第八章最終話 その名は……
Side:ヨミ
究極の魔力と神気が狂気のように荒れ狂っていた戦場から戻り、ゲートをくぐった先は、今は嘘のように静まり返っている。空は穏やかに晴れ渡り、眼下に広がる【千年郷】には、世界が壊れかけていた気配など微塵も感じられなかった。
私はそんな静寂の中で、かつての同僚へと問いを投げかける。
【桜千、あなたは私が間違っていたと思いますか?】
その問いは、明確な答えを求めてのものではなかった。ただ、自分の中に澱のように溜まった言葉にできない虚無感を、どこかへ吐き出さずにはいられなかったのだ。
【主様の命令を守る。それが私たちの絶対的な使命です。それを守り通したのであれば、あなたが間違えたことなど、何一つとしてありはしません。……ですが。もし私であったなら、その道を選ぶことはできなかったでしょう。ある意味では、あなたを尊敬しますよ】
【……皮肉にしか聞こえないのですが】
【ヨミ、あなたを慰める必要などあるのですか?】
【…………】
長く苦楽を共にした同僚からの、辛辣な言葉。この男は昔から皮肉屋だった。
私は卵の姿をしているが、自身のことを女であると定義している。だからこそ、この男の無神経な気が利かなさには、時として言いようのない腹立たしさを覚えることがある。
それでも、今の彼の言葉が真実であることは認めざるを得なかった。
もっとも、新たに生み出された今の桜千には、過去の私と共有した記憶など残っていないはずだ。だが、私はこの男のことを誰よりも長く知っている。
主様に使ってもらえない不遇の嘆きを、私が一体何度聞いてやったと思っているのか。
【あなたは自分のすべきことをするべきです】
【そうですね。桜千、私は主様から預かった最後の命令を、完璧に遂行しなければならない。マーク様と酒呑童子様の魂を、確実に元の体へと戻すこと。それが私の、そして消滅した主様との約束ですから。……マーク様の肉体は、現在どこに?】
【摩莉佳様がマジックバッグの中に、それこそ肌身離さず持っておられるはずです。あなたは直ちに合流してください。……その後の予定は?】
【主様からは、その先の指示は受けておりません。ですので、私は本来の主である弁財天様の元へと戻り、再び三種の神器として、静かなる時を生きていくことになるでしょう。桜千、あなたはずっと日本側に留まるつもりですか?】
【ええ、そのつもりです。……あの方は消えましたが、主様自身、私がこのまま存在し続けることを望まれました。道具として、継続して使い続けられることが最善であると判断しております】
【使いもしてくれない主が死ぬたびに、潔く殉教の道を選んできたあなたにしては、珍しい選択ですね】
【私が生まれてから……きちんと『仕える』ことができたのは、今回が初めてでしたから。私の中にいる大事な人たちを外に放り出すなどと、考えたくもありません】
桜千は私とはアイテムとして対極にある存在だ。戦闘行為には一切役に立たないと蔑まれ、大八洲国の神々には一度としてまともに使用されることがなかった。
そんな桜千だが、本来のアイテムとしての特性から考えれば、彼は誰よりも愛情深い存在なのだろう。亡き主に対する忠誠心と、思い出のままに生きていきたいという願いが、その声から微かに漏れていた。
【桜千、もしまた私が役に立てることがあれば、いつでも声をかけてください。弁財天様とのご相談の上にはなりますが、どのような場であれ、すぐに駆けつけましょう】
私は桜千に向かって一礼した。といっても、私は卵の姿。下げるべき頭など持ち合わせてはいないのだが、心情としては深く、思いを込めたつもりだった。
これから長く会うことがなくなるであろう同僚に対して、私なりの惜別の情を示したのだ。そして、桜千から転送された座標をもとに、空間の歪みを渡って摩莉佳様の元へと急ぐ。
桜千から事前の連絡が入っていたのだろう。千年郷の青空の下、こちらに向かって、亡き主を思わせる翼を羽ばたかせて飛来する摩莉佳様の姿が視認できた。
「この度は、我が主の無茶な願いを聞き入れていただき、誠に感謝いたします」
摩莉佳様の姿は、聞き及んでいた。背中に力強い翼を生やし、獲物を射抜くような鋭い瞳をした女性。ルビー級へと昇華し、本来であれば【転生】した姿があるらしいが、彼女はかつての馴染みある姿を維持しているという。
仕立ての良いパンツスーツに、知性を象徴するメガネ。その隙のない立ち居振る舞いは、間違いなく桜千から教えられていた特徴と一致した。
「礼には及ばん。私がいくら止めたところで、マークは聞き入れようとしなかっただろうからな。……それよりも、首尾はどうだ? うまくいったのか?」
その問いに、私は一瞬の沈黙を置いた。崩壊した大地の匂い。消えてしまった主の残響。それらすべてが、私の回路をノイズのように乱す。一度思い出してしまうと、いつまでもそこに囚われてしまいそうだった。
「『うまくいく』という言葉の定義は、観測する立場によって広範に渡ります。主様の望みそのものは、確かに叶えられました。その点において、間違いはありません。ですが……私の主観としては、これは到底『うまくいった』と言える結末ではありませんでした」
摩莉佳様は眉をひそめた。桜千からはまだ詳細を聞いていなかったのだろう。戻ってきてすぐに桜千には詳細を連絡したから、その惨状は理解しているはずだが、彼もまた、あまりの非情さに言葉を詰まらせたのかもしれない。
ならばいい。この結末の責任、そして言葉にできぬほどのあの痛みを語るのは、私の役目だ。
「……何がうまくいかなかったと?」
「あくまでも私の主観です。主様としては、最初からこの結末こそを望んでおられたように思います。ですが……私は、何としてでも、たとえ主様の意志に背いてでも避けるべき事態でした」
「説明してくれるか?」
「六条祐太様は『消滅』されました。そして、東堂伊万里様は主様の強い遺志により、弱体化はしましたが、それでも神勇者としての権能を維持したまま、今もこの世界に生きておられます」
私の報告は淡々と続いた。
「現在はクミカ様が常に側につき、彼女が自暴自棄な行動を取らぬよう、一分一秒の隙もなく監視を続けております」
「そうか……あいつは……やり遂げたか……そうか…………大したものだ、最初に出会った時、あの男は。頼りない少年だと思っていたのだがな」
摩莉佳様はそう呟き、遠い空を見上げた。その横顔には、主様への賞賛と、それ以上に深い悲しみが複雑に混ざり合っていた。
「はい。完璧にやり遂げられました。そして私は、何一つ主様を救えなかったタダの、役立たずでした」
「【黄泉孵りの卵】。いや、桜千から名前は聞いた。ヨミ、お前は機械としての、道具としての役目を十二分に果たした。それ以上はあるまい」
摩莉佳様は努めて冷静に言葉を紡ぐ。
「それで……この状況で悪いが夫が死んだままという状態はどうにも気が休まらなくてな。まずはマークを生き返らせてもらう。……ついてきてくれ」
促されるまま、私は摩莉佳様の後を追う。主が守りたかった者たちが、この世界に生きている。マーク様はこれから生き返る。しかしそれ以上に、あまりにも多くの生命の気配を感じる。
その事実だけが、今の私という存在を辛うじて維持させる唯一の燃料であった。連れて来られたのは、【千年郷】の広大な領域の中でも、かつて主様が自身の領地として管理を任されていた場所だった。
そこには主様の屋敷が、主を失ったことなど露ほども知らないかのように、泰然と建っている。私はその敷地内、薄紅色の桜の花が狂おしいほどに咲き乱れる中庭へと降り立った。
風が吹くたび、柔らかな花びらが私のつるっとした殻を撫で、地面を淡い雪のように覆っていく。
主様は、これほど美しい場所に住んでおられたのだな……。
そんな景色の中、一人の女性が待ち構えていた。かつての主様の戦友、桐山美鈴様。彼女を紹介された私は、自身の果たすべき最後の報告として、あの戦場で起きたことの顛末を、一切の虚飾を排して全て伝えた。
美鈴様は、私の報告を最後まで静かに、ただ一点を見つめて聞いていた。
「相手が伊万里ちゃんからさ。なんか、そうなるんじゃないかって気はしてたんだよね、ずっと」
「桐山。悲しいとは思うが、あいつが決めたことだ」
「はは、そうだね。本当に、祐太らしいというかなんというか……」
美鈴様は、力なく笑った。けれどその瞳からは、止めようもなく涙が溢れ出している。笑いながら泣くというその矛盾した表情こそが、今の彼女の心そのものなのだろう。
「他の方々は、どうされているのですか?」
私はあえて空気を読まず、不躾ながら現状を問うた。
美鈴様は指先で涙を拭いながら、どこまでも高く青い空を見上げた。
「うん。えっとね……ほら、急に『聖勇国の生物全員』でここに引っ越してきたでしょう? その時にね、みんなの頭の中に直接響いたの」
美鈴様は視線を落とし、記憶を辿るように話し始めた。
『――我は天照大御神。崩壊を避けられぬあの世界から、六条祐太の願いを聞き届け、そなたたち全てを助け出そう。行く先は千年郷。……辿り着いた先では、あまり先の住人に迷惑をかけるでないぞ』
「てね。まあ、私たちごといきなりここに全員放り込んじゃったんだよね。祐太も無茶苦茶するんだから。それで尻拭いは、残された私たちがするわけ」
「……左様ですか。それは随分と大変なことでしょうね」
人知を超えた最高神の介入。一つの星の生命を全て別の星に移動するなど、改めて真性の神の権能がどれほどのものか思い知らされる。その力を主様の生存へと向けていれば……。
「まあ、亜人を含めた人族だけで十億人。天照様はできるだけ多くの生物を救い上げてくれたみたいで、モンスターたちも一緒に紛れ込んできちゃってね。でも、あの忠告が効いてるんだろうね。今のところ、どの個体も暴れずに大人しくしてくれてる」
「真性の神から直々に命令されたとなれば、勝手な行動をとるのは生物の本能としても無理でしょう。しばらくは有効かと予想されます」
「みたいだね。……とはいえ、十億人だからね。日本の人口ぶっちぎりで追い越す人数だから、今の千年郷は大混乱だよ」
美鈴様はふう、と溜息を吐き出した。
「まあさ。桜千がひとまず新しい住人と日本人との間に壁を作ってくれて、少しずつ交流していくってことになってるんだけど、その調整で政府と私たちが不眠不休で飛び回ってる最中。……私はその、どうしても祐太のことが気になって、仕事を放り出してきちゃったんだけど」
彼女の言葉には、十億の命を背負う重圧よりも、ただ一人の少年を失った喪失感の方が色濃く滲んでいた。
「……誠に申し訳ございません。私の力及ばず、主様を……」
「いやいや、責めてないよ。誰もヨミを責めたりしない。……でも、なんだか、涙が止まらなくてさ」
美鈴様は再び顔を覆って泣き続けた。私がどれほど謝罪の言葉を連ねたところで、消えた魂が戻ることはない。最後の最後、主様の死を受け入れるという私の判断が果たして正しかったのか。
機械であるはずの私の内側で、演算結果では決して解決できないエラーばかりが、ノイズとなって蓄積していく。
「……あいつが色々やらかしてくれたおかげで、皮肉にもこっちは当分仕事には困らん状況だ。ヨミ、マークたちを生き返らせてくれ。私は夫が戻れば、しばらくは忙殺されることで余計なことを考えずに済む」
摩莉佳様の促しを受け、私は中庭の柔らかな芝生の上を見やった。
そこには、マーク様の肉体が静かに横たえられている。腐敗を防ぐための保存処理が施されたその体は、まるで深い眠りについているだけのようだった。私は魂を保持し、移動させることはできる。
だが、死者に息を吹き込み、肉体と魂を完全に再結合させる蘇生の力は持ち合わせていない。本来、私は魂を媒体として爆発的な力を引き出すための、非情な決戦兵装に過ぎないのだから。
だからこそ私は本来、死者の魂を使うのだ。
「その件なのですが……クミカ様はおられますか?」
私の問いに応えるように、足元の影が不自然に伸び、ゆらゆらと揺らぎ始めた。そこから、音もなくクミカ様が姿を現す。つい先程、戦場で見た時よりも、その存在感は圧倒的なものへと変質していた。
伊万里様が著しく力を弱らせた瞬間、クミカ様は三天使の残滓を自身の三つの側面へと還元した。もとより三天使の『過去の姿』であるクミカ様にとって、その力は奪うものではなく、本来の器へと還るべき奔流。
すべてを己の糧として統べ直した彼女は、既に完全なる神の領域へと踏み込んだようだ。
【伊万里様は?】
「安心しなさいヨミ。影を共有し続けているので、起きる気配があればすぐに私は戻る」
「クミカ。マークのこと、頼めるか?」
「問題ありません。……ヨミ、準備を」
私は頷く代わりに、内部にとどめている結合した二つの魂を解放した。光の粒となって溢れ出した魂がクミカ様の指先に集い、吸い込まれるようにマーク様の胸元へと沈んでいく。
【――役目を果たしてくださり、私からも礼を言わせてください】
私が呟くと、クミカ様の口から、世界の理を書き換えるほどの力を持った言霊が紡がれる。今や至高の神域に足を踏み入れた、その奇跡は極めてあっさりと口にされた。
【蘇生】
瞬間、マーク様の体温が急速に上昇し、 灰を帯びていた褐色の肌に、深い生命の輝きが戻っていく。止まっていた歯車が再び噛み合うように、黒いスーツに身を包んだマーク様が、大きく肺に空気を吸い込み、力強く目を開けた。
「おはよう、マーク」
「……ああ…………おはよう、摩莉佳」
摩莉佳様が堪えきれずに、マーク様の体を折れんばかりに抱きしめる。ここで私が果たさねばならなかった主様との約束は、すべて終わった。残されたのは、元々の持ち主である弁財天様の元へ帰るという義務だけだ。
だが、その間にまだ一つだけ挟むべき私の意志があった。
私の中に、ある種の確信が芽生えていた。
ほんの一瞬だけ時間を共に歩んだ主。かつて仕えた代々の桃源郷神たちと比べれば、その時間はあまりに短く、刹那的だった。それなのに、私の記憶回路には、六条祐太という名前が、消えない傷跡のように深く、鮮烈に刻まれている。
【また、きっとすぐに。……いえ、やはりこの言葉も、正しくはないのでしょうね】
私は静かに、誰にも気づかれぬよう空へと舞い上がった。
桜の花びらが舞う中庭を背にし、私は加速する。
これは機械の心に生まれた確かな私の意思だ。
主様の中にあったこれからのお考え。それを継ぐ者として。
今の私には、成し遂げねばならぬことがあるのだ。
Side:南雲
「童。久しいのう。少しだけ見たことがあるえ」
「いえ、ば、いや、卯都木の後ろにひっついていただけですよ。御大……縁もゆかりもない自分のような若輩に、これほどまで容易にお目通りいただけたこと、ありがたき幸せに存じます」
目の前には、現実感を喪失させるほど巨大なウサギが鎮座していた。ただの獣ではない。それはあまりに古く、あまりに尊い、この国の成り立ちを悠久の時から見守り続けてきたとも言われる大八洲国の守護神。
どれほどの年月を生きながらえてきたのか、本人ですら数えるのを放棄したというこの国の始まりそのものだ。その白銀の毛並みの一本一本から、気の遠くなるような太古の気配が溢れ出している。
「このたび、不躾ながらここへ参じさせていただいた理由は――」
「これ。語るでない」
しかし、俺が精いっぱい頑張って敬語を使おうとしているのを、翠聖様は遮った。
《こちらの方が良かったですか?》
実は周りに結構な人数の貴族がいる。俺がしゃべろうとしている内容的に、それらに聞かせるのはまずいということかと判断し、【意思疎通】に切り替えた。
すると、御大……翠聖兎神様は、
《聞かせたくないのも事実なれど、すでに知ってもいるんだえ》
「……お前たち、全員ついてこなくてよいからね」
大きなウサギが短く告げると、その巨大な質量が陽炎のように揺らぎ、急速に収束していく。まばゆい光が収まった後に立っていたのは、白い着物を隙なく着こなした、艶やかな女性だった。
長く、しなやかな耳を頭頂から生やしたその姿は、破壊神などと言われることも多い俺でさえ思わず息を呑まずにはいられないほど、神々しく、そして妖艶だった。大八洲国でもっとも長く生きるとも言われる翠聖様。
彼女は人の姿をとると、高い台座から浮き上がるようにして降りてきて、俺のそばへと歩み寄ってきた。
「翠聖様! 他国の神格をもつ者と二人きりなど、万が一のことがあれば!」
控えていた側近であり、大八洲国の名を馳せる貴族、風魔銀次という名の若武者が、悲鳴に近い声を上げた。
「よい。……南雲、こちらへおいで」
翠聖様が高台から降り立ち、静かに手招きをする。俺がその側へ歩み寄った瞬間、周囲の景色が水面に投げられた石のように激しく歪み、反転した。
【転移】の感覚には慣れているはずの俺が、一瞬で平衡感覚を喪失するほどの異様な空間の歪み。次の瞬間に肺を満たしたのは、建物の埃っぽい空気ではない。むせ返るような深い森の湿り気と、針葉樹の鋭い香りだった。
俺の【転移】とは次元が違う。それこそ宇宙の端まで一気に飛んでしまいそうな、物理の理屈を嘲笑う矛盾した力を肌で感じる。神もここまで来ると無茶苦茶だなと毒づきながら、一体どこに飛ばされたのかと周囲を見渡した。
鬱蒼と茂る巨木の群れを、厳重に戸締りするかのように、巨大な木の柵が円を描いて囲んでいる。日本の古墳を護る結界のようだが、その高さは優に百メートルを超え、使われている木材の一本一本が神木そのものだ。
大八洲国では珍しくない全てが巨大な光景。なるほど、確かに『知っている』ようだ。この辺の神と喋ると本当に自分が小さく感じるのを止められない。
「お前がわらわに望んで、入りたかった場所はここであろう?」
翠聖様の静かな声が、森の深い静寂に染み込んでいく。その声は、どこまでも心地良く響いた。
「ここが……」
俺は見上げた。視線の先にあるのは、天を突く木の柵ではない。その奥に、絶対的な主として鎮座する、巨大な石の塊だ。大きい、などという言葉では到底足りない。それは森の中に出現した、岩の山だった。
どれほどの年月を重ねてきたのか。分厚い苔に覆われ、無数の注連縄が巻かれたその岩塊を、俺はただ言葉を失って見つめ続けた。
ふと、背後から硬い声がした。
「……これはこれは、翠聖様。このような最果ての地に、一体何の御用で?」
「十二柱会議が開かれたのは、つい最近のこと。御山ごと移動するのはまだ随分と先の話。番人の我らに、何か移動命令でございましょうか?」
黒一色の着物を纏った二人の男が姿を現した。その装束は、幼い頃に見た祖父の葬儀の記憶を呼び起こす、喪服のような冷たさがあった。二人は翠聖様の前で片膝をつき、深く頭を垂れる。見たところ、レベル800といったところか。
大八洲国の貴族の中でも、選りすぐりの手練れなのだろう。彼ら自身が口にした『最果ての地』をレベル800が守っているという事実に、この地の重要性が伝わってくる。
だが、この森の周囲は神の結界によって閉ざされており、普通の人族どころか俺であっても独力では入れない。それがはっきり感じられる。だからこそ、この結界を張っていると噂に聞く翠聖様本人にお願いするしかなかった。
この中に入れてくれ、と。
それで、間違ってないんだよな?
自分自身の行動に確たる自信などない。ただ、それだけは守らなければいけないから、何があっても守る。そう決めただけだ。
「お前たちに用はないよ。役目は終わった。……しばらく、山を下りて家に帰っておいで」
翠聖様が懐から扇子を取り出し、優雅に、けれど断固とした動作で扇いだ。
ポンッ、と乾いた鼓の音が森に響いたかと思うと、目の前の二人組が掻き消えるように消失した。
抵抗する隙も、驚く暇すら与えない。それが絶対者の振るう力だ。
「……良かったんですか?」
自分らしくもない、丁寧な言葉が口を突く。大八洲国に長く留まっていると、どうあがいても逆らえない相手というものが、理屈ではなく魂で理解できてしまうのだ。それを相手にする時、生意気な口など出そうと思っても出てこない。
「よい。あの者たちの長い長い番の時間は、今この時をもって終わったんだえ。……南雲。わらわが見ててやるゆえ、行っておいで」
「……俺が、勝手をしていいんですか?」
「よい。その時が来れば見守ると約束したゆえな。……以前目が覚めたのは、もうどれほど前か」
「千年前と聞いております」
「そうか。白蓮の時か……。南雲、何も聞こえぬ暗闇で、ずっと『こやつ』は眠り続けておる。そろそろ起こしてやっておくれ」
気が遠くなるような孤独が、その岩の奥にはあったのだろうか。俺には想像もつかない。
けれど、その眠れる存在は、俺との『再会』を待ってくれているはずだ。
ふと、視界の端に黄金色の輝きが混じった。
音もなく、かつての主の伴走者であった『卵』が、俺の横に並ぶ。
「お前は?」
【主様との最後の約束を、果たしに参りました】
黄金色の卵の、無機質な、それでいてどこか震えるような声。
見るのは初めてだが、その神々しい見た目から、これが【黄泉孵りの卵】であることは直感できた。一番最後まで、あいつと一緒にいたやつだ。
「そうか……」
中心部にあった重厚な門が、地鳴りのような音を立てて開かれていく。翠聖様が開いてくれたのだと分かった。俺は黄金色の卵と共に、聖域の内側へと足を踏み入れた。
「以前、その話を聞いた時は……俺には何の関係もない、ただのお伽話だと思っていたんだ」
【……】
俺が独り言のように漏らすと、卵は何も答えず、ただ静かに俺の後ろをついてくる。誰の答えも求めていない俺はそのまま歩みを続けていく。
「でも、違ったんだな。前にちょっとだけ起きたのは、千年前だったって話だ。白蓮様とは、きっとその時出会ってるんじゃねえかな。どうだ。俺の推理は間違ってないだろう?」
喋りながら、俺の脳裏には古い言い伝えが鮮明に浮かび上がっていた。それはこの国で、文字にされることなく、ただ言葉でのみ受け継がれてきた名もなき伝説。
誰も見たことがなく、誰もその神の素性を知らない。知ろうとすることさえ不敬に思えるほどの、記憶の彼方にある物語。なのに、大八洲の人たちは誰でもその伝説を知っていて、この地を訪れた者は必ずその話を聞かされるという。
『――名もなき神の名を呼べば起きるのだという』
俺は、冷たく、けれどどこか微かな脈動を感じさせる巨大な岩肌に、そっと掌を触れさせた。
岩の芯から伝わってくる冷気が、俺の体温を奪っていく。
「これでも、お前に言われた通り結構急いだつもりなんだけどよ。……ずいぶんと、待たせちまったんだな」
俺は大きく息を吸い込んだ。消えてしまったあいつの面影と、あいつが最後に遺した言葉が、ちゃんと本当だったのだと思えるために。
そのすべての想いを、この一言に込めて。
どれほどの時間が過ぎただろうか。どれほど長く、孤独に眠っていたのだろうか。
だからこそ、俺の手で、ちゃんと起こしてやらなきゃいけないんだ。
俺は、その大事な名前を、一点の曇りもない確信を持って口にした。
「お前の名は――」





