外伝 天野雫(後編)
ファミレスから帰った夜。
自分の部屋へ戻った雫は、何気なく鏡の前へ立った。
前髪を整える。
少し首を傾げる。
また鏡を見る。
「あれ?」
自分でも少し不思議だった。
今まで鏡なんて、出掛ける前に確認する程度だった。
でも今日は違う。
自然と鏡の前へ立ってしまう。
理由は分からない。
ただ。
少しだけ楽しみが増えた。
それだけだった。
その日から。
笑う回数も少し増えた。
夕食。
いつもの食卓。
父がふと雫を見る。
「雫。」
「最近変わったな。」
雫が首を傾げる。
「そう?」
父は笑う。
「楽しそうだ。」
雫は照れくさそうに笑った。
その様子を見ていた江口が口を開く。
「祭りで陽介紹介予定です。」
父は箸を止めた。
「誰?」
紬が笑う。
「私たちの仲間だよ。」
父は一度頷く。
「なら安心だな。」
母がすぐに笑う。
「短絡的な父親ね。」
父も笑う。
「お前たちが信用してるなら。」
「それで十分。」
食卓に笑い声が広がる。
江口も笑っていた。
いつの間にか。
この食卓で笑うことが、江口にとっても当たり前になっていた。
祭りまであと数日。
雫は浴衣を新調した。
自分だけの新しい浴衣。
鏡の前で袖を合わせる。
少し回ってみる。
帯を確認する。
「これにしよう。」
その姿を廊下から紬が見ていた。
「興味ないって言ってたのに。」
「こんなに変わるものなの?」
少しだけ驚いている。
その横へ江口が立つ。
「兄として嬉しいぞ。」
紬は横目で見る。
「まだ兄じゃない。」
江口は笑う。
「まだね。」
紬も思わず笑ってしまう。
雫は二人の会話には気付かない。
浴衣を見ながら、祭りの日を思い浮かべていた。
全力で楽しもう。
せっかく会うんだから。
つまらないやつだとは思われたくない。
そんなことを考えながら。
浴衣を丁寧に畳んだ。
祭り当日。
朝から少し落ち着かなかった。
昼になっても。
夕方になっても。
何度も鏡を見る。
髪型。
浴衣。
帯。
「お姉ちゃん。」
雫が小さく呼ぶ。
「私。」
「大丈夫かな?」
紬は優しく笑った。
「大丈夫。」
江口もすぐ答える。
「雫はかわいいよ。」
「最高だよ。」
紬は即座に振り向く。
「真叶。」
「気持ち悪い。」
「すいません。」
反射的に謝る江口。
雫は思わず笑ってしまう。
少しだけ緊張が解けた。
三人で待ち合わせ場所へ向かう。
前を歩く紬と江口。
雫は少し後ろを歩いていた。
途中。
店のガラスに自分が映る。
立ち止まる。
前髪を少し直す。
帯を確認する。
よし。
小さく頷いて歩き出す。
紬はその姿に気付いていた。
何も言わない。
ただ少しだけ微笑む。
石階段下。
狛犬前。
正確には。
狛犬の後ろ。
一人の男がしゃがみ込み、
ポラロイドカメラを構えていた。
みんなが集まってくるたび。
写真を撮る。
撮っては。
ニヤニヤ笑う。
また撮る。
雫は思わず呟いた。
「何あれ?」
誰も答えない。
でも。
聞かなくても分かった。
あれが。
陽介だ。
みんなが話していた。
野次馬。
最高の位置で。
最高の瞬間を見ている人。
そのままだった。
雫は自然と笑う。
肩の力が抜けた。
緊張が消えていく。
「たしかに普通の人じゃないね」
そう思った。
そして。
自分も自然と、
いつもの雫に戻っていた。
「はじめまして。」
「最近皆さんに仲良くしてもらってます。」
「天野雫です。」
陽介は思わず見惚れていた。
(え?)
(何?)
(凄くかわいいんですけど。)
(夢?)
(カランやめてね。)
雫は笑顔で続ける。
「学生時代からよく話には聞いてました。」
「面白そうな人だなって興味ありました。」
「やっと会えました。」
西野が手を叩く。
「よーし。」
「祭り見て回るか。」
「二十三時境内集合な。」
紬が雫を見る。
「ちゃんとエスコートよろしく。」
雫は陽介へ託された。
江口が笑う。
「変な事すんなよ。」
そのまま紬に腕を掴まれる。
「行くよ。」
「あっ、ちょっ――」
二人は人混みへ消えていった。
二人で祭りを歩く。
楽しそうに話す雫。
いろんなものへ興味を持つ雫。
陽介は思っていた。
(この子凄いな。)
(かっこいい。)
(器用貧乏は。)
(マイナスじゃなかったんだ。)
(俺の世界を広げてくれた。)
少しだけ空を見上げる。
そして。
自然と言葉が出た。
「いつか。」
「一緒に世界を見て回ろう。」
雫は満面の笑みで答える。
「はいっ!」
数年後。
海の上。
夜明け前。
水平線が少しずつ明るくなっていく。
陽介は海を眺めながら思う。
(この景色を。)
(雫に見せたかった。)
(俺に足りなかった一雫を埋めてくれた人に。)
隣で雫が笑う。
「もうすぐ日が昇るよ。」
陽介も笑う。
「楽しみだね。」
やがて。
水平線から太陽が顔を出す。
雫が目を輝かせる。
「うわ。」
「きれー。」
その横顔に。
陽介は見惚れてしまった。
気付けば。
体が勝手に動く。
パシャリ。
ポラロイドがゆっくり出てくる。
雫が振り返って笑う。
「また私撮ったでしょ。」
陽介も笑う。
「うん。」
「無意識だった。」
朝日が二人を優しく照らしていた。
終わり




