第1話 祝福の拳、救いの手
深層ダンジョン『紅蓮の竜穴』の最奥。
岩肌が赤く焼け、熱気と硫黄の匂いが充満する広場では、絶望の悲鳴と凶暴な咆哮が交錯していた。
「くそっ……! 硬すぎる……! 僕の剣じゃ、皮膚すら傷つけられない……!」
前衛の剣士・レオンは、亀裂が入った大楯を構えながら吐血した。
彼ら――中堅冒険者パーティ『銀翼の風』が対峙していたのは、このダンジョンの主だった。
広場を塞ぐように立つ竜は、肩がレオンの頭より高く、長い尾を地面に這わせていた。
その全身は、岩石をも超える硬度を誇る黒褐色の鱗に覆われていた。
一瞬で鉄すら溶かす灼熱のブレスを吐く、深層ダンジョンの奥に棲む暴君――ファイアドラゴンである。
「レオン! 今、癒やします……! 【治癒】!」
聖職者エミリアが祈りを捧げると、柔らかな緑の光がレオンの傷を包み込む。
しかし、深い裂傷は完全には塞がらず、体力もほとんど戻らなかった。
「ごめんなさい……もう魔力が……」
最後の治癒魔法を放ち終えたエミリアは、その場に膝をつき、震える手で胸元の十字架を握りしめた。
「レオン、下がって! 水の精霊よ、力を貸して! 『氷槍弾』!」
少女の魔力を受けた精霊が氷槍を放つ。だが、ドラゴンの鱗に触れた瞬間、ジュッと蒸発して消え去った。
「ガアァァァァァァッ!!」
ドラゴンが太い尾を薙ぎ払う。凄まじい衝撃波が広場を襲った。ローグの青年は脚を折られ、壁に叩きつけられる。精霊使いの少女も、先ほどの魔法で魔力を使い果たし、膝をついた。
聖職者エミリアは仲間を治そうと手を伸ばす。だが、魔力を使い果たした彼女に、もはや癒やしの奇跡は起こせなかった。
「ここまで……なのか……みんな、すまない……」
レオンは砕けた盾を握りしめ、襲い来るドラゴンの太い前脚を見上げた。もはや逃げ場はない。
その時だった。
バサバサバサッ……!
暗く熱気に満ちた洞窟の天井から、無数の純白の羽がふわりと舞い降りてきた。
重苦しい竜の威圧感を一瞬で霧散させる、神聖で温かな光が広場全体を満たしていく。
「恐れることはありません。この身と聖なる加護が、あなた方を脅かすあらゆる悪意を退けます!」
凛とした、それでいて鈴の音のように可憐な少女の声が響く。
レオンたちが目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
長い銀髪と金色の瞳を持つ、小柄なシスターだった。頭の両脇には翼を模した白い羽飾りがあり、背には天使を思わせる純白の羽飾りが揺れている。青と金の刺繍が施された法衣をまとい、華奢な身体には不釣り合いなほど大きな黄金の十字架を背負っていた。
「せ、聖職者……!? なぜこんな深層にシスターが一人で……!?」
「危ない、逃げてください! 精霊の魔法でも傷一つ付けられなかった相手です! そいつの鱗は魔法も剣も通りません!」
レオンの決死の叫びを、少女は静かに片手を上げて制した。
愛らしい顔立ちに凛々しい表情を浮かべると、胸元で静かに祈りの手を組んだ。
「ご安心ください。私は教会所属の聖職者――アイリスと申します」
アイリスは小さく一礼し、柔らかな笑みを浮かべた。
「必ず皆様をお救いいたします」
そう告げると、アイリスは祈るように瞳を閉じた。
「【筋力強化】」
「【金剛加護】」
眩い古代ルーン文字が少女――アイリスの周囲に浮かび上がり、光の旋風となってその身体へ吸い込まれていく。
重ねられた神聖な加護が、小柄な身体に力を宿していく。
「――神は、人々を守る力を授けてくださいます。その力を、私は決して無駄にはしません」
アイリスは背負っていた黄金の十字架を引き抜き、両手で構えた。
その時、不快そうに咆哮したドラゴンが、アイリスに向かって太い前脚を振り下ろした。
ドドッバァァァン!!!
岩盤が爆砕し、激しい土煙が上がった。
「あぁっ……!」
精霊使いの少女が悲鳴を上げる。
しかし、土煙が晴れた先でレオンたちが目にしたのは――
ドラゴンの前脚を、アイリスが黄金の十字架で受け止めていた。
足元の岩盤には亀裂が走っている。それでも、その小さな身体は揺らがない。
ドラゴンは信じられないものを見るように目を見開いた。
「私は、人々を救うために聖職者になりました」
アイリスは十字架の柄を握り直し、全身に力を込める。
「そして、神が私に与え給うた最高の解法とは――物理です!」
言葉の終わりと同時に、アイリスは黄金の十字架を押し上げた。轟音とともに、ドラゴンの前脚が力任せにはじき返される。
地を蹴るアイリス。
爆音だけを残し、その姿が視界から消えた。
彼女はドラゴンの頭上高くへと跳躍すると、背中の羽飾りをなびかせ、身の丈ほどもある黄金の十字架型メイスを両手で高く掲げた。
「――スマッシュ!」
ズガァァァァァァン!!!!
凄まじい轟音とともに、洞窟全体が大きく揺れた。
黄金の十字架型メイスがドラゴンの脳天を直撃した。
凄まじい衝撃に巨体が地面へ叩き伏せられる。
「ギャアアアッ!?」
悲鳴にも似た声を最後に、ドラゴンはそのまま動かなくなった。
暴君と呼ばれた大竜は、ただ一撃で完全に沈黙した。
「これで一件落着ですね」
アイリスは満足そうに頷き、くるりと着地して法衣の裾を整えた。
呆然と口を開ける冒険者たちのもとへ歩み寄ると、彼らに向かって静かに祈りを捧げた。
「【高位治癒】」
温かな緑の光が溢れ出し、冒険者たちの負傷が次々と癒えていく。
治療を終えると、アイリスは討伐の証に、ドラゴンの胴から大きな鱗を一枚剥ぎ取った。
「大きな魔法は詠唱に時間がかかりますし、耐性を持つ魔物も少なくありません。でしたら、先に頭部を打撃で沈黙させるのが最も安全で確実なのです」
レオンたちは顔を見合わせ、頼もしすぎる「物理系聖職者」の圧倒的な存在感に、ただ深く頷くことしかできなかった。
深層ダンジョン『紅蓮の竜穴』から無事に生還した『銀翼の風』の四人。
その先頭を、鼻歌まじりの軽やかな足取りで歩くのはアイリスだ。
彼女は、討伐したファイアドラゴンから剥ぎ取った大きな鱗を両腕で抱えていた。
冒険者ギルドの重厚な両開きの扉が、豪快に開け放たれた。
「こんにちはー! ファイアドラゴンの鱗を、討伐の証として持ってまいりました!」
元気いっぱいなアイリスの声とともに、彼女がカウンターへ置いたのは、盾ほどの大きさがある黒褐色の鱗だった。
大盛り上がりだったギルド内は、一瞬で水を打ったように静まり返る。
「こ、この鱗……まさか、深層ダンジョンの主のものか!?」
「見ろよ、この大きさ……本当にドラゴンを討伐したのか!?」
「っていうか、あの鱗を抱えてきたの、あの小さなシスターかよ!?」
受付嬢のクララが青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「ア、アイリス様……!? こちらの鱗は、まさか……!?」
「はい! 『銀翼の風』の皆様が窮地に陥っていらっしゃいましたので、救援に入り、ドラゴンを討伐してまいりました!」
胸を張るアイリスの後ろで、『銀翼の風』の四人が申し訳なさそうにペコペコと頭を下げている。
「あ、はい……僕たち、アイリス様に命を救われまして……。ドラゴンを一撃で叩き伏せ、その後すぐに僕たちの傷を癒やしてくださったんです」
「一撃でドラゴンを……!?」
ギルド中の視線が、アイリスの華奢な腕へ一斉に集まる。
「その細腕で……?」
「はい!」
アイリスは持っていた黄金の十字架型メイスをゴトン、と床に突いた。
それだけでギルドの頑丈な石床がミシリと嫌な音を立て、そこに亀裂が走った。
「聖職者たるもの、傷ついた人々を守るための力《物理》と、癒やすための慈愛の両方を兼ね備えていなければなりません。力なき善意は無力ですから!」
清々しいほど自信に満ちたアイリスの言葉に、周囲の筋肉自慢の戦士たちが思わず後ずさりした。
「それにしても……本当に助かりました」
別れ際、レオンが改めて頭を下げる。
「アイリス様が来てくださらなかったら、僕たちは間違いなく全滅していました」
「いえいえ! 皆様がご無事で何よりです!」
アイリスは満面の笑みを浮かべる。
「ですが、次からはもう少し余裕を持って撤退してくださいね?」
「……肝に銘じます」
レオンたち四人は揃って頷いた。
こうして、『銀翼の風』を救出したアイリスの一日は終わった。
そして、その日以来。
冒険者たちの間では、一つの噂が広まることになる。
曰く――
深層で絶体絶命の窮地に陥った冒険者たちの前に、一人の小柄なシスターが現れた。
彼女は巨大な十字架を振りかざし、深層の主たる大竜をただの一撃で沈黙させたという。
――『祈るより先に、巨大な十字架が飛んでくる』。
後に『神槌の聖女』と呼ばれることになる聖職者、アイリス。
これは、そんな彼女の物語である。




