第二十五話 メアリーの思い出
母と過ごした少女時代の記憶。
あの頃、メアリーは幸せだった…。
「よく来てくれたわ、シャドーレ。書庫に行く前に紅茶でもいかが?」
その日、レイヴンズクロフト家に現れたシャドーレを伯爵夫人は温かく迎えた。
「いえ、すぐに整理を始めさせて頂きますわ。お気遣いありがとうございます、叔母様」
「分かったわ。いつでも休憩にいらっしゃいね」
シャドーレは軽くお辞儀すると、書庫へ移動した。実家の敷居を跨いだのもそうだが、書庫に入るのも何年ぶりだろう。
「二十年近く経ちますわね…」
中は掃除が行き届いていると見えて、予想以上に綺麗だった。しかし、魔術書が使われた形跡はなく、昔と何も変わらなかった。
シャドーレは黒魔術書がずらりと並んだ本棚の前に立つ。
「これは…『黒魔術の心得』。お母様が書いて下さった本ですわね…!」
見るからに子供向けの装丁だが、中身は子供が読んでも理解出来ないであろう内容である。
…それが凡人の子供なら、の話だが。
シャドーレは少女時代のことを思い出す。
「お母様、今日こそは黒魔術を教えて下さいませ!」
「メアリー、また書庫に入ったのね?魔術を習うにはまだ早いわよ?」
『メアリー』とはシャドーレのミドルネームである。
「けれど、私にも適性があるのですよね?お母様と同じ、黒魔術の適性が…!」
そう言ってメアリーは母を見上げる。身長170cmを超える母キャサリンは幼いメアリーから見るととても大きく見えた。
「仕方ないわね、メアリー。貴女の為に、魔術書を書いてあげましょう。ここにある本はみんな大人向けの物だから」
「本当ですか?お母様が魔術書を書いて下さるのですか?」
「ええ。いずれ貴女に教えようと思っていた黒魔術の心得をね。…それはもっと先のつもりだったけど、今の貴女を見ていたら、すぐに伝えたくなってしまったわ」
そう言うと、キャサリンはメアリーと同じ目線になるようにその場に屈む。
「メアリー。黒魔術を習うなら、これだけは忘れないで。回復魔法を基本とする白魔術とは違って、黒魔術は使い方次第ではとても危険なものになってしまうの。これは、人を癒す為の魔術ではなく、人を守る為の魔術。本気で黒魔術を使って良いのは、この国が危機に陥った時だけよ。…分かるわね?」
「はい。分かりました、お母様。決して忘れません」
メアリーがそう言って頷くと、キャサリンは微笑みながら娘の髪を撫でた。
「貴女、また大きくなったみたい。いずれ、私を超えるかもしれないわね。…身長も、魔術師としての実力も」
その時はまだ、メアリーは魔術師というものが何なのかよく理解していなかった。
かつて黒魔術師として活動していたキャサリンも、結婚後は夫である伯爵に止められていたからだ。
「メアリー。このことはお父様には内緒よ。貴女とお母様だけの秘密」
「はい、お母様!」
数日後、キャサリンは一冊の本を持って、メアリーの部屋に現れた。
「『黒魔術の心得』…?」
「ええ。まずはその本をよく読みなさい。…魔術訓練室に行くのはその後よ」
メアリーが初めて黒魔術を発動したのは、さらにその数日後のことだった。
「素晴らしいわ!まさかこんなに早く覚えてしまうなんて…」
「お母様、今のは危なくなかったですか?私は正しく魔術を使えていますか?」
「ええ。よく出来たわね、メアリー。怖いくらい完璧だったわ。あの人が魔術職を認めてくれたら、貴女を王立魔術学校の初等科に入学させられるのに…!」
王立魔術学校初等科。そこは才能ある子供達を集めて英才教育を施す、桜色の都随一の魔術学校だった。
「さあ、もう一度よ!」
キャサリンはすっかり舞い上がっていた。メアリーに黒魔術の適性があることは分かっていたが、まさかこの歳で魔術を使ってみせるとは。
「今度、二冊目を書くわ。私の知っている全てを貴女に教えてあげたい」
キャサリンは娘の為に何冊も魔術書を作り、少しずつ難易度を上げていった。しかし、メアリーが大人向けの黒魔術書を理解出来るようになるまで、そう時間はかからなかった。
「お母様、次は何ですか?教えて下さい!」
次々と魔術を叩き込むキャサリン。次々と魔術を習得するメアリー。この時が母娘にとって一番幸せな時代だったかもしれない。
「…そういえば、お母様が黒魔術師だった頃のお仲間と集まった時、連れて行ってもらったことがありましたわね…」
そう、それはキャサリンが結婚してから一度だけ参加を許された集まり。昔の仲間達との最初で最後のパーティーだった。
「キャサリン!やっと来てくれたか!」
「皆、君が来るのを待ってたんだよ!」
「もう魔術師は完全にやめてしまったのか?」
そこに集まっていたのは全員が黒魔術師だった。しかも男性ばかり。
「だって仕方ないでしょう?あの人が許してくれないんだもの。…ねぇ、メアリー?」
その時、キャサリンの後ろに隠れていたメアリーにようやく皆が気付く。
「おお!キャサリンの娘か…!」
「可愛いねぇ。幾つになるの?」
「うちの息子と同じくらいかなぁ」
魔術師達は幼いメアリーを物珍しそうに見る。
「この子はシャドーレ・メアリー・レイヴンズクロフト。メアリーって呼んでね」
「よ、よろしくお願いします…」
大人達に囲まれて緊張するメアリーだが、笑顔で皆と話す母を見て、少し安心した。
その時、仲間のうちの一人が言った。
「しかし、まさか白金の黒魔術師が早々に第一線を退くなんて、あの頃は誰も思わなかったよ」
「白金の…黒魔術師…?」
メアリーが初めて耳にした言葉に反応する。
「ああ、お嬢さんは知らないのか。教えてあげればいいのに」
「もう、その呼び方はやめて頂戴。恥ずかしいわ。…それに、私はもう黒魔術師ではないのだから」
キャサリンは止めるが、男性は笑顔でメアリーに言って聞かせる。
「いいじゃないか。…あのね、白金の黒魔術師ってのはキャサリンのことさ。美しいプラチナブロンドの髪を靡かせながら強力な黒魔術を次々と発動した天才黒魔術師。…それが君のお母さんだよ」
それを聞いた瞬間、メアリーの目が輝き始めた。そして、キャサリンと行っている魔術訓練の話をする。
「お母様は私の為に黒魔術書を書いて下さったのです!今、魔術訓練室で教わっているところです!」
「メアリー、その話は…」
キャサリンは止めようとするが、自分の母親が偉大な黒魔術師だったことを知ったメアリーは最初の緊張も忘れて、仲間達と話した。
「ってことは、君も黒魔術を使えるのかい?」
「まさか、この歳で?」
「でも、キャサリンの娘なら有り得るかも…」
皆は色々と話していたが、その中の一人が言う。
「メアリーと言ったね?今から僕はここに結界を張る。その中で、僕に向けて何でもいいから魔術を放ってくれ」
「いえ、でも…黒魔術は人に向かって発動してはいけないのではありませんか?」
メアリーは不安そうに聞く。
「大丈夫。いざとなったら『シールド』を張るから」
「で、でも……」
「君の魔術が見たいんだ。…もしかして、皆の前では緊張してうまく出来ないのかな?」
勿論、幼いメアリーに煽り耐性などない。
「…分かりました。やります!」
「そうこなくっちゃ!…よし、いつでもいいよ!」
彼が結界を張ったのを確認すると、メアリーは最近教わったばかりの黒魔術を無詠唱で発動した。
「っ!?『シールド』!!」
彼は素早く『シールド』を張ったが、メアリーの放った魔術はそれを容易く破った。
「いてて…。今、何が起きた…?」
すぐに倒れた男性の所へ駆け寄るメアリー。
「ごめんなさい!私のせいで…」
「いや、魔術を見せてくれと言ったのは僕の方だし、心配させてごめんね。…それにしても一瞬で『シールド』を破るとは…本当に凄かったよ」
「おい!大丈夫か!?」
周りで見ていた仲間達が集まってきて声をかける。
「盛大に吹っ飛ばされたように見えたけど平気か?」
「一瞬、物凄い魔力を感じたよ。あれってまさか…」
皆が騒ぎ始めたのをよそに、メアリーは真っ先にキャサリンの元へ戻った。
「お母様、ごめんなさい!私、使ってはいけないところで魔術を使ってしまいました」
「…本当にね。一歩間違えたら彼に大怪我を負わせるところだったのよ?」
「ごめんなさい!!」
「でも、止めなかった私にも周りの大人達にも責任があるわね」
キャサリンはそう言うと、
「うちの娘を煽らないで頂戴。…怪我はないかしら?」
吹っ飛ばされた男性に声をかける。
「ああ。悪かったよ、キャサリン。…それにしても、さすがは君の娘だね。末恐ろしいよ」
「うっかりするとキャサリンを超えるかもしれないな」
「一瞬、何が起きたか分からなかったし。『シールド』は簡単に解けたしね」
「そもそも、こいつの『シールド』はしょぼいんだよ」
皆がそうやって話している間、メアリーは部屋の隅で俯いていた。
そこへ、
「メアリー」
キャサリンが先ほどとは打って変わって優しい声で話しかける。
「さっきのは確かに危険だったけれど、昨日習得したとは思えないくらい素晴らしい出来栄えだったわ。…貴女は私の自慢の娘よ、メアリー」
「お母様…」
「さあ、今日が最後かもしれないから、存分に楽しみましょう!」
そう言って立ち上がったキャサリンはプラチナブロンドのロングヘアを翻し、仲間達の輪の中に入っていった。
あんなに楽しそうな母の顔を見たのは、それが最後だった。
その後、徐々に魔術訓練室に行く時間は少なくなった。書庫にいる時間が長すぎると夫に咎められることもあった。それでも、時間の許す限り、キャサリンは娘に魔術を教え続けた。
そして、メアリーの13歳の誕生日。キャサリンは思いがけない贈り物を持って現れた。
「お誕生日おめでとう、メアリー。これが私から貴女へのプレゼントよ」
「お母様、ありがとうございます!」
メアリーはそう言ってプレゼントを受け取ったが、中身が何なのか予想出来ない。
「開けてご覧なさい。…これは新しい髪飾り。それと、私の母から受け継いだドレスよ」
「ドレス…ですか?」
「ええ。そろそろ貴女に渡したいと思っていたの」
そう言うとキャサリンはメイドを呼び、メアリーにドレスを着せた。その時、メアリーの身長は既に母を超えていた。
「だんだん奥様に似てこられましたね」
メイドはそう言いながら、メアリーの腰まである髪を結い上げ、最後に髪飾りを留めた。キャサリンと同じ、プラチナブロンドの美しい髪だ。
「メアリー、綺麗よ」
成長した娘を眩しそうに見るキャサリン。
この子が大人になったらどんなに美しい女性になるだろう。キャサリンは魔術の他にも、娘に教えたいことが沢山あった。
しかし、彼女が病に倒れたのは、それからまもなくのことだった。
「お母様…お具合はいかがですか?」
「大丈夫よ。そんなに心配しないで頂戴」
キャサリンはやつれた顔で微笑み、痩せ細った手でメアリーの手を握った。
「メアリー、ずっと貴女と話しておきたかったことがあるの…」
「何でしょうか?」
「貴女の将来のことよ…。私はこれまで貴女に黒魔術ばかり教えてきたけれど、他にも教えなければならないことは沢山あるの。貴女も貴族の娘だし、魔術学校に入るならともかく、10代のうちに結婚することになるかもしれないから」
キャサリンは言う。
「私は魔術学校を出てしばらく魔術師として活動していたから結婚が遅れたけれど、貴女は伯爵家の娘として早くに普通に結婚した方が幸せになれるのではないかと思う時があるわ」
メアリーは13歳。今ならまだ、大人になるまで時間に余裕がある。このまま黒魔術の勉強に傾倒していれば、いずれは父である伯爵と対立しかねないと思い、キャサリンは弱気になっているのだ。
「私も、色々あったけれど伯爵家に嫁いでよかったと思っているわ。…だって、貴女に会えたんだもの。…メアリー。貴女のお陰で、私は幸せよ」
「お母様…。そのような、お別れみたいなことをおっしゃらないで下さい…」
メアリーは言う。
「それに、私は本気で黒魔術師になりたいと思っておりますの。お母様に教えて頂いたことを国の為に生かしたいのですわ」
「メアリー、貴女はまだ13歳よ。これから考えが変わるかもしれないし、環境が変わるかもしれないし、どうなるかなんて貴女にも私にも分からないわ…」
そんな母の言葉に首を振るメアリー。
「いいえ、お母様。私の夢は、お母様を超える黒魔術師になることです」
「メアリー…」
「勿論、その他の勉強もきちんと致します。教養もしっかり身に付けます。必ずや伯爵家の娘として恥ずかしくない大人になりますわ。…ですので、どうかお願い致します。これからも私に魔術を教えて下さいませ」
キャサリンはメアリーの真剣な眼差しを見て、起き上がろうとしたが、もう力は残っていなかった。代わりに、クローゼットを指差す。
「メアリー…私のクローゼットから、マジックアイテムを取って頂戴」
「マジックアイテムにございますか…?」
「ええ。よく探せば見つかるはずよ」
言われた通りにメアリーがクローゼットの中を探すと、長い槍の形をした真っ黒なマジックアイテムが隠されていた。
「お母様、こちらにございますか…?」
魔術書の中には時々マジックアイテムという言葉が登場するが、メアリーが本物を見たのはこれが初めてだった。
「ええ。これは『暗黒のティーザー』。私が作ったマジックアイテムよ。…これを使えば、貴女の黒魔術はさらに強く安定したものになるはず。…けれど、これを使う場面があるとしたら、それこそ国が危機に陥った時…」
「はい。本気で黒魔術を使うのは人を守る時、にございますわね?」
「…ええ、そうよ。『黒魔術の心得』に書いたこと、ちゃんと覚えているのね」
「はい。決して忘れないとお約束しましたから」
そう言って微笑むメアリーをキャサリンは頼もしげに見つめる。
「将来のことは分からないけれど、もし貴女が本当に黒魔術師になって、いつか国を救うべき時が来たら、これを使いなさい。…それまでは、決して誰にも言わずに隠しておくのよ」
キャサリンは言う。
「これを渡すのはもっと先のつもりだったけど、今の貴女の言葉を聞いたら、一刻も早く託さなければと思ってしまったわ。どうか、受け取って頂戴…」
「ありがとうございます、お母様…」
「これが…私の貴女への最後の贈り物になるわね…。渡すことが出来てよかった…」
「そんな…!最後だなんておっしゃらないで下さいませ…!これからもメアリーと一緒にいて下さい…!お母様ぁ…」
今にも儚くなってしまいそうな母を見て、メアリーは涙を流す。
そんな娘の涙を指先で受け止め、キャサリンは優しい眼差しを向ける。
「メアリー。将来、貴女がどんな道を選んだとしても、私はいつだって貴女の味方よ…。私の愛しいメアリー……」
キャサリンが息を引き取ったのは、それから数日後のことだった。
メアリーはずっと病床の母の元に寄り添い、その手を離さなかった。
その後、母からの最後の贈り物は長らくクローゼットに隠しておいたが、実家を出る際に持ち出した。
「お母様…。メアリーは、確かに貴女のマジックアイテムを持って戦場に行きましたわ…。我が国を守る為に…」
今も『暗黒のティーザー』は当時のまま、黒魔術師としてのシャドーレを支え続けている。
『黒魔術の心得』もまた、昔と何も変わっていない。
「お母様ぁ…!」
母の書いた本を抱きしめ、母と過ごした日々を思い出して涙を流すシャドーレ。
書庫の整理は一向に進まなかった。
何につけドレスは苦手ダンスも苦手、と言うシャドーレですが、実際は社交界にデビューしており、優雅な立ち居振る舞いの長身の伯爵令嬢として噂になったこともあるとか。
シャドーレの多彩な才能は全て母譲りです。




