第75話 バレンタイン前夜、感情は溶ける
安藤は、深夜のファミレスで起きた“チョコの定義崩壊”について、仕事終わりに来店したモモコにそのままを報告した。
「あんたたち何やってんのよ!?」
第一声がそれだった。
「チョコに意味がないって!?じゃあ何で殴り合うのよ女は!!」
「殴り合いなんですか……?」
「バレンタインは戦争よ」
断言だった。
そのままモモコは腕を組み、しばらく考え込んだあと、ぱっと顔を上げる。
「決めたわ。作るわよ」
「え?」
「ちゃんと“意味のあるチョコ”を」
そうして、なぜか女子会が開催されることになった。
場所は姫川の部屋だった。
フリルとリボンとクッションが多すぎて、床のどこに座っていいのか分からない。棚には謎に整列されたレシートや、メモ帳が並んでいる。
「これ全部、雨露さん関連なんです」
「やめなさい」
モモコは即座に制止した。
「怖いのよ、情報量が」
「愛です」
「圧よ」
安藤はその横で、すでにチョコレートの袋を開けている。
「これ、普通に美味しいですね」
「まだ作ってないでしょ!?」
「味見です」
「早いのよ!!」
キッチンはすぐに戦場になった。
「いい?チョコは温度が命なの。テンパリング、大事」
モモコが真剣な顔で説明する。
「感情と同じよ。雑に扱うと、全部台無しになる」
「今、42度ぐらいです」
安藤が温度計を見ながら言う。
「高すぎよ!!それじゃ感情暴走してる状態よ!!」
「私、常にその温度かもです」
姫川が真顔で言った。
「知ってるわよ!!」
モモコのツッコミが飛ぶ。
「本命チョコって、“想いの重さ=カカオ濃度”ですよね?」
姫川はすでに混ぜる手を止め、どこか遠くを見ている。
「違うわよ。重いのはあんたの感情よ」
「じゃあ95%くらいで……」
「苦いわよ!!」
「でも、その苦さも含めて愛かなって……」
「相手の舌を殺す気?」
安藤が横で、もぐもぐしている。
「これ、ちょっと甘さ足りないかもです」
「食べる前提で話さないで!!」
姫川はすでに“渡すシミュレーション”に入っていた。
「“これ……受け取ってくれますか?”って言って……」
「まだ固まってもいないのよ」
「雨露さんが一瞬黙って……」
「だいたい想像つくわ」
「“業務外での評価は控えておりますので”って言われて……」
「言うわね」
「でも私、諦めませんからって……」
「長期戦なのね……」
安藤が手を止めずに頷く。
「なんかドラマですね」
「食べながら言うな」
時間が経つにつれて、状況はさらに悪化した。
安藤のチョコは明らかに量が減っている。
「それ、最初の半分くらいになってない?」
「え?あ、ほんとですね」
「ほんとですね、じゃないのよ」
「でも味はいいですよ?」
「完成してないのよ!!」
姫川のチョコは、装飾が増え続けていた。
「これ、ハート多すぎない?」
「想いの量です」
「物理で表現しないで」
「リボンもつけます」
「もうチョコじゃないわよ」
そしてモモコ。
最初は完璧だった。
艶のあるチョコ、均一な形、見事な仕上がり。
しかし途中から、二人のカオスに巻き込まれ、無言でチョコを量産し始めていた。
「……あれ、それ何個目ですか?」
「知らないわよ」
「誰にあげるんですか?」
「……」
モモコは一瞬止まる。
それから、ふっと笑った。
「配るのよ」
「え?」
「義理チョコ。全員分」
「え、モモコさんが?」
「うるさいわね。戦略よ」
「戦略なんですか」
「いい?本命なんてね、重すぎるのよ」
チョコを流し込みながら、モモコは淡々と言う。
「だったらまず、軽くばら撒くの」
「ばら撒く……」
「そうやって関係を繋いでくのよ」
姫川がぽつりと呟く。
「じゃあ、本命って……」
「残ったやつよ」
「選別されてる……」
やがて、それぞれのチョコが完成した。
安藤は半分減っているが満足げだ。
姫川は異様にキラキラしている。
モモコは大量だ。
「……これ、義理なんですかね」
安藤がぽつりと呟く。
「違うわよ」
モモコが即答する。
「本命です」
姫川が言う。
「じゃあ私のは?」
「それは……生活ね」
「生活チョコ!?」
「生きるための甘さよ」
「深いですね……」
しばらくの沈黙。
そしてモモコが、ふっと笑う。
「でもまあ」
「はい?」
「結局、全部“配布”になるのよね」
「え」
「だって、渡した時点で相手の解釈になるでしょ」
「あー……」
「だからもう、好きに受け取らせればいいのよ」
姫川は少しだけ考えてから、頷いた。
「じゃあ、渡します」
「頑張りなさい」
「はい!」
安藤が手を挙げる。
「私も持っていこうかな」
「誰に?」
「とりあえず全員に」
モモコが即座にツッコむ。
「それもう配布じゃない!!」
バレンタイン前夜。
感情は溶けて、形を失い。
それでもチョコは、誰かの手に渡る。




