逃避
道すがら、登山の為の幾つかの目印を視界の端で捕らえる。
あれだけ時間をかけて登ったというのに、帰りはその倍……いやそれ以上と思われるペースだ。
下りだということを考慮しても怖ろしく早い。
――逃げていた。
何に追われているのかも理解できなかったが、気配だけが背後から……そして山全体から押し寄せてくる。
汗は掻いているのに、震えが止まってくれない。
斜面に足を取られ、体勢を崩しながらも山を駆け下りる。
一秒でも早く下山しなくては……。
地に足を着く衝撃を利用して浅く息を吐く。
そのまま前に倒れ込んでしまいそうな身体を、太ももの普段使わない筋肉で無理やりに制御する。
浅い呼吸を続けているせいか、頭がフラフラしてくる。
酸素だけではない、水分や栄養も足りていないのだろう。
胃の中は既に空っぽだ。
息が咳きれても、脚を前に出す。
絡みつく蜘蛛の巣を強引に払いのける。
木の根、水の流れた跡、無造作に転がる石。
眼球と頭を高速で回転させ、どの部分に足をかければ安全か、即座に判断してまたすぐに次の判断を下す。
かかとを斜面に取られてバランスを崩しながらも、無理やりに姿勢を保ち、また次の足場を求める。
――はやく、逃げなくては。
やがて左手側が斜面に入ると、風が遮蔽されて空気の流れが完全に止まる。
音が完全に消え、自らの息遣いと足音だけが響く。
……いや、それだけではない。
ガサリ、ガサリ。
己の耳には何ものかが背後から追いかけてくる音が聞こえている。
すぐそこにある恐怖に、頭の中を占有されてしまう。
山全体から感じる突き刺すような視線を感じる。
追いかけてくる気配は断じて獣のそれなどではない。
その正体を考えようと思う頭すら働かない。
とにかく、はやく、安心できる場所まで。
石に根に足を掛け、幹に枝に果ては信用に値しない草にまで手を掛けて、ひたすらに山を下る。
どれくらいそうしていただろう。視界がやっと開けた。
峠に出たのだ。別の山との境目。
左右を見晴らしのいい展望に恵まれたそこにたどり着き、ほっと安堵の息を吐く。
林業にも使われている山に入るのだ。
ここまで来れば、どれだけ急いでも怪我の心配はない。
斜面は相変わらず急ではあるが、草木に囲まれた獣道ではなくなる。
とはいえ手入れされているわけでもないので、油断は禁物ではあるのだが。
脚を止め、フル回転させていた眼球と頭を休止させる。
深く息を吸い込み、笑っている膝に「もう少しだ」と喝を入れる。
普段使わない筋肉をフル動員したせいで、太ももがとんでもなく怠い。
あと数分歩けば、違う山に入ってしまえば、きっともう追ってくることもないだろう。
安堵のあまり……
振り向いた。
つい、振り向いてしまった。
やはり己の背後を脅かす存在は目視などできようはずもなく、
そこには一人、女が立っていた。
女が、佇んでいた。
白の着物は、雨上がりの山森には凡そ適したものではない。
長い黒髪に包まれて、怒りとも悲しみともとれる表情を浮かべた女は、切れ長の鋭い眼光で己を睨みつけている。
心当たりはあった。
……つい今しがたのことではあったが、恐怖に忘れてしまっていた。
その可能性を考慮できなかった。
では山の中で感じていた気配は、殺気などではなく……?
「どうした? 逃げるのではなかったのか?」
つまらなそうに、それでいて怒気を孕んだ彼女の言葉が胸に突き刺さる。
「あれだけのことをしておきながら、お前は未だ帰れると思っているのか?」
弁明の言葉も頭には浮かばない。
彼女の怒りのすべてが自分に起因するものだということは、容易く想像できた。
「帰りたければ帰るがよい。しかし……」
「契りが消えることはないと知れ」
その時去来した感情はもはや恐怖などではなく、むしろ逆にものだった。
求めて、求めて、求めて。
ついに手に入れた。
……そう、これは己が始めたことなのだ。
「ただ消えていくのを待つ、怖ろしく孤独な眠りであった」
己が彼女を求め、彼女がそれに応えた。
まるで婚姻の儀のようなそれに。
「お前が私を……目覚めさせたのだ。今更後に引けると思うなよ?
去来する感情のあまり、声が出ない。
返答の代わりに、ゆっくりと首を縦に振った。
「では、またな」
口の端にわずかに笑みを浮かべると、女は溶けるように消えてしまった。




