第八十五話「港町セルディア」
数か月旅を続け、俺達は港町に到着した。
「久しぶりの海だ……」
潮の香りがする。
海に来たって感じがするな。
港には大小様々な船が停泊し、多くの人達が行き交っている。
そんな景色を眺めていると、隣にいたジークフリートが口を開いた。
「船には私も乗ります。なので、ここからはこのマジックアイテムを使います」
「マジックアイテム?」
ジークフリートは持っていた袋の中へ手を入れると、三つのリングを取り出した。
「このリングを使えば、私の姿を他の人には全く別の姿に見せることができるんです」
「え?」
そんな便利な物があるのか?
だったら――。
「こんな物があるなら、最初から使えばよかったんじゃないですか?」
「そう思いますよね?」
ジークフリートは苦笑しながらリングを一つ摘まむ。
「このアイテムは、効果を維持するために魔力を流し続けなければいけません。何日も町の中にいる間、ずっと魔力を流し続けるのは、私といえど困ります」
「ああ……」
確かに。
いくら天賢でも、魔力の上限はあるもんな。
「それに、一日中海の上を飛び続けるのも疲れますのでね。今回は私も船に乗りたいのです」
「なるほど……」
確かに妥当な考えだ。
空を飛べるからといって、一日中飛び続けたいわけじゃないらしい。
「では、まず私がつけますね」
ジークフリートがリングを指にはめ、魔力を流す。
すると――。
「おお……!」
目の前にいたジークフリートの姿が、一瞬で変化した。
羽が消えている。
それだけじゃない。
顔立ちも完全に別人だ。
男らしい顔立ちに、がっしりとした身体。
腰に武器でも下げれば、そのまま冒険者ギルドにいても違和感がなさそうだ。
ガタイのいい冒険者って感じだな。
「これ凄いですね。羽までなくなるんですね」
「そうですね。私の場合は、筋肉質の冒険者の見た目になるようになってます」
「え!?」
俺は思わずジークフリートを見る。
「声がなんか変わってますよ!?」
見た目だけじゃない。
いつものジークフリートの声よりも低く、太い男の声に変わっている。
「あ〜、全部変わっちゃうんだよね」
「凄いですね……」
ここまで変わるなら、本人だと見抜くのはかなり難しそうだ。
俺はジークフリートの姿を眺めながら、ふと疑問に思う。
「このマジックアイテムって複数あると思うんですけど、見た目とかは全部同じなんですか?」
「いいえ。作った人が見た目を決めていますので、買ってからのお楽しみです」
「買ってからのお楽しみ……」
それって……。
ハズレとかあるのかもしれないな……。
変な見た目になるやつを引いたら、かなり嫌だぞ。
「私の見た目はもう分かったと思いますので、お二人もこちらをつけてください」
ジークフリートが残った二つのリングを俺達へ差し出す。
「はい」
「分かりました」
俺とナージャはそれぞれリングを受け取り、指にはめる。
「…………」
特に何も起こらない。
俺は自分の身体を確認する。
見た目は変わっていない。
隣のナージャもいつもの姿のままだ。
そしてジークフリートを見る。
「…………?」
さっきと同じだ。
筋肉質な冒険者風の男のまま。
「これは何のために?」
「試しに、そのリングへ魔力を流してみてください」
「魔力を?」
言われた通り、リングへ少しだけ魔力を流してみる。
すると――。
「あっ!」
目の前にいた冒険者風の男の姿が、一瞬で変わった。
見慣れたジークフリートの姿だ。
羽も見えている。
「戻った……?」
「実際に戻ったわけではありませんよ。他の人には、今も先ほどの姿に見えています」
「じゃあ、俺達にだけ本当の姿が見えてるってことですか?」
「その通りです」
なるほど。
俺はリングへ流していた魔力を止めてみる。
すると再び、ジークフリートが筋肉質な冒険者の姿に戻った。
面白いな、これ。
「でも、なんでわざわざこんな機能が?」
「私と話している時に、見た目が違うと合わせるのが難しいでしょう?」
「ああ……」
「ですから、このリングに魔力を込めると、私の見た目の変化が見えなくなり、本来の姿が見えるようになっています」
ジークフリートが自分の指にはめたリングを見せる。
「普段は魔力を込めなくても構いません。誰か他の人と、私達を交えて話す時だけ使ってください」
「他の人と話す時?」
「はい。私が誰かと話している時に、急にシャウトくん達へ話を振るかもしれないでしょう?」
「まあ……」
「その時、あなた達にだけ私の本来の姿が見えていたら、少し対応しづらいと思います。周囲の人と同じ姿が見えていた方が、話を合わせやすいでしょう?」
「なるほど……」
だから普段は、周りの人達と同じように変装したジークフリートを見る。
必要な時だけ魔力を流せば、本来のジークフリートの姿も確認できる。
「そんなことありますかね?」
「無くても、あって損ではありませんよ」
「確かにそうですね」
俺は指にはめたリングを眺める。
見た目だけじゃなく、声まで別人に変えてしまうマジックアイテム。
こんな物まであるのか。
改めて、この世界の魔術の便利さを感じる。
そして俺達は、冒険者の姿へ変わったジークフリートと共に、港町セルディアへと入ろうとした。
「待て」
門を通ろうとしたところで、門番に呼び止められた。
「何者だ?」
何者って……。
そんなに怪しいか? 俺達。
俺とナージャは普通の格好だし、ジークフリートも今はどこからどう見ても冒険者だ。
すると、ジークフリートが一歩前へ出た。
「冒険者だ」
「…………」
おお……。
なんかかっこいい……。
見た目だけじゃなく声まで変わっているせいか、普段のジークフリートとは全く別人に見える。
「冒険者か。なら、冒険者登録板を出せ」
「分かった」
あれ?
ちょっと待て。
ジークフリートって、冒険者登録してなくないか?
俺達は冒険者だから登録板を持っている。
でも、ジークフリートが冒険者として活動しているところなんて見たことがない。
もし嘘だとバレたら、まずいんじゃ……。
そんな心配をしていると、ジークフリートは何事もなかったかのように懐へ手を入れた。
そして、一枚の登録板を取り出す。
「え……?」
持ってるの!?
思わずその登録板を見る。
大きさは俺達が持っている物とほとんど変わらない。
だけど――色が違う。
黒い。
俺達の登録板は灰色だ。
こんな色の登録板、見たことがないぞ。
これ……本当に冒険者登録板なのか?
「…………」
門番も同じことを思ったのか、受け取った登録板をじっと見つめている。
しばらく表と裏を確認した後、近くに置いてあった物をゴソゴソと漁り始めた。
そして、一枚の紙を取り出す。
登録板と紙を交互に見ている。
恐らく、本物かどうかを確認しているんだろう。
作られた時期によって色が変わるのだろうか……?
そう考えていると――。
「こ、これは……!」
門番の表情が一変した。
さっきまで怪しむようにジークフリートを見ていた顔が、みるみる青ざめていく。
そして慌てて姿勢を正した。
「大変失礼しました!」
「ん?」
「オートマタ級冒険者の方でしたか!」
「え?」
オートマタ級……?
「初めて見るもので! 確認に時間がかかってしまい、申し訳ありません!」
門番は慌てて登録板をジークフリートへ返す。
ジークフリートはそれを受け取ると、何事もなかったかのように懐へ戻した。
「いや、構わない」
「ありがとうございます!」
「…………」
俺は隣でその光景を眺める。
いやいやいや。
ちょっと待て。
オートマタ級!?
確か、冒険者の最高位だったよな?
ジークフリートって冒険者をやってたのか!?
一体なんのために!?
俺が驚いていると、門番が興奮した様子で話し始めた。
「いや〜、オートマタ級の冒険者なんて初めて見ましたよ〜!」
「そうですか。あまり居ませんからね」
ジークフリートは落ち着いた様子で答える。
「そうですよ! アダマン級ですら少ないというのに!」
確かに。
アダマン級でも相当な実力者だ。
そのさらに上となれば、一体どれほどの人数がいるんだろうか。
というか、ジークフリートなら最高位でも不思議じゃないか……。
天賢だもんな。
「ささ! どうぞ、ご自由にご滞在ください!」
門番は先ほどまでの態度が嘘のように、笑顔で道を開けた。
「ありがとう」
ジークフリートは短く礼を言い、門をくぐる。
俺とナージャも慌ててその後を追った。
門を抜け、町の中へ入ったところで、ナージャがジークフリートに声をかけた。
「ジークフリート様って、冒険者をやってたんですね」
「昔ね。みんなと情報を集めるために、冒険者ギルドに登録したんだよ」
「情報を集めるためですか?」
「そう。冒険者って色んな場所へ行くし、色んなことを知っているでしょう? 世界中の情報を集めるには、結構便利なのさ」
なるほど……。
確かに、冒険者ギルドには各地から人が集まる。
依頼を受けるだけじゃなく、旅先で聞いた噂や出来事なんかも自然と集まってくるだろう。
天賢が表立って活動せずに世界の情報を知るには、都合がよかったのかもしれない。
「でも、どうしてオートマタ級にまでなったんですか?」
俺が尋ねると、ジークフリートは少し困ったように笑った。
「まあ……ローランがあんな感じだからね……」
「ローラン様が?」
「そう。『知名度は大切だ!』とか言い出してね」
ジークフリートは当時を思い出したのか、苦笑いを浮かべる。
「それで、難関な依頼を次々とこなしてしまったんだよ。その結果、気づけばオートマタ級になっていたというわけさ」
「えぇ……」
知名度を上げるために難関依頼をこなしたって……。
いや、天賢達ならできるんだろうけど。
「それに、『英雄たるもの、強さも大事だ!』とかね」
ジークフリートはローランの口調を真似るように、少し胸を張ってみせた。
「私達より強い存在なんて、もう数千年も現れていないというのに……あいつはずっとあんな感じだよ」
そう言って、苦笑いを浮かべる。
数千年……。
改めて聞くと、とんでもない話だ。
俺達にとっては遥か昔の歴史でも、この人達にとっては実際に経験してきた出来事なんだよな。
「なんだか、ローラン様らしいですね」
ナージャがくすっと笑う。
「本当にね。私達は情報さえ集められればよかったんだけど、ローランは随分張り切っていたから」
ジークフリートは小さく肩をすくめた。
……なるほど。
オートマタ級になったのは、ローランの影響だったのか。
なんというか、納得してしまった。
「ああ、それと一つお願いがあるんだけど」
ジークフリートがふと思い出したように俺達へ顔を向けた。
「なんですか?」
「町の中では、私達はあくまで普通の冒険者パーティだと思われています。ですから、様付けはやめて、気軽にジークと呼んでくださいね」
「えっ?」
ナージャが少し困ったような顔をする。
「ジーク……ですか?」
「そうそう!」
「うーん……難しいですね……」
確かに。
相手は天賢だ。
今までずっと敬意を払って接してきた相手を、いきなり呼び捨てにするのは抵抗がある。
「大丈夫ですよ。その程度で怒るような器ではありませんから」
ジークフリートは笑顔で答える。
そして、少し声を落として付け加えた。
「シャルルじゃあるまいし……」
そう言って、また苦笑いを浮かべる。
確かに、シャルルは頑固だからな……。
いきなり呼び捨てにしたら、本当に怒りそうだ。
いや、怒るだけで済めばいいけど……。
「……じゃあ、ジーク?」
試しに呼んでみる。
「はい! それでいいですよ!」
ジークフリートは満足そうに笑った。
……やっぱり、慣れるまでは時間がかかりそうだな。
「さて、とりあえず港へ行きましょう!」
ジークフリートがそう言って、海の方へ視線を向けた。
「どの船に乗るのがいいのか、聞かなければいけませんのでね」
「そうですね」
確かに、港にはいくつもの船が停泊している。
どれがエルネアへ向かう船なのか、見ただけでは分からない。
「じゃあ、行こっか!」
ナージャが笑顔で言う。
「そうだな」
こうして俺達は、エルネア行きの船を探すため、港へ向かった。
◇
しばらく歩き、俺達は港へ到着した。
目の前には、数多くの船が停泊している。
荷物を大量に積んだ貨物船や、人を乗せるための客船。
大きな船もあれば、小さな船もある。形も大きさも様々だ。
これだけあると、どれが目的の船なのかさっぱり分からないな。
「とりあえず、聞いてみましょうか」
ジークフリートは近くにいた男性へ声をかけた。
「すみません。エルネア行きの渡航船はどれでしょうか?」
「ん? ここは初めてかい?」
「はい、そうです」
「それなら、あっちだ」
男性はそう言って、南の方角を指差した。
その先には、一隻の船が停泊している。
大きすぎず、小さすぎず。
他の客船と比べても、ごく普通の大きさといったところだろうか。
「あちらですね。ありがとうございます」
「おう!」
男性に礼を言い、俺達は教えてもらった船へ向かった。
桟橋まで来ると、船の前に一人の男が立っている。
乗船の受付でもしているのだろうか。
ジークフリートがその男へ声をかけた。
「すみません。こちらの船はエルネア行きでしょうか?」
「ああ、そうだ。運がよかったな。ちょうど明日出発するところだ」
「それはよかったです!」
おお、明日か。
下手をしたら何日も待つことになるかと思っていたけど、随分と運がいいな。
「ちなみに、料金はいくらでしょうか?」
「一人あたり銀貨二枚だ」
銀貨二枚か。
三人だから、合計で銀貨六枚だな。
「なるほど、分かりました」
俺達はそれぞれ銀貨二枚を取り出し、男へ代金を支払った。
男は受け取った銀貨を確認すると、俺達へ顔を向ける。
「明日の朝に出航する。夜までにはエルネアに到着する予定だ」
「分かりました」
聞いていた通り、一日ほどの船旅になりそうだ。
「ただし、船に食料は用意していないからな。食べる物は自分達で用意してくれ」
「はい、分かりました」
「それと、荷物は多すぎなければ乗せられる。まあ、あんた達くらいなら問題ないだろう」
男は俺達の荷物を軽く見渡してから続けた。
「一応、船員とは別に乗客は十人までだ。荷物も積むとなると、それくらいが関の山だからな」
「なるほど……」
確かに、船の大きさを考えれば、それくらいが妥当なのかもしれない。
「それじゃあ、明日の朝は遅れるなよ!」
「はい、ありがとうございます!」
俺達は男に礼を言い、桟橋を後にした。
こうして、無事にエルネア行きの船を予約することができた。
「では、食料を買いに行きましょうか!」
ジークフリートがそう言って、俺達へ振り返る。
「そうですね」
まだ出航まで時間はある。
とりあえず、明日の準備を済ませておこう。
◇
船の予約を済ませた俺達は、明日の食料を買うために商店街へ向かった。
といっても、必要なのは一日分だ。
そこまで多く買う必要もないだろう。
朝食は出航前に町で食べるとして、昼食と間食用くらいか。
それにしても、港町だから魚とかも売っているのかな?
干物なんかがあると良さそうだが……。
そういえば、この世界にも干物ってあるんだろうか?
干し肉は普通に売っていたし、あってもおかしくはないよな。
そんなことを考えながら歩いていると、隣にいたナージャが楽しそうに海の方を眺めていた。
「私、あまり海を見たことがないから楽しい!」
「そうなの?」
「うん! 転移事故の時、帰る途中で一応海は見たけど……あの時は帰るのに必死で、あんまりゆっくり見られなかったからね」
「ああ……」
確かに。
俺もあの時は、ゆっくり海を眺める余裕なんてなかったな。
「まあ、明日は海に出るんだから、存分に楽しめるぞ!」
「そうだね!」
ナージャが嬉しそうに笑う。
そんなに楽しみにしているなら、明日は晴れるといいな。
そうして話しているうちに、俺達は商店が立ち並ぶ通りへ到着した。
やはり港町だからか、魚を扱っている店が多い。
店先には獲れたばかりと思われる生魚が並び、その隣には焼いた魚や、既に調理された料理なんかも売られている。
そして――。
「あ、干物もあるじゃん」
魚を開いて乾燥させたものが、店先にいくつも並べられていた。
おお、この世界にも普通にあるんだな。
「干物?」
ナージャが俺の覗いている店へ顔を向ける。
「そう。魚を乾燥させたやつ。保存が利くから、旅には結構便利なんだよ」
「へえ〜」
「明日の昼食はこれにするか」
生魚を買っても船の上では扱いづらいし、調理済みのものもあるけど、明日まで持ち歩くなら干物の方がよさそうだ。
「ナージャもそれでいい?」
「うん! 私も食べてみたい!」
「ジークは?」
「私も構いませんよ」
よし、決まりだな。
俺達は店主に声をかけ、明日の昼食用に干物を購入した。
あとは間食用に何か買っておけば十分だろう。
これで、明日の船旅の準備も大体整ったな。
◇
翌日。
俺達は予定通り、朝から桟橋へやってきた。
既に船の前には複数の人が集まっている。
冒険者のような格好をした人もいれば、大きな荷物を抱えた商人らしき人もいる。
見たところ、乗客は様々なようだ。
「お! 来たか!」
昨日対応してくれた男が、俺達に気づいて声をかけてきた。
「これで全員だな!」
どうやら、俺達が最後だったらしい。
「それじゃあ、荷物を積んでくれ! 準備ができたら乗船だ!」
男の指示に従い、俺達も荷物を運び込む。
その後、船員に案内されながら船内へ入った。
どうやら、この船には乗客用の個室というものはないらしい。
荷物を置いておくための部屋と、食事や休憩に使う広間。それとは別に、船員用の部屋があるようだ。
一日程度の船旅だし、そこまで設備が整っているわけではないんだな。
一通り案内を終え、俺達は甲板へ出た。
「楽しみだね!」
ナージャが嬉しそうに海を眺めながら言う。
「ああ!」
今日は天気もいい。
海の向こうには、どこまでも青い水平線が広がっていた。
こんな景色を一日中眺められるなら、なかなか楽しい船旅になりそうだ。
そして――。
「出航するぞー!」
船員の声が響き、船がゆっくりと動き始めた。
少しずつ桟橋が遠ざかっていく。
こうして俺達は、港町を目指して出航した。
◇
それから数時間後。
俺達は今、出航前の楽しそうな雰囲気とは裏腹に、最悪な状態に陥っていた。
「うぅ……」
気持ち悪い……。
なんだこれ……。
そう。
船酔いだ。
最初のうちはよかった。
海を眺めながらナージャと話したり、遠ざかっていく陸地を見たり。
それなりに楽しんでいたんだ。
だが、しばらくすると船の揺れが気になり始めた。
最初は少し気分が悪い程度だったのに、時間が経つにつれて、どんどん酷くなっていく。
今では立っているのもつらい。
「シャウト……大丈夫……?」
隣にいるナージャが、青白い顔で尋ねてくる。
「いや……全然……」
「だよね……私も……」
ナージャも相当きつそうだ。
さっきまであんなに楽しそうにしていたのに、今では甲板の手すりに身体を預け、ぐったりしている。
というか、もう限界だ。
胃の奥から何かが込み上げてくる。
「うっ……!」
まずい。
俺は慌てて海の方へ身を乗り出した。
「おぇぇえええ!!!」
吐いた。
盛大に吐いた。
「うぅ……最悪だ……」
口元を拭いながら、海面を見下ろす。
すると――。
「…………」
魚が集まってきてる。
俺が吐いた辺りに、何匹かの魚が寄ってきていた。
……お前ら、それ食うのか?
いや、もうどうでもいいや……。
周囲を見ると、どうやら船酔いしているのは俺達だけじゃないらしい。
他にも何人か、手すりから海へ向かって吐いている人がいた。
なんだか、妙な連帯感があるな……。
「うぅ……シャウト……」
「ん……?」
ナージャを見ると、口元を押さえながら立ち上がっていた。
「ちょっと……あっち行ってくる……」
「え? ああ……」
ナージャはふらふらと俺から離れ、甲板の反対側へ向かっていった。
そして、手すりに掴まると――。
「おぇっ……!」
……ああ。
ナージャも限界だったか。
どうやら、あまり俺には見られたくなかったらしい。
まあ、そりゃそうだよな……。
俺は気づかないふりをして、再び海へ視線を戻す。
「…………」
気持ち悪い。
まだ気持ち悪い。
吐いたら少しは楽になると思ったのに、船は相変わらず揺れ続けている。
こんな状態が夜まで続くのか……?
◇
昼食なんて、食べられたもんじゃないな……。
昨日せっかく買った干物も、結局ほとんど手をつけられていない。
今、何かを口に入れたら確実に吐く自信がある。
「うぅ……」
俺は甲板に座り込み、ぐったりと手すりに背中を預けた。
ナージャも少し離れたところで、膝を抱えるように座っている。
顔色が悪い。
というか、俺も相当酷い顔をしているんだろうな……。
そんな俺達とは対照的に、ジークフリートは平然としていた。
「二人とも大丈夫ですか?」
「全然……大丈夫じゃ……ないです……」
「私も……もう無理……」
「おやおや……」
ジークフリートは困ったように笑っている。
なんでこの人は平気なんだよ……。
天賢って船酔いもしないのか?
そんなくだらないことを考える余裕すら、次第になくなっていった。
それからというもの、俺達は景色を楽しむことなど一切できなかった。
ただひたすら、船の揺れと込み上げてくる吐き気に耐える。
少し楽になったと思えば、また気持ち悪くなる。
その繰り返しだ。
あれだけ楽しみにしていたナージャも、今では一言も喋らず、ぐったりとしている。
俺も同じだ。
もう海なんて見たくない……。
どれくらい時間が経っただろうか。
気づけば空は赤く染まり始めていた。
「おや、見えてきましたね」
ジークフリートが水平線の向こうへ視線を向ける。
「エルネアですね」
「……え?」
俺はゆっくりと顔を上げた。
夕暮れに染まる海の向こう。
水平線の先に、うっすらと港らしきものが見えている。
「つ、着くのか……?」
「はい。もう少しですよ」
「よかったぁ……」
隣にいたナージャも、弱々しく声を漏らした。
二人揃って青白い顔で座り込んでいる。
出航前の元気はどこへ行ったんだろうか……。
「二人とも、もう少し頑張ってくださいね」
そう言うと、ジークフリートが俺達へ手を向けた。
「《ヒーリング》」
身体が淡い光に包まれる。
すると、あれほど酷かった吐き気がすっと引いていった。
「おお……!」
「楽になった……!」
ナージャも少しだけ表情を明るくする。
さすが治癒魔術。
それにしても、なぜ今まで治癒魔術を使うという発想が浮かばなかったんだろうか……。
いや、そもそも船酔いに治癒魔術が効くとは思っていなかった、という方が正しいか。
ジークフリートはずっと平気そうな顔をしていたけど……。
もしかして、自分に《ヒーリング》をかけ続けていたのか?
それから三十分ほどは、比較的楽に過ごすことができた。
だが、船は相変わらず揺れ続けている。
次第に胃の辺りがむかむかし始め、せっかく治まっていた吐き気が戻ってきた。
「うぅ……また気持ち悪くなってきた……」
「私も……」
ナージャも再び手すりに身体を預けている。
「一時的に症状を和らげることはできても、船が揺れ続けている以上、また酔ってしまうんですよね」
ジークフリートが困ったように笑う。
なるほど……。
つまり、船を降りるまでは根本的な解決にはならないってことか。
ふと、隣にいるジークフリートを見る。
「…………」
あれ?
なんだか、少し疲れているような……。
普段と比べて、表情に元気がない気がする。
姿を変えるために魔力を使い続けているのも関係しているんだろうか?
「ジーク、大丈夫ですか?」
「ん? どうかしました?」
「いや、少し疲れていそうなので……」
すると、ジークフリートは少し驚いたような顔をした。
「おや、よく分かりましたね。シャウトくん、君は観察眼に優れているのかもしれませんね」
「え? そうですか?」
「はい。実は少し疲れてきましてね」
やっぱり。
「まだ魔力には余裕があるのですが、《リジェネ》を使っていましたので。姿の変化を維持しながらの同時発動は、魔力の消耗が多くなってしまうんですよ」
「なるほど……」
やっぱり、魔力を使い続けていたのか。
……ん?
ちょっと待て。
今、知らない魔術の名前が出てこなかったか?
そう思った時には、ナージャがすかさず聞き返していた。
「リジェネってなんですか!?」
「あ、ああ……教えていませんでしたね」
ジークフリートが少し気まずそうに笑う。
「簡単に言えば、《ヒーリング》をかけ続けるような魔術です」
「かけ続ける?」
「はい。魔力を消費し続ける代わりに、効果が持続するんです。多少の傷であれば自動的に治してくれますし、酔いなどの症状も和らげてくれますよ」
「ええ!?」
そんな便利な魔術があるのか!?
じゃあ、この人がずっと平気そうにしていたのって……。
「もしかして、船に乗ってからずっと使ってたんですか?」
「そうですよ?」
「教えてくださいよ!」
思わず声を上げてしまった。
そんな魔術があるなら、俺達も使いたかったんだけど!?
ナージャも隣で何度も頷いている。
「私も覚えたいです!」
「うーん……ですが、まだあなた達には難しいですのでね……」
「あ、そうなのか……」
「魔力を流し続けながら、治癒魔術の効果を維持しなければいけませんからね。今のあなた達には、少し早いかな」
なるほど……。
ただ発動するだけじゃなく、維持する技術も必要なのか。
それなら、まだ難しいと言われるのも仕方ない。
……いつか絶対に覚えてやる。
そんな問答をしていると――。
「さあ! 到着だ!」
船員の大きな声が甲板に響いた。
「降りる者は荷物をまとめてくれ!」
「……!」
着いた!?
俺はすぐに顔を上げる。
いつの間にか船は港の中へ入っており、すぐ近くには桟橋が見えていた。
船員達が慌ただしく動き回り、錨を下ろす。
やがて船がゆっくりと速度を落とし、完全に停止した。
「つ、着いた……」
「やっと……」
俺とナージャは顔を見合わせる。
こんなに陸地が恋しくなったのは初めてだ……。
「では、荷物をまとめましょうか!」
ジークフリートに促され、俺達は預けていた荷物を取りに向かった。
そして、他の乗客達に続いて船を降りる。
こうして俺達は、ようやく港町へ到着した。




