、この場所は官庁街であり街路樹が豊富で、都会暮らしの亜希子の基準からすれば、決して緑は少なくなかった。
だがここには左右八車線のアスファルト道路は無い。その脇にならぶコンクリートの建物も無い。
自動車のエンジン音の喧騒の代わりに、ここにあるのは聞いたことも無いような鳥の声と虫の声。川は魚がたくさんいるのだろうか。水面に影がしきりに動いており、ときおりポチャという音が聞こえる。
重郎左はなかさんにもたれかかるように体をあずけ、空を見た。澄み切ってどこまでも青い。
地上の建造物はともかく、空は前世と変わらないはずなのに、明らかに青の深みが違う。大気汚染とかそういうのも影響しているのだろうか。
しばらくすると、徐々に木々と民家の密度は減っていき、代わりに水田が目に付くようになる。
「右側の集落が押切村、その向こうはもう春日井郡で、児玉村、堀越村、名塚村、稲生村と続きます。庄内川までずっと水田が続いているんですよ」
重郎左はなかさんの説明に聞き入っていた。前世でも馴染みのある西区の地名だ。聞き覚えがあるから、するっと耳に入ってくる。
「左側は?」
「あれが名古屋村ですね。更に南に行くと廣井村、米野村、露橋村、二女子村、五女子村、牛立村と海まで続きます。そこまで行けば川の対岸に熱田の湊が見えますね」
重郎左はふんふんと地名を聞きながら、いきなりガクッと来た。
中村区、中川区と来て、次港区の地名が来ると待ち構えていたら、そこでいきなり海と言われたからである。どうやらそこらへんが今の海岸線らしい。国道一号線はまだ海の底ということか。
「前に見える二つの村は?」
「右側が栄村で、左が中野高畑村です。そこを通り過ぎればお城がある大秋村ですよ」
栄?なぜ中区がいきなり出てきたし?と訝しんだが、地図を思い出し、ああ「栄生」ね、と思い当たった。
中野高畑は聞いたことが無い。中野も高畑も中川区の地名だが、たぶん位置的にそれらとは関係なく、亀島か則武あたりにかつて存在した村なのであろう。
自分もなかさんもおしゃべり好きだ。
那古野城にいるときも色々な話をした。だから大秋城のことも聞かされていて十分に予備知識を得ていたつもりではあったのだが、いざ目にすると色々驚きで声が出ない。
何というか、前世の知識がしきりに邪魔をして目の前の現実を受け入れることを阻害しているのだ。
周囲は一面水田で、合間を縫うように大小の川がたくさんある。
前世の記憶では、大秋町がある本陣学区に田んぼも川も無い。民家とマンション、低層ビルが所狭しと密集する住宅街だ。
田舎か都会かと言われれば、間違いなく都会の方である。なにせ名古屋駅ツインタワーまで徒歩で行ける距離だ。
その記憶の中の住宅街と、目の前の、のどかで静かな田園風景が同一のモノだと言われても理解できるはずもない。
それらの中に一際大きな建造物がある。外側の掘も含めれば中村区役所の敷地と同じぐらいか、もっと大きいかもしれない。
もちろん現在の名古屋城のような石垣天守閣みたいなものではなく、塀がかなり高い武家屋敷というのが一番しっくり来る。
とはいえ、西側以外の三方向は川になっていて、残る一方も広い堀があるので、盗賊とかが盗みに入ろうとしたらかなり苦労するだろう。
堀の外側には大秋村の民家が取り囲むように並んでいる。
「驚きましたか?」
なかさんは何故か得意げだ。
乳母のなかさんは、家老の森下弥右衛門さんの妻なので、ここは自宅のようなものなのだろう。
それを言ったら重郎左も同じなのだが、何せここで過ごした記憶が全くない。
「ええ、かなり…」
恐らくなかさんが考えているのと、重郎左が実際に驚いたのは別の要因なのだが、そこにはあえて触れない。
「那古野や古渡のお城にはかないませんけどね」
「流石に弾正忠様のお城と比べるのは失礼でしょう」
しがない一国人領主の城と尾張守護をも遥かに凌駕する勢いの戦国大名の城とを比べる事自体がナンセンスであるが、それにしてもあれは異常だ。使ってる額の桁が違うだろう。金銭感覚がおかしい。あれと比べてはいけない。
堀の外側にある船着き場でいったん舟を降り、かかっている橋を渡ると、番兵が門を開けてくれ、本丸の主殿の方へ案内された。
「おかえりなさいませ、よくぞご無事で。家臣一同お待ち申していました」
「ありがとう、皆さん面をあげてください」
なんかホストクラブ状態だな、と邪なことを考えながら、重郎左は家老の森下弥右衛門昌吉さんと家臣たちに声をかけた。
家老の弥右衛門さんは四十代だが、皺と白髪が多く実年齢より老けて見える。苦労人なのだろうか。
大秋家はもともと今川家に属していたが、この大秋城を立てるにあたり、現地の人を多く召し抱えたらしい。弥右衛門さんもその一人なのだとか。
一方なかさんは御器所村(名古屋市昭和区)の豪農の娘だそうで、どうやって知り合ったのか、一度じっくり聞きだす必要がありそうだ。
その後は重臣の紹介と現状報告だけで時間が過ぎてしまい、夜になって宴が開かれることになった。
皆久しぶりの城主の帰還を心から喜んでいる。
それに、自分たちの城主が弾正忠家の跡取りに直接仕える身分と言うのが誇らしいそうだ。
「弥助といいます。若様は随分大人びてらっしゃる。驚きました。まるで元服された武将が話されてるようだった。吉法師様の小姓に抜擢されたのも納得です。これで大秋家は安泰です」
「は、はは…ありがとね」
名前を覚えてもらおうと、家臣が代わる代わるやって来るが、流石に覚えきれない。
「それに随分可愛らしいお姿でいらっしゃる!」
「そ、それはあまりありがたくないかな…」
「やい弥助、お前酔ってるだろう。無礼講の席とは言え、若様に失礼を働いたら承知せんぞ」
「おう、言葉を返すようだが、お前は若様が可愛らしいと思わんのか」
「うーん…。可愛いな!文句なしに可愛い!」
「いや、ありがたくないですから!」
その日は旅の疲れと変な絡まれ方をした気疲れもあって、早々に床に就いた。
翌日は朝早くから領内の大秋村(大秋町)、中島村(中島町)、中野高畑村(亀島・則武)、栄村(栄生町)の各有力者達の挨拶を受けた。
大秋家の領地はこの四つの村で、ざっくり三千石の知行である。
午後からは城の北西にある八幡社に連れられて、そこで袴着の儀を行った。
現在でいう所の七五三の五歳行事である。諸事情あって一年遅れだが、まあ発育が悪いからちょうど良いのかもしれない。
その後、境内で伝統芸能である梯子獅子を鑑賞した。高さ四丈(十二m)の梯子の上で二人一組で演じられる獅子舞だ。
前世でも大秋八幡社の例祭で演じられていたが、昭和の時代に断絶したらしい。梯子獅子自体は豊明町の大脇神社に引き継がれて存続しているとか。
そのようにまちづくり推進室の担当者が説明していたのを記憶している。
こうやって実演されているのを見たら、本人は泣いて喜ぶだろうなあと、重郎左は眺めながら考えていた。
なお、その担当者が「梯子獅子復興プロジェクト」なる事業の予算を計上してきたが、前世の亜希子が血も涙もなくバッサリ切って却下したのは内緒だ。
夕刻、主殿に戻る前に、城内の敷地の一角に設けられた、墓所に案内された。
自分の両親の墓と説明された。と言っても遺体がここに埋められているわけではない。
この時代、衛生上の理由から遺体は別の遠方の場所に埋葬するのが一般的だ。
だから墓も精神的なものである。
重郎左が墓に向かって手を合わせると、背後から家臣たちのすすり泣くような声が聞こえてきた。
「父はどのような方だったんですか?」
「御屋形様はこの大秋村をこよなく愛されていました。それはもう、自分の生まれ故郷のように」
弥右衛門さんが少しずつ語りだす。
「しかし、昔の事は余り多くを語られませんでしたな」
父の重秀は遠江頭陀寺城(浜松市南区)を拠点とする松下家の庶子らしい。
松下家は代々今川家に仕えており、詳細な経緯は不明であるが、那古野今川家復興の際に今川氏豊の家臣となり、この大秋村に城を建設し、併せて八幡社を建立して熱田から宮司を招いた。
その際に、姓も大秋に改めたとのことである。
先に述べた通り、この地で初めて城主となった重秀は家臣がほとんど居なかったため、領内から募った。
なので、大秋家は一時期今川方に属していたとはいえ、家臣はほとんどが地元の住人である。
重秀の妻、つまり重郎左の母については残念ながら何も分からない。
遠江時代からの連れ添いであるが、病弱で家臣の前にもほとんど姿をみせず、重郎左を生んだときに亡くなってしまい、侍女も遠江の実家に帰ってしまったので、人となりを知るものがいないそうだ。
そして側室も居なかったため、現在大秋家は重郎左ただ一人しかいない。
なので、家臣たちにとってみれば重郎左は大切な大秋家の忘れ形見なのだが、正直自分にはこちらの世界での両親に何の感傷もない。
だが、自分を慕ってくれる家臣達は悲しませたくないな、と思った。
更に翌日、午前中に兵士たちの訓練稽古の視察や勘定台帳の閲覧などを行い、午後には家臣に見送られながら、那古野城への帰途についた。
重郎左が往路と違い帰路は言葉少なげなので、なかさんの方から声がかかってきた。
「若様、大秋城はいかがでした?」
「うーん」
重郎左は、少し考え込んでから返答する。
「正直、いきなり三千石の城主とか言われても実感がわかないですね」
「まあそうでしょうね」
「ただ、自分の双肩に多くの家臣の命と生活がかかっているというのは実感できたので、しっかりやらなければと思いました」
数え年六歳児には似つかわしくない返答に、なかは「まあ」と声をあげる。
「そんなに難しく考えなくても大丈夫ですよ、若様は優秀ですし皆にも信頼されてますから」
「そうでしょうか」
【解説】
大秋家や大秋城についての歴史的記述はほとんどなく、今回の内容はほとんどが創作です。
大秋城跡で古地図を眺めながらぼーっと五〇〇年前の景色を想像して書きました。当時の中村区は縦横無尽に川が流れており、水運が発達していたと思われます。
当時勝幡城は津島湊から直接船で乗り入れ出来たそうです。大型船はさすがに無理ですが、小型の船であれば、庄内川から大秋城、那古野城ぐらいまで水路で行けたのではないかと想像します。




