一部 ウルフマンvsブラックウルフ
第一章 ウルフマン
知っている限りにおいて、ウルフマンは、少なくともぼくの一つか二つ上の代まではこの国における、完璧なヒーローだった。ぼくの代からだ。ウルフマンの名を汚すようになってしまったのは。
警部補は死体になり、ぼくはこうして次の相方を探すことに。場に居合わせた警察官たちは皆、ウルフマンに優しい。ヒーローには繊細で傷つきやすい子が多いので、彼らはぼくに優しく接してくれる。ただそれだけなのだ。それからぼくは、ウルフマンのコスチュームを着替え、狼くんのもとへ急いだ。ゾウさんはまだ居た。狼くんも一緒だった。二人は街のラジオから流れる、ウルフマン任務失敗のニュースを聞いて、落胆しているようだった。
ぼくはここではワンちゃんだ。ウルフマンではない。ウルフマンは秘密を持って生きることが任務だ。そして生涯、一匹狼でい続けることも。この秘密を誰かに漏らしても、ウルフマンをやっていくことは確かにできる。が、その「ありのまま」を人に見せることは、まともなウルフマンならしない。ウルフマンとは愛称のようなものだが、ぼくにはそれが本名の「ワンちゃん」より、もっと自分らしく感じる。
ウルフマンはその〝嗅ぎ取り〟の能力で不幸になった人間の匂いを嗅ぐ。その不幸をウルフマンは自己の責任と思い、行動していた。ウルフマンはバタフライ効果の信奉者でもあった。自分の発した声や行動が、何キロも離れた誰かの運命を左右していると考える――それは罪であり、時に恩寵を与えることでもあった――あの家族の中で、神学に興味を持ったのは、つまり、ぼくだけだった。ウルフマンは思う。あの話以来、皆はぼくがカルトに走ったと思い込んでしまった。そう思い込む根拠が無いわけではなかった。ウルフマンの力の源は言葉だ。言葉を〝吠え〟ることで、それに見合った能力を使うことが出来る。言霊のことを、ぼくはまだ、すべてよく理解している訳ではないが、それは当たり前のように皆が使っている力であり、世界に直接訴えることのできる力だ。だからこそぼくは恐ろしくなる。
罪や恩寵の存在を身近に感じて生きることは良くないことだが、それ故に、ぼくはウルフマンなのだ。
狼くんがワンちゃんに戻ったぼくに、どうしたの? と言った。ひょっとして何か食べてきたの?
どうしてそう思うの? ぼくは尋ねた。
何か難しい、複雑なことを考えていたんでしょう? ゾウさんが話しに割り込んできた。
いや、そんなことはないよ。
いや。ゾウさんは言った。その顔は難しい顔です。私も、バナナが食べたくなりましたよ。それからゾウさんが提案した。長い鼻で角の向こうを指し、皆でファミレスに行きましょう。
*
指令が下った。マッドサイエンティストの《シャーマン》を襲撃し、殺害せよ、という命令だった。山の上の丘に登ると、それからぼくは〝吠え〟た。一概に吠えると言っても、この〝吠え〟には、人間にはおそらく分からない物語が、狼の言葉で織り込まれている――そして、狼の呼び声は縁起の悪いものと、古来から相場が決まっているのだ。ぼくは《シャーマン》の名前を〝吠え〟た。ぼくに名前を吠えられて、逃れることが出来た人間は今までいなかった。かならず――なぜだろう?――落命してしまうのだ。吠え続けるうちに、ぼくは悲しくなった。こんな宿命は、いつか断ち切られなければならないのだ。〝吠え〟ている内、ぼくの聴覚が冴えてきて、町の人々の声が聞こえてきた。
それはしかし平和だった。全ては錯覚に過ぎないのだろうか? そう思った矢先、ぼくの鼻に重油の臭いが飛び込んできた。助けてウルフマン! 声がした。一吠えすると、ぼくは跳ねるように山を越え、海へと向かった、タンカーが割れて、今まさに海に沈みつつある光景がぼくの目に映った。助けなければ! しかしタンカーをどうやって? 岸辺に駆け寄ると、破損したタンカーからこぼれ出た重油が、だくだくと流れ出て、海を汚しているのがすぐにわかった。海面は黒く染まっていた。月の光が重油を照らし、黒い海面は不気味に輝いていた。浜には人が集まり、声にならない声を上げていた。自然はこの国の宝だと、この国のどうぶつなら、幼い頃からそう教わっている。それが今汚されているのだ。この国は大打撃を受けるだろう。そのタンカーは人間が所有するものだった。
人間たちのその後のいい分も、大したものだった。人間の国では戦没者を悼む行事が開かれており、遠いどうぶつの国での出来事など、人間の国の政治家たちは気にかけていなかった。人間たちの議論は、責任の所在が誰にあるのかとその非難を声高に叫び合うだけに終わってしまうのだろうか? 人間たちはどうやら誠実さというものを失いつつあるように見えた。それはこの23世紀において、悲しいことに稀有な概念なのだった。
*
やがて決行の日がやって来た。《シャーマン》を殺す。〝嗅き〟殺す。それからぼくは準備をした。新しく新調したコスチュームを装備すると、その上から犬用のシャツを羽織り、向かう前に、ぼくはドッグ・カフェに向かった。ぼくの向かったそのドッグ・カフェは居心地がよく、ぼくが始めてこのカフェを見つけた時には、運命のようなものさえ感じられた。その店には最高のガムが置いてあり、これを噛みながら、何時間でもダラダラして過ごすのが、ぼくはとても好きだった。
犬用ガム一本。ぼくは店の者にそう言い、自分は狼なのにな……、と、そこはかとない屈辱を感じていた。しかしぼくはよだれを垂らしながら、頼んだ品物がやって来るのを待った――この店のガムは歯ごたえがじつに絶妙なのだ――。その内、テーブルにガムがやって来た。どうぞお召し上がりください。店員の女の子が言った。
だが、その時、匂いがした――強烈な屍臭――。ぼくが〝吠え〟ると、新調したばかりのコスチュームが自動的に身にまとわりついた。敵の攻撃は、ぼくが変身したと同時だった。ナイフのようなものが飛んできて、ぼくのマントにそれが命中し、その攻撃が当たった部分からは謎の煙が立ち上っていた。どうしてかわせた、ウルフマン?
ぼくを狙った刺客はゴリラだった。
クソ狼、よくも俺の兄貴を殺したな。ゴリラは言って、ホッホッホツ! とドラミングを始めた。
ゴリラの胸を叩く音には相手を威嚇する効果があるらしい。さっきまでとは打って変わり、カフェの中は恐慌に満ち満ちた。ドラミングが最高潮に達すると、そこから逃げ惑う客ら店員らは、一様に気絶した。無抵抗な人たちになんてことをするんだ!
ぼくは〝吠え〟た。そして必殺の〝牙〟を放った。真空の牙がゴリラの喉に深く食い込む。
ゴリラは大きく倒れ、直ぐに落命した。
その日より、世界はぼくの〝吠え〟に感動しなくなった。そしてぼくはウルフマンの資格を失った。
第二章 秘密結社デレヴォーン・ゼローン
タンカーが沈没した事件が、珍しくニュース報道されていた。秘密結社デレヴォーン・ゼローンは、今回のタンカー沈没事件について何ら関係していなかったが、ニュースの内容に〈あの〉や〈あいつ〉という言葉を入れることに関しては別だった。その主語のない唐突な言葉は、視聴者たちに自らも悪の片棒を担っているのだという事を意識させる。が、それは良いことかもしれない。デレヴォーン・ゼローンはこうした活動を長年――主にインターネットを通じ――機密裡に行ってきた秘密結社だ。今や街頭はデレヴォーン・ゼローンの手によって暴言であふれ、人を刺すような痛々しい言葉で、町は氾濫している。その活動は狂気の育成を目的とし、人知れず多くの人間はスマホや実生活を通じ、その狂気と向き合っているのだった。
この組織は長年しられていなかったが、21世紀のインターネットの普及によって、そして近年の人心の悪化に伴って、この世界に姿を現すことになる。連中は悪だ。悪を世界にばらまくことこそ目的で、他の目的はない。デレヴォーン・ゼローンとは現代の悪の概念がそのまま具現化した存在なのだ。
初代ウルフマンは、デレヴォーン・ゼローンの実験の申し子だった。組織によってあるとても怖い思いをした犬種が、ある日、超能力に目覚めたのだ。それがウルフマンの先祖だった。初代ウルフマンの活躍によって、デレヴォーン・ゼローンという組織は、すべてその根を絶たれたかのように思われていた。
しかし《総統》は生きていた。より強大な悪となって。
第三章 ブラックウルフ
ネオ都内の野犬地区。今でこそ保健所などという時代遅れの組織はほぼ活動を止めていたが、その代わり求犬センターというものが作られ、それがこの辺り一帯の至る所にある。野良は求犬センターで貰った、飼い主を探すと頂ける交通費代わりのドッグフードを食い、今日の腹を満たした。野良のような野犬は何万といて、彼らの境遇も様々であった。元々どこかの飼い犬だった犬もいれば、生まれつき星の巡りが悪かった犬もいる。誰かに捨てられた犬もいるし、秀でた芸を身に着けている犬も中にはいた。野良はそこから見えるビル郡を見上げた。彼らが野良たちのことを、犬にとっては最大の罵倒語で呼んでいることはよく知っている。だが、彼らも彼らで、野良から見れば《勝ち豚たち》でくくられてしまうのだった。野良は、政治集会に時々顔を出すことがあった。リベラルは嫌いだった。連中はLGBTや動物愛護(まあ自分たちなのだが)の精神を声高に叫ぶが、こんなにすぐ足元にいる野良犬たちには、目もくれないからだ。それに連中のせいで食料はどんどん値上がりしている。住まいだって高くなった。何もしてくれない。LGBT、動物愛護、環境破壊、そんなものに対し、俺がネットできつく冷やかしてやりたくなるのは正にそのためだ。
たとえ自分たちの首を絞める行為だとしても。なぜなら連中は、俺たちのことを対等だと思っていないからだ。口ではそんなことはないと否定するだろうが、俺はそれが虚言であることをよく知っている。犬の人生に教えられたのだ。だからそんな奴らが提出する意見なんぞ、世界なんぞ、俺は噛み殺してやりたいと思うのだ。
連中が同じ土俵に降りてくるまで、俺はきっと吠え続けるだろう。
*
ウルフマンに対しては、俺のそんな罵倒が最高潮を極めた。あいつは俺たちの為にまるで戦っていない。完全に公権力の味方で、しかもへまばかりかましている。ボンボンちに飼われている大型犬が、ヒーローごっこをやっているとしか思えない。
野良がそんな思いにふけっていると、野犬地区の路地に高級車が止まった。そこから降りてきた犬を野良はよく知っていた。この頃、この地区に現れる謎の犬っころだ。犬っころは野良に声をかけると、車は運転できるか? と尋ねた。語調は強く、否定の難しい響きがそこには籠っていた。野良は狼の子孫だ。餌をやれば誰にでも懐く他の犬とは違う。狼だからこの生き方を選んだのだ。野良は唸って返事した。すばらしい。犬っころは言った。そして野良を銃で撃った。
押し込められた車内で、腹部から血を流しながら野良は吠え続けた。このままでは奴等がお前らの自由を奪うだろう。犬っころが言った。野良は聞いていない。ただひたすら吠え続ける。連中はお前たちの〝吠え方〟が気に入らない。保健所制度を復活させ、お前たちはいずれ去勢される。そうなるとお前は負け犬で、タマ無しだ。野良の〝吠え〟が、その瞬間ピクリと止まった。お前は牙をむかなくてはならない。吠え続けるのだ。だが本当の〝吠え〟方を、私がお前に教えてやる。
一度レッドリストに載ったどうぶつが、そこから這い上がるのは難しいという事を野良は身をもって知っていた。かつて野良にとって世界は開いていた。空は美しく、風はさわやかだった。が、いつの日か、その世界が閉じ始めた。周囲の狼はせせこましくなり、生きることは難しくなった。何故そうなったのか? インターネットの普及が最大限にまで膨れ上がったことが、その遠因だというどうぶつもいたし、それは野良たちの怠惰に他ならないというどうぶつもいた。どっちにせよ、野良には分からない。
野良はこの犬っころに危険を感じていたが、自分がこれから何をされるのかまでは分からなかった。連れていかれた先で、野良はエサと寝泊まりする場所をあてがわれた。同じ場所には海外籍のどうぶつが多くいた。長引く不況で、人間たちは海外のどうぶつたちから捨ててしまったのだ。海外のどうぶつたちは安くこの国に入ってくる。そして飼い主を求めて国の制度を利用するが、それが真っ赤な嘘だったことに気付いて脱走するものが絶えない。インドのコウモリ、ネパールの白いヒョウ、スマトラのヒヒ、皆が困っていた。
犬っころはそうしたどうぶつに手を貸すわけでもなかったが、親切そうなゴリラさんというゴリラが、どうぶつ基金で手に入れたエサを、皆に分けていた。ゴリラさんは謝ってばかりだった。この国には反どうぶつ的な風潮が蔓延していて、こんな目に遭わせてしまっていること。野良は耳が痛かった。そんな風潮を垂れ流しているのは正に自分だったからだ。左には毛嫌いされ、まっとうな右には仲間だとさえ思われていない。そんな野良だ。ただ目の前の現実には、流石に胸が痛くなる。それくらいの魂は、この野良だって持ちわせている。
そこへ犬っころが入室してきた。来るんだ。野良の首根っこをつかむと、隣の部屋に引きずって行った。
野良は小型犬がじゃれつき合っているのが嫌いだった。そういうのを見ると、野良は尻尾を食いちぎってやりたくなる。犬め。野良は思う。仲良しごっこでキャンキャンしていて何が楽しい? なぜなら狼の友情は、互いに傷つけ合うことで生まれるものだからだ。
ウルフマンが自らを霊媒にし、言霊の力で変身する正義のヒーローなら。犬っころは言った。ブラックウルフはかような反発心をエネルギーに変身する、悪のヒーローなのだ。……お前には素質がある、ブラックウルフになる素質がな。
あんたが変身すりゃいい。野良は吠えた。首に太く巻かれている縄を、何とかして食い千切ろうと、彼は必死だった。
私は表には出ないのさ。犬っころは言った。事情があってな。
そして野良の喉笛に喰らいついた。
野良は少し大人しくなったようだった。
まだ生きているか? 直ぐに手当てはしてやる。お前はこれから地下に落とされることになる。そこにはバカ犬どもがわんさといて、そのどれもがウルフマンになりたがっているクチだ。そう吠えはするが、所詮、吠えるだけの連中だ。お前は! 犬っころは言った。そこで悪のパワーを磨き、そいつらと自分は違うという事を、オレに証明するのだ! それがお前をブラックウルフにする条件だ!
俺は何をすればいい? 野良は少し弱気になって言った。出血がそうさせたのだ。
ウルフハンターが狼や野犬を狙っている。連中はお前みたいな狼や野犬どもが大っ嫌いで堪らない。お前だってウルフハンターは嫌いだろう? 連中は至る所で狼撲滅の運動を続けている。それがこの国の為になると信じているからだ。だからお前は至る所でそれに吠え掛かれ。犬っころは言った。それが命令その二だ。
野良は、何かを嗅ぎ取った。犬っころ、お前、どうぶつランドの住人か?
犬っころは言った。オレはデレヴォーン・ゼローンの狗だ。この国でお前ら狼とウルフハンターが争えば、得をされるお方がいるのだ。だがそれはお前の知るところではない。だが一つ教えてやろう。我々デレヴォーン・ゼローンは、いずれこの国を支配する唯一の理念となるのだ。
それから野良は手当てされ、その時、小枝を口に噛みしめて思った。この世界を管理している人間たちは実は大きな不正を行っているのでないか? どうしてこの世界から悪はなくならないんだろう?
第四章 没落するウルフマン
ぼくはウルフマンをやめる。ぼくがウルフマンであることは皆には秘密だった。そのつもりでいたが、狼くんは知っていた。僕しってたよ。狼くんは言った。ワンちゃん、いつも吠え方にうるさかったんだもん。だから僕はきっとワンちゃんがウルフマンなんだなって、ずっと思ってたんだ。ねえ、どうしてウルフマンをやめちゃうの?
吠えてはいけないところでは吠えてしまったんだ。僕は正直に言った。世界がぼくの〝吠え〟を信用しなくなったんだ。世界とのつながりも、結びつきも、ウルフマンにとって大切なものが全部失われてしまったんだ。だからもう、ぼくには魔法が使えない。それがぼくの武器で、たった一つの個性でもあったんだ。だから――。
ねえ、コスチューム着て、威張ってるだけじゃダメなの? 狼くんが言った。だってもともとウルフマンって、あんまし働いてなかったんでしょ。
そういうウルフマンも中にはいた。僕はまた正直に言った。でも僕はそんな具合にはなれないウルフマンなんだ。ぼくは嘘をついた。わかってくれるかな?
全然だめだよ。狼くんは手厳しく言った。それにさっきから言ってることが全然狼らしくないよ。まあ、いつもだけどさ。それにそれも嘘だよ。
それなら君がウルフマンを目指せばいい。ぼくは投げやりに言った。なれるよ。
どうやって?
毎日遠吠えをすることだな……。まずは。あとは〝吠え〟に、魂がこもっていればいい。
どんな魂が?
狼それぞれ。ぼくは言った。一つとして同じ〝吠え〟なんかないんだ。ああ……もういいだろう? ぼくはもう、引退するんだ。ウルフマンをやめた狼は、表から消えなくちゃならないんだ……。それが、ずっと昔からの習いなんだ。ぼくがこう言うと狼くんは暴れて抵抗した。だったらまたウルフマンになればいいじゃないか! 狼くんは必死になって叫んだ。そんなの嘘だ!
確かに嘘だよ。ぼくは力なく言った。それから、頑張ってみるよ、と吠えた。
僕、今日初めてウルフマンが好きになれたよ。狼くんが笑って言った。ウルフマンのこと、実は嫌いだったんだ。〝牙〟なんていう飛び道具で、悪党だからって理由で他のどうぶつを虐めて、すごくずるい奴なんだって思ってた。けど今は違う。僕はおじさんのことを尊敬してる。本当だよ。
狼くん、けど、それは正しい認識だよ。ぼくは言って、悲しくなった。ぼくは立派なウルフマンにはなれなかった。ただの臆病犬なんだ。
違うよ、それを認められただけでも随分違うよ! 狼くんは吠えた。ほんとうの臆病犬なら、そんな事実からは目を背けるはずさ!
どっちにせよ。ぼくは言った。ぼくがウルフマンにはもう戻れないことに、変わりがないんだよ。
違うよ違うよ! 狼くんは言った。おじさんはウルフマンじゃなくなっても、臆病犬ではなくなったんだ! 狼なんだ! 救ってよ! 〝吠え〟で世界を救ってよ!
けれど今のぼくには闘志がない。狼の闘志が……。
狼くんはその言葉にショックを受けたようだった。ワンちゃんの馬鹿ッ! 狼くんはそう言い残し、犬小屋を飛び出して行った。
第五章 《総統》の素顔
その日、ティラノサウルスがある町のビルに、どしどしと重たい足音を立てて、入っていく姿が見受けられた。ビルに入ったティラノサウルスは特注の玉座に腰かけると、その階にいた団服の隊員たちが叫んだ。
ティラノサウルスは物憂げにそれを見やった。そこへ犬っころが怯えながら登場してきた。ティラノサウルスは犬っころに冷たい目をやった。犬っころは恐怖のあまりがくがく震えている。ティラノサウルスはフンと冷たい鼻息を鳴らすと、犬っころに尋ねた。例のブラックウルフはどうなっている?
順調です、閣下。
候補の狼はどんな奴だ。
偏向した政治観があり、非常に好戦的な奴です。我々の計画に、最大限利用できるのではないかと存じます。
ティラノサウルス――《総統》は、ウルフマンが引退したことを知った。かつてこの世界は恐竜の天下だった。そのことに対する神への復讐心から《総統》がこの組織デレヴォーン・ゼローンを立ち上げたのかは定かではないが、神が我が恐竜族を見放したように、デレヴォーン・ゼローンが貴様ら人間どもを地獄に落とすのだ、と《総統》は考えていた。
その為ウルフマンは、デレヴォーン・ゼローンにとって邪魔な存在なのだ! 世界を安定に導く力などこの組織は認めていない。そんな偉大な力は彼らにとっては目障りで、弱めてしまうに限る。デレヴォーン・ゼローンはウルフマンの〝吠え〟を殺すため数知れない計画を練り、それを実行に移してきた。だがウルフマンの〝吠え〟は――言葉の力は――デレヴォーン・ゼローンにとってまるで不死身の戦士だった。それはいくら殺しても蘇り、幾度となくゼローンに決戦を挑みこんできた。ブラックウルフはその力を削ぐ為に作られた、悪のカリスマだった。
素晴らしいぞ、実に素晴らしい。《総統》は言った。その誤った考え方はせいぜい我々が利用させてもらう……。フハハハハ………、我々の目指すその世界を、貴様が作ることになるのだよ‼
あなたは一体、だれの味方なのですか? 犬っころが怯えながら尋ねた。
我々は右でもなければ、むろん左でもない。デレヴォーン・ゼローンが〈悪そのもの〉であることをゆめゆめ忘れないことだ……。行け、犬っころよ。目覚めたブラックウルフと接触を取るのだ……!
第六章 邂逅するワンちゃんと野良
しかし地下に落とされた野良はただひたすら荒野が懐かしかった。地下は狼が棲むところではないのだ。ここから抜け出さなくてはならない。野良は思った。野良は喋ることを自らに禁じた。広大な地下を彷徨う内に、野良はいつの日か、言葉を忘れてしまった。野良は巨大な地下の貯水池のほとりで遠吠えをした。こだまは空間に反響し、虚しく響き渡った。ここには野良の仲間は一頭もなく、彼はたまらなく淋しかった。
地下のうち捨てられた世界にいる内に、野良の言語能力は次第に落ちて行ったが、同時に孤独な〝吠え〟には磨きがかかった。野良とってはそれも虚しかった。自分の言葉を聞いて欲しい仲間が、ここにはいないからだ。そしていつしか野良は完全に孤独になった。
君は狼か? 放浪していたワンちゃんが地面に横たわる野良を見つけたとき、野良の体は冷えていた。ワンちゃんは火を起こすと、それで野良を温め、体をさすってやった。
野良はむくッと起き上がった。その瞬間、猟銃の発砲される音が地下に響いた。ワンちゃんと野良は飛び上がって散弾を躱したが、暗闇の向こうからやって来た姿に驚かされた。全身をくまなく武装し、口元はネッカチーフで隠している、見るからに怪しい姿。それがウルフハンターだった。
野良は言葉よりも早く、ウルフハンターに飛び掛かった。すると、殺してはいけない! と言い、ワンちゃんが野良に組みかかってきた。野良はワンちゃんを飛びのけると、ウルフハンターのゴーグルを前足の爪で落とした。ウルフハンターは、ヒッと叫び声を漏らすと、猟銃をその場に落として逃げさって行った。
どうして助けたのか。野良には訳が分からなかった。狼が人を襲って食う。当然の成り行きではないか。
ぼくらは争っていてはダメなんだ。ワンちゃんは言った。いつも戦いながら思ってきた。人間とどうぶつは仲良くして行かなくてはいけないんだ。お互いが争っていては奴らの思うつぼなんだ!
その《奴ら》を野良は知っていた。悪の秘密結社デレヴォーン・ゼローンだ。だが奴らの正体をワンちゃんは知らない……。知らずにこれまで戦っていたのだ。しかし教えようにも、今の野良は言葉を使えなかった。代わりにワンちゃんの傷跡を舌で舐めてやる。野良の記憶が蘇りつつあった。彼はひょっとしてウルフマンなのではないか?
この狼が、ウルフマン……?
野良とワンちゃんの心の距離はやがて近づいていった。野良は口下手だ。そもそも言葉の発し方を、野良はほぼ忘れてしまっている。だが、どれだけ言葉が失われようとも野良は〝吠え〟ることが出来た。彼は毎朝、朝と思しき時刻に、地下の貯水池のほとりで遠吠えをする。もう野良は一頭ではない。仲間がいる。しかし地下での幸せな時間は、そう長くは続かなかった。
*
修業は終わったか? 悪のパワーはため込んだようだな。ある日、貯水池のほとりで寝ていた二頭のもとへ、犬っころがやって来て言った。お前がブラックウルフになる時が来た。
あんた誰だ? ワンちゃんが言った。彼の言葉遣いも、この頃では殆ど雑になっている。何しに来た?
私は犬っころだ。犬っころは言った。我々は悪の秘密結社デレヴォーン・ゼローン……、そこのそいつもな。そうだろう! 野良! 分かったら、貴様は引っ込んでな……!
それは本当かい? ワンちゃんは悲しそうな目をして言った。君は悪の組織の一員なのかい? ――君は今まで何をしていたんだい?
第七章 孤独のヒーロー
答えられなかった。野良は逃げた。その野良を、とっさに現れたウルフハンター達が執拗に追った。ウルフハンター達は何が楽しいのか、狼を追い詰めることに生きがいを見出している人種だ。彼らは特に銃を使い、人の心に狼は恐ろしいものという情報を流し、操り、狼たちを追い詰めるためならどんな手でも使う。彼等は自ら敵対者を生み出し、銃というものを守るためなら何でもする連中だ。犬っころが彼等の先頭に立ち、野良の臭いを嗅ぎつけてウルフハンターに吠えて教えた。ウルフハンター達はぞろぞろと、犬っころが吠えた方向へ駆けていく。
破裂するような音がし、野良の足元に一発の銃弾が突き刺さった。つづいて数えきれないほどの猟銃の音がした。そしてそのいくつかは野良の体に命中した。やったぞ! ウルフハンター達は叫んだ。彼等は無抵抗な野良を撃ったのだ。倒れた野良は貯水池の中へ落ちていき、水の流れに飲み込まれていった。
野良が目を覚ましたのは、湖のほとりの排水溝だった。貯水池から流された野良はそこから吐き出されたのだ。そこは荒野の湖だった。野良は、ついに、荒野にやって来たのだ。野良は血まみれの足で荒野に降り立った。荒野に咲く花の匂いがした。それからそこに集まる虫の臭い、野良はそれらを嗅いだ。荒野は広かった。野良は走り回ろうとしたが、どうしてもうまくいかなかった。足も挫けていた。目の前に低い山があり、野良はその山を何とかして登って行った。最後の死に場所として。
野良はそこでぶっ倒れ、最後の力を振り絞ると、低く低く遠吠えをした。野良の仲間はいなくなってしまった。これまでの生き方のせいだ。自分の人生にはもう戻っては来ないのだ。野良は〝吠え〟、そして息が止まった。
だが野良は死ななかった。野良の孤独な〝吠え〟が世界と共鳴して、その瞬間、野良を暖かい光で包みこんでいった。
そして野良の姿が変わっていく。孤独のヒーロー、ブラックウルフに、とうとう野良はなったのだ。野良は、自分が信じられなかった。自分がこんなヒーローになってしまうだなんて……。驚いたことに、野良の傷はいえていた。それもまた野良には信じられなかった。それは悪のヒーローなどではなかった。野良は回復した体で、低く低く〝吠え〟た。その悲しい吠え声は澄み通るような音で、どこまでも、どこまでも響き渡った……。
そして野良は気づいた。この世界は、デレヴォーン・ゼローンの思うようには絶対にならないのだという事に。