後編
夕方になっておそるおそる家に帰ると、おじさんの自転車はもうなかった。
食い散らかされて骨になったママが捨てられているんじゃないかと怖かったが、リビングでは普段通りのママが洗濯物を畳んでいたので、ぼくは拍子抜けしてしまった。
「遅かったわね。汗だくじゃないの」
「う……うん」
「シャワー浴びておいで。今日はトンカツにしたわよ」
ママは畳んだ洗濯物を重ねてソファの上に置いた。おじさんにそこで何かひどいことをされていたのに、どこにも怪我をした様子はない。じっと見ていると、どうしたの、と言ってママは首を傾げた。
夢でも見たのかな――僕はお風呂場の脱衣所で服を脱ぎながら考えた。
ママに少しも変なところはない。おじさんがあいつに乗り移られるわけないじゃないか。
ぼくは汗でぐっしょり湿ったシャツとパンツを洗濯機に放り込もうとした。すると、洗濯機の中には青いバスタオルが先に入っていた。いつもおじさんが使っているお客様用のタオルだ。おじさん、お風呂に入ったのかな。
「ひははははは」
いきなり、そのタオルの皺が笑った。
「あの女はゆっくり時間をかけて食ってやるのさ。子供も食うぞと脅したら、あの女は黙っていると約束したんだ。おまえに助けられるかな?」
「何だって!? この野郎!」
ぼくは洗濯機に手を突っ込んでタオルを引っ張り出した。
「ママは渡さないぞ! ぼくが守るんだ!」
思い切り床に叩きつけると、タオルはだらしなく広がって喋らなくなった。
ぼくは裸でぶるぶると震える。怖いんじゃない、腹が立ったんだ。
そうだ、ママを助けなくちゃ。あいつなんかに……ダークウルフなんかに渡すもんか!
ぼくは服を着ないままに脱衣所を飛び出して、階段を駆け上がった。自分の部屋の本棚の脇に、大切な武器が立てかけてある。『聖剣ファングブレイド』だ。
これでダークをやっつけてやる。力を貸して、シャイニングウルフ!
ぼくは剣を握って高く掲げ、「グワオー」と吠えさせた。
八月三十一日、夏休み最後の日、ぼくは修二おじさんと一緒に犬洗池に行った。
周りを田んぼに囲まれた犬洗池は、この辺でいちばん大きなため池だ。土手や池の壁は頑丈なコンクリートでできていて、農家の人たちが当番で水の管理をしている。底の方に、水を用水路に吸い出す太いパイプがあるんだって。
フナやザリガニがどっさり棲んでいて、上級生の男子は網や釣り竿を持ってよく獲りに来ている。でも水は深いし、落っこちるとコンクリートの壁を這い上がるのは難しいから、子供が遊ぶことは学校で禁止されていた。
ゲンゴロウが獲りたいんだ、とぼくは前の日におじさんに頼み込んだ。
「犬洗池のゲンゴロウは他の池のやつよりずっとでっかいんだって。二学期から教室で飼いたいんだよ。でもあそこの池はちょっと怖いから……獲るの手伝ってよ!」
犬洗池に行ったのがママにばれると叱られるからと、小学校の正門前で待ち合わせをした。おじさんはその日は大学へ行く用事があったらしいが、夕方になって自転車でやって来てくれた。
「お待たせ。あれ? それ持って来たのか」
「うっ、うん、ヤッシーに見せてあげてたんだ」
ぼくは慌てて、手にしたファングブレイドを背中に隠した。おじさんは呆れたように笑って、額の汗を拭う。怪しまれたかも、と思うとヒヤリとしたが、それ以上は突っ込まれなかった。ダークウルフのやつ、今は引っ込んでいるんだろうか。
日が短くなった、って大人たちは言うけれど、ぼくたちにとって外で遊べる時間はまだまだ長い。西の空に太陽が沈みかけても、光はたっぷりと残っていて、空気は昼間と同じく暑かった。
夕暮れの犬洗池は、焼け落ちる空の色を映して真っ赤に輝いていた。血だまりみたいな、綺麗な怖い色。岸に生い茂ったアシや水面に浮かんだホテイアオイが、墨汁を垂らしたように真っ黒に見えた。
池の周囲に、人影はなかった。今までほんの少しだけ吹いていたそよ風がぴたりと止む。蒸し暑さが全身にまとわりついてきて、ぼくの頭から汗が噴き出した。セミの合唱がやけに大きく聞こえる。
「この辺かな。ちょっと網、貸してみな」
おじさんは自転車をとめて、ぼくから魚獲り網を受け取った。水中に生き物が潜んでいそうな、アシの生えた辺りを狙っている。
土手の端っこにしゃがんで水面を窺う背中を、ぼくはじっと眺めた。強い西日を横から受けて、青いTシャツは黒々と見えた。そこに今にもあいつの顔が浮かんできそうで――。
ぼくはファングブレイドを掲げた。
「……ママはあげないよ」
おじさんが首を捻じ曲げて振り返る。聞き取れなかったのか、不思議そうな顔だ。
その動きで、Tシャツの背中に皺が寄った。黒いあいつがにやにや笑う。
「おじさんから出ていけ!」
「え?」
光の司祭の祝福を受けた聖剣を、ぼくは力いっぱいおじさんの頭に振り下ろした。
テレビで観たような、眩い光は出てこなかった。それはぼくがシャイニングウルフじゃないから仕方がない。ただ、ガツンという鈍い音がした。
「いった……何するんだよ……!」
右手で額を押さえ、左手でぼくを振り払うようにしたおじさんの腰が少し浮いた。ぼくはそのチャンスを逃さず、おじさんに体当たりした。
土手の端にしゃがみ、中途半端に身体を捻っていたおじさんは、呆気なくバランスを崩した。まるでマット運動で前転をするみたいにコンクリートの斜面を転がって、頭から水の中に飛び込んだ。
ざばーん、と大きな音がして、びっくりするくらいたくさんの水しぶきが上がった。ぼくのサンダルも水を被って濡れてしまった。
やった、上手くいった! ファングブレイドに触れられて、その後ショックを与えられると、ダークウルフは人間の身体から飛び出してくるんだ。シャイニングはいつも仲間と協力して、そんなふうに敵を追い出している。
剣を構えて待っていたけれど、出てくるはずのダークの本体はいっこうに姿を現さなかった。
おじさんもまた、池から上がってくる気配がない。波紋が広がってゆらゆら揺れていた水面は、少しずつ静かになって、空気の泡を浮かべるばかりだ。
ぼくは歯を食い縛って、長いことそこで立っていた。
ひははははは、俺様を追い出しやがったな! 狂ったように笑いながらダークが現れるか。
航! 何てことすんだ馬鹿! カンカンに怒ったおじさんがずぶ濡れで上がってくるか。
けれど、待っても待っても、どちらもやって来なかった。
長々と伸びた太陽の光が弱まって、空の色が暗い紫色に変わり、戻ってきた風が涼しくなった。犬洗池は血の色をすっかりなくして、闇の色に沈んでいる。
セミの声がふっと遠ざかり、水辺は静まり返った。
修二おじさんがいなくなったことに大人たちが気づいたのは、それから三日後だった。
おじさんはぼくのおじいちゃんの家――つまり自分の実家に住んでいた。帰って来ないおじさんを、おじいちゃんもおばあちゃんもしばらく気にしなかった。おじさんのやってる研究は実験が忙しくて、大学に泊り込むことも珍しくなかったからだ。
それでもさすがに携帯が繋がらないのはおかしいと、おばあちゃんが大学に問い合わせ、おじさんの行方不明が分かった。
「修二の最後の家庭教師の日は、確か八月三十日だったよな。それから会ったか?」
パパはぼくにそう訊いたが、ぼくは会っていないと首を振った。ちらりとママを見ると、真っ青になってエプロンの端を握り締めている。
大丈夫だよ、ママ。あいつはもう来ないからね。
その後、警察に『そうさくねがい』を出したらしい。おじいちゃんもおばあちゃんもパパもママも、みんな心配そうな暗い顔をしていたけれど、ぼくは黙っていた。
九月の連休前、ぼくは学校の帰りにひとりで犬洗池に行った。
太陽はすでに沈みかけ、水面は暗い。あの日よりは早い時間のはずなのに、やっぱり日が短くなっているのだと思う。あんなにやかましかったセミの鳴き声もすっかり小さくなって、次々と途切れて消えていく。
ぼくは土手の上に立って池を見渡した。だいぶ水かさが減っていて、すぐ真下の水面に、短い棒のようなものが顔を出していた。
あれが何だか知っている――おじさんの自転車だ。あの日、ぼくが蹴り落としてやった。
水が少なくなって自転車が全部出てきたら、大人たちはここを探すだろう。そうしたら、おじさんも見つかるかな。
きっとおじさんは長くダークに取り憑かれて、完全に心を支配されてたんだ。だから追い出せなかった。誰にでも悪の心はあるって、そう言ってたのはおじさんだったもの。
大好きなおじさんはあいつが連れていってしまった。そう思うと、ぼくは悲しくなった。鼻の奥がツーンとして、瞼が熱くなってくる。
かわいそうな、修二おじさん。もっと早くに気づいていれば……。
ふいに、強い風が吹いた。水面に細かい波が立つ。
「ひははははは」
笑い声が聞こえた気がして、ぼくは目を凝らした。
池の真ん中くらいに、黒く大きな塊が浮かんでいた。遠くてよく分からないが、その形は人間のようにも見える。でも、人間にしてはずいぶん大きい。
「俺様は諦めないからなあ」
ぷかりと浮かんだそれは、確かに喋っていた。ぼくをからかうように、脅すように。
まだだったんだ、とぼくは悔しくてたまらなかった。あいつはまだいる。あの時やっつけられなかったんだ。
空の闇はどんどん濃くなり、少し遅れて池の色も同じになった。風は止み、弱々しいセミの声も消え失せ、水面に浮かんだそれも見えなくなっていった。
犬洗池で修二おじさんが見つかったのは翌日のこと。取水パイプに引っ掛かって半月以上も水の中にいたおじさんは、ぶくぶくに膨らんでいたんだって。
『守護戦獣シャイニングウルフ』は次の年の三月に最終回を迎えた。
シャイニングはダークをやっつけて、でもギリギリで助けてやって、ダークも心を入れ替えて、最後は兄弟で『闇の力』を倒す、という結末だったらしい。ぼくはあんまり真面目に観ていなかったから、よく覚えていないんだ。
「あんなに好きだったのに、最近は観てないんだな。航、飽きちゃったか?」
「だってあれは作り話だもん」
ぼくが答えると、パパは感心したように鼻を鳴らした。
「そうだな、航は来月には三年生になるんだもんな。それに……お兄ちゃんにもなるんだから、しっかりしないと」
パパはソファで雑誌のページを捲っているママに目をやった。
ママは顔を上げてにっこりと笑った。ママのお腹は大きく膨らんでいる。中にぼくの弟が入っているんだって。生まれるまで、これからまだ大きくなるって聞いて、ぼくは信じられなかった。
パパはママの隣に座って、その重そうなお腹を優しく撫でた。
「ほんとに……修二の生まれ変わりみたいだよな」
すると、ママの顔から急に笑顔が消えて、怒ったような怖がっているような表情になる――そう、セミやバッタのいっぱい入った虫かごを見た時のような。
「そうね……そうかもしれないわね」
「あ……ごめん。事故死した弟と一緒にするなんて、デリカシーなさすぎた。縁起が悪いよな」
パパは素直に謝った。去年の夏おじさんが死んでから、何度も繰り返されたやり取りだ。最近ようやく、パパの顔から悲しい色が薄らいだ気がする。
ママは気まずそうに唇を歪め、目を逸らした。そんなママの様子に気づかず、お腹を撫でていたパパは、おっと声を上げた。
「動いてる動いてる。航、来てごらん、弟が挨拶してるよ」
ぼくはソファの前に座って、おっかなびっくりママのお腹に手を当てた。中にいる何かが動いているのが分かる。とんとんと勢いよく、お腹の内側から振動が伝わってくる。
ぼくはそこに耳を当てた。
「赤ちゃんの心臓の音が聞こえるでしょう?」
「ほら、お兄ちゃんって言ってるんだよ」
そんなものは聞こえなかった。
気味の悪い笑い声が、ずっとずっと深くで響いている。
ぼくは知っている。テレビのシャイニングウルフは作り話、嘘なんだ。本物のダークウルフは、あの日ぶくぶくになった修二おじさんから抜け出して。
ここに、いる。
「ぼく、早く弟に会いたいな。弟が生まれたら、やりたいことがあるんだ!」
ファングブレイドはしばらく捨てられそうにない。ぼくはとても嬉しくなった。