第74話 甘い季節に、意味は溶ける
二月も半ばに差し掛かると、深夜のファミレスにも甘ったるい気配が紛れ込む。
入口脇には、いつの間にか小さなチョコレートの販促棚が設置されていた。昼間の名残なのか、やけに華やかで、しかし、深夜二時の店内では少しだけ浮いていた。
カウンター席で、宮間がストローをいじりながら呟いた。
「……義理チョコって、どこまでなんでしょう」
その声は小さいが、静かな店内では妙に響いた。
「範囲の話ですか。それとも定義の話ですか」
雨露がグラスを拭きながら、間髪入れずに返す。
「え、えっと……どっちも、です」
「曖昧な問いですね」
言い切ると同時に、文月が隣の席でふっと笑った。
「いや、それはむしろ良い。曖昧さの中にこそ、本質は潜むものだよ」
「始まりましたね」
「義理とは何か。チョコとは何か。そして、それを渡すという行為は、果たして単なる慣習なのか、それとも意思表示なのか」
文月は紙ナプキンを一枚取り出し、テーブルの上に広げる。
「例えばこの紙ナプキンをチョコと仮定しよう」
「先生、一日一枚までですからね」
「いいかい宮間くん。
人は物に意味を付与することで関係性を定義する。つまり、チョコは物質ではなく、記号だ」
「き、記号……?」
「そう。そこに込められるのは、好意か、義務か、あるいは無関心か」
「無関心なのに渡すこと、あるんですか……?」
「あるよ。むしろそれが義理の本質だ」
「怖いこと言わないでください……」
宮間はストローを強く噛んだ。
厨房の方から、軽い足音が近づいてくる。
「ねえねえ、今バレンタインの話してるんですか?」
トレーを抱えた安藤が、興味津々といった顔で割り込んできた。
「してますよ。正確には、定義が崩壊しています」
「え、もう崩壊してるんですか?」
「はい。復旧の見込みはありません」
「早いですね」
安藤は笑いながら、宮間の前にドリンクを置いた。
「宮間さんは、チョコもらえそうですか?」
「え、いや、その……僕は……」
「顔でわかりますね」
「や…やめてくださいよ」
そこへ、やや遅れて菅原が現れる。
「なんか楽しそうな話してますねー」
「義理チョコの話です」
「いいっすね。俺、全部本命だと思って受け取ってましたよ」
一瞬、空気が止まる。
「それは……どういうことですか」
雨露の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「いや、だってチョコくれるってことは、多少なりとも好意あるじゃないですか」
「飛躍が過ぎますね」
「え、違うんすか?」
「違いますね」
「じゃあ何なんすか?」
「配布です」
「配布!?」
宮間が思わず声を上げる。
「イベントにおけるノベルティのようなものです。深い意味はありません」
「そんな……」
「いやでも、それなら逆に安心じゃないですか?」
菅原はケロッとした顔で続ける。
「もらえなくても、別に嫌われてるわけじゃないってことですよね?」
「それはそうですが」
「ほら、救いあるじゃないですか」
「いや、でも……もらえないってことは、配布対象にも入ってないってことですよね……?」
「あー……」
菅原が視線を逸らした。
「対象外……」
宮間の肩が落ちる。
「社会的に死ぬんじゃ……」
「死にません」
雨露が即答する。
「安心してください。少なくとも当店では、チョコの有無で生死は判断しません」
「当店では、って……」
「他所は知りませんので」
「怖いなあ……」
安藤が苦笑いしながら、手を叩いた。
「じゃあ、あまり難しく考えなくてもいいんじゃないっすか?」
「思考停止を推奨するのは感心しませんね」
「だって、楽しくないですし」
安藤は少しだけ頬を膨らませる。
「チョコって、“あげたいからあげる”でいいと思うんですよね!」
「動機としては最も単純で、最も説明が難しいやつですね」
「そうなんですか?」
「“なぜあげたいのか”を問われた瞬間、破綻します」
「じゃあ、聞かないでくださいよ!」
「私は聞いていませんが」
文月がふっと笑った。
「いや、いいね。それが一番健全だ」
「そうですよね?」
「理由なき行為。衝動。そこにこそ、人間の本質がある」
「また難しくしてますね……」
安藤は呆れたように笑うと、くるりと踵を返した。
「少し待っていてください」
そう言って、奥へ引っ込む。
数分後。
安藤は小さな袋をいくつか抱えて戻ってきた。
「はい、これです!」
ぽん、とテーブルに置かれる。
「え?」
「え?」
「え?」
三人の声が重なる。
「えっと、何ですかこれ」
「チョコレートです!」
「見ればわかりますが」
「先ほどのお話的に、ですね」
安藤はにこっと笑う。
「みなさんに、お渡ししたいなと思いまして」
沈黙が落ちる。
文月がゆっくりと袋を持ち上げる。
「……これは、何のチョコかな」
「えっと、普通のものです」
「また例のバイト先のですか?」
「はい!」
「義理かい?」
「うーん……」
安藤は少し考えてから、首を傾げた。
「わかりません!」
「曖昧ですね」
「でも、“あげたいからあげる”ですので」
「……なるほど」
文月は小さく笑った。
「完全に定義から外れている。だからこそ、純粋だ」
「え、褒められてます?」
「一応」
宮間はおそるおそる袋を手に取る。
「あの……僕も、もらっていいんですか」
「もちろんです、宮間さん」
「対象外じゃ……」
「入ってますよ」
「……よかった……」
心底安堵したように、宮間は袋を握りしめた。
菅原はすでに包みを開けている。
「うわ、普通にうまそう」
「早いですね」
「いやだって、もらったら食うじゃないですか」
「感情が軽いですね」
「深夜っすから!」
「便利な言葉ですね、それ」
雨露は最後に一つ、袋を手に取る。
しばらく見つめてから、ポケットにしまった。
「雨露くんは食べないの?」
安藤が首を傾げる。
「後でいただきます」
「なんで?」
「業務中ですので」
「あ、なるほど」
「当然です」
店内に、ゆるやかな空気が戻る。
チョコの甘い匂いが、わずかに漂っている。
「結局、義理チョコって何なんでしょうね……」
宮間がぽつりと呟く。
「さあ」
雨露はグラスを棚に戻しながら言う。
「定義は崩壊しましたので」
「じゃあもう、何でもありってことですか?」
「そうなりますね」
「怖いなあ……」
「ですが」
雨露は一拍置いてから、淡々と続けた。
「少なくとも、本日分に関しては」
視線だけでテーブルを示す。
「問題ないのではないでしょうか」
誰も否定しなかった。
深夜二時。
ファミレスは、いつも通り営業している。




