祈願
――退くか進むか。
山の中腹で決断を迫られていた。
明け方まで降っていた雨のせいで想像以上に足場が悪い。
加えて、登り始めてからどんどん最悪していく体調。
胃の中にあった蓄えは道中で出しきってしまっていた。
せめて、頂上までの距離さえわかれば……。
重い頭を上げて先を眺めてみるものの、鬱蒼と茂った草木に囲まれた獣道では、頂上までどれくらいかすら判断ができない。
振り向くと木の葉の間からわずかに、人里が遥かに小さく見えた。
進むのが困難であるのなら、同じように戻るのも困難だな。
――であるのなら、進めばいい。
幸い、体調の不良も熱や風邪といった類のものではなさそうだ。放っておけば直に治るだろう。
気を引き締めて、脚を踏み出す。
靴や服の裾に付着した泥が意気を削いでいったが、心を無にして登っていくと、やがて岩肌の斜面に出た。
急な斜面は両手をつかなければバランスを取るのが難しそうで、滑らぬように足の置き場にもより一層の注意が必要になるだろう。
一歩一歩確実に登っていく。
まだらに漂う純白の雲に入り、やがて抜けた頃ようやっと頂上が見えた。
――あと少し。この岩場を登りきれば、頂上に出られそうだ。
ほぅと息を吐き出す。心が高揚しているのを感じる。
薄手の手袋をしているものの、地面の冷たさにかじかむ指に鞭を打ち、最後のスパートをかける。
ほどなくして、己の右手が、最後の岩を掴んだ。
* * * * *
空のほど近く、朝陽に照らされたそこは、草すら生えぬ何もない広大な空間であった。
いや、よくみるとひとつだけ、中央にぽつんと石が置かれている。
四角柱状に切られた御影石には名前が刻まれている。
……まるで墓石のようだ。
達成感と疲労にまみれた頭の片隅で、そんなことを考える。
それも束の間。
それが意味するところを思い直すと、別の感情が雪崩のように押し寄せてくる。
それは喉を焼き、涙が溢れるほどの感動だった。
――ようやっと会えた。
それはかつて彼女がここに存在していた証だ。
手を合わせて祈る。
……祈る?
いや、これを人は祈りとは言わない。
これは――
* * * * *
ガサリと背後の茂みが音を立てた。
鳥にしては音が大きい。獣だろうか。
奇しくも現在は冬の終わり。雪は既になく、そろそろ獣たちも動き出す季節であろう。
山の入り口で見かけた熊出没注意の看板を思い出して身震いをする。
息をひそめて振り返るも、そこに獣の存在を認めることはできなかった。
安堵して再び歩みだそうとしたときに気づいてしまう。
……山の空気が先ほどまでとは明らかに変わっていることに。




