11 朝食もサービスです
ソファで目を覚ましたヴィルフリートは、ベッドの方を見てあれが夢でなかった事を思い知らされ愕然とした。
一睡も出来なかった……と言えば嘘になるが、ヴィルフリートが寝不足なのは誰の目が見ても明らかだった。
昨日、結局強めに揺さぶっても起きなかったエステルの扱いに困って、ヴィルフリートはエリクに鳥を飛ばした。
鳥を飛ばすと言っても伝達魔法の事を言うのだが、大至急の判断を求められる事だったので恥を忍んで連絡を取ったのだ。
予想通り事の次第を話せば予想通りエリクに「へーお嬢がアンタの部屋に」「男女二人きりの密室、それも自宅とか大胆だな」とかにやにやした返事が来た。
次に出勤する事を考えると非常に気が重くなるものの、背に腹は変えられない。
食事については笑われたが、エステルが油断どころか警戒すらなく寝てしまった事については驚かれた。
『あのお嬢が人前で眠るなんて珍しい。何だかんだ直ぐに起きるから』
……出会った当初倒れていたのはノーカウントにするとして、エステルはこんなでも警戒心は強いらしい。
勘も鋭く近寄ってはならない人間にはまず近寄らないそうだ。
そのエステルが寝入ってるのだから、余程安心されているのだろう、との事。喜べばいいのか悲しめばいいのか。
『まあアンタへたれだし損得考えて手出ししないだろうからそのまま寝かせてやっておいてくれ』
お前もなのかエリク、と素で突っ込みを入れるギリギリで飲み込むと、エリクは笑っているけど何処か寂しげな響きで。
そもそも誰がしますか、と突っ込みを入れれば先程の声音はなかったように笑われる。
ならいいじゃないか、と言われて一瞬言葉を詰まらせれば、あれよあれよという間にお泊まり決定になっていたのだ。エステル本人の意思は分からずじまい。
取り敢えず起きろと念じて声もかけたものの起きなかったので、ベッドに運んで自分はソファで寝たのである。
「……どう言い訳をするべきだろうか」
エステル視点からは気付いたらベッドで寝かされていた、というものなので、普通の女子ならば警戒してしかるべきだ。
しかし……エステルは明らかに普通の女子の感性は持っていなさそうな気もするので、どう解釈されるか分からない。
先述の通りに解釈されても困るが、あらぬ方向に勘違いされても困る。かといって能天気にスルーされるとそれはそれで複雑な男心だった。
そんな悩みの種であるエステルだが、彼女自身は全く何も知らないですよすよ寝ている。
軽く体を丸めてむにゃむにゃと何やら幸せそうな表情で寝言を漏らしているので、居心地が悪い、という訳ではなさそうだ。
(……何というか、本当に無防備な)
他人の部屋でよくここまで寝られるというか。
そうっと近付いて、ベッドに腰掛けて観察してみると、まだ起きる気配はなくて穏やかな寝息を立てている。女性のこんな無防備な姿を見るなんて、母親でもない。
何か良い夢を見ているらしく、緩んだ頬。
だらしないとは全く思わず、寧ろ可愛らしいと思うのはこのひたすらに整った美貌のお陰なのだろう。
そんな、寝姿でさえ綺麗な彼女が自分のベッドで寝ている、という事を考えるともぞもぞと胸の奥で何かが蠢く。
この感情のような衝動のような不思議な感覚は何と称したらいいのだろうか。
可愛いとは思うのだが、そういうものとはまた違ったようなもので、上手く名付けられない。
あどけない寝顔を眺めて何とも名状しがたい感情に胸をかき混ぜられた感覚を抱いていると、そこで、ぱちっとすみれが花咲いた。
硬直するヴィルフリートに、彼女はすみれ色の瞳を細める。
それから、またも目を閉じて今度は寛ぐように、心地好さを享受するように、側に居たヴィルフリートの手を握って頬に持っていく。
それは、何処か猫が甘えてすり寄るような仕種にも似ていただろう。
思わず、滑らかな頬を愛でるように指先で撫でて……我に返ったヴィルフリートが慌てて指先を離すと、何だかんだもの足りなさそうなエステルは今度こそ目を開いてやや眠たげな眼差しを返す。
「おはようございます」
「……お、 おはようございます、エステル様」
怒られる。もしくは引かれる。
その二つの未来を予想したヴィルフリートだったが、横たわった彼女はとろんとした瞳ではあったものの、気分を害した様子はなかった。
ゆるりと起き上がると、シーツに出来ていた桃色の川が彼女の年齢よりやや起伏に富んだ肢体に衣を纏うように流れる。
上着で普段は目立たないが思ったよりもブラウスを押し上げる隆起に、かなり目のやり場に困るヴィルフリート。意識すればものすごく罪悪感やら羞恥やらが押し寄せてきて、直視する事を許さない。
「私、どうしてここに?」
疑問はごもっともだ。
ここで説明に失敗すれば、下手すれば職場での信頼を失いかねない。
「……エステル様が俺の家で寝てしまわれてお送りも出来ませんでしたので、僭越ながら俺のベッドに運ばせて頂きました」
「あ……すみません、うたた寝してそのまま寝ちゃって……寝床、取っちゃいましたよね」
「い、いえ、こちらこそ起こせずにいましたから……俺は男ですので、ソファで充分です。……その……最悪のお目覚めではないのでしょうか」
「え? どうしてです? 良い匂いに包まれて気持ちいいですよ。ベッドを貸してくれてありがとうございます」
もうやだこの子。
あんまりに人を疑わないし無防備なエステルに、思わず顔を覆ってしまった。
警戒心がない訳ではないのだろう。警戒しているからこそ部屋に帰りたがらないし食事も限られたものを食べている、そう言っていた。
だが――ヴィルフリートに、気を許しすぎている。
餌付けに成功しているのは、喜ぶべきなのか。
どうこうするつもりはないものの、まず間違いなく今のエステルはヴィルフリートに餌付けされている状態だろう。
この子猫は、安心安全で美味しいご飯をくれるヴィルフリートに、信頼を寄せている。
立場としてはご主人様は間違いなくエステルの方だが、懐きっぷりからは立場が逆転していた。
「……触れてしまい申し訳ありません」
「触れても減るものでもありませんし、そもそも今のは私が引き寄せましたから」
変な所で男前な発言を見せるエステルに、頭を抱えかけた。
「気にしないでください。逆に、ヴィルフリートが寝ぼけて私を触っても怒ったりしませんから」
「良くないです。そこは怒ってください」
「どうしてですか、ヴィルフリートに触られるのは嫌じゃないですよ?」
「あのですねえ……それはそれでどうかと思いますよ」
(どう考えても良くないだろう、男から女にするとセクハラと言われても良いレベルなんだが)
エステルからならまだしも、普通ヴィルフリートからすれば嫌がられてもおかしくないのだ。
のんびり上司様が嫌がる気配がないから助かっているものの、本来ならば遠ざけられてもおかしくない。
「むぅ。気にしなくてもいいのに。……ヴィルフリートは私に触られるのは嫌ですか?」
「い、いや、という訳ではないですが」
「じゃあいいじゃないですか……ほら」
線引きはきっちりしておきたかったヴィルフリートであったが、その線を易々と乗り越えてくるのが、このエステルという少女だ。
側にあったヴィルフリートの腕に抱き付いてきた。
悲鳴をこらえられたのは、ある意味奇跡であった。
やわい肢体を押し付けられて一気に頭に巡る色々な感情。
どうしてこう、この少女は無邪気なんだ。小悪魔か。わざとなのか。
そう思わざるを得ないくらいには、彼女は無防備で自分の事に無自覚無頓着だった。
当ててるのよ、と小悪魔なら言ったであろう台詞を紡ぐ気配は全くないエステルは、ヴィルフリートの二の腕辺りに顔を寄せてスンスンと鼻を動かしている。
「ヴィルフリートは、いい匂いです」
「……お、お褒めにあずかり、光栄です」
「すごく、美味しそうな匂いがします」
食料として見られてるんじゃないだろうか。
ちょっと別の意味で危機感を覚えたヴィルフリートであったが、エステルが思いの外切なげな眼差しでヴィルフリートを見上げた為、その考えもすっ飛んだ。
どくん、と心臓が跳ねる。
「あなたの魔力そのものが、美味しいからでしょうね。……もっと欲しいの……空っぽの私を、満たせそうだから」
「は、」
息を飲んだヴィルフリートに、エステルは少し腰を浮かせて顔を近付けて――。
ぐぅぅぅぅ。
聞き慣れてきた空腹の合図が、二人きりの部屋に鳴り響く。
「……おなかすきました」
しゅーん、と眉を下げて悲しそうにお腹を押さえるエステル。
先程のどこか色っぽさを香らせた気配は消え去り、残るのはご飯待ちの子猫のようなしょんぼりした雰囲気。
思わず脱力したヴィルフリートに、エステルはゆさゆさとしがみついたまま懇願するように揺らしてくる。
何が言いたいのかは分かったものの、出来れば体を離して欲しい。
「分かりましたから。作りますから。ですので離れてください」
「ほんとですか!」
「というか、そのためにわざと寝たのではないでしょうね」
「……その手がありましたか……次からはそうします!」
余計な知恵を吹き込んでしまった気がしなくもないので額を押さえて頭痛に耐えつつ、期待に瞳を輝かせたエステルを責めるつもりもなく、そっと吐息を一つ。
この信頼を、裏切るつもりはない。
可愛く幼く拙い、この信頼を壊してしまえば、エステルはきっと、良くない事になる。
世話の焼ける上司様、幼く飢えた白猫、そう思っておくのが一番良いだろう。そうすれば、彼は彼女に何も出来ないししようとも思わないのだから。
『空っぽの私を、満たせそうだから』
乞うような眼差しと一瞬だけ光を失った瞳を思い出して、ヴィルフリートはそっと少女を離して一度だけ、ぽん、と頭を撫でた。
途端に花咲く笑顔。
悪くない、と思うヴィルフリートは、きっと受け入れてしまったのだろう。
この、危なっかしくていとけない上司様のお世話係を。
「朝起きてあなたのご飯が食べられるなんて、素敵な休日ですね」
屈託なく微笑まれて、ヴィルフリートは抵抗を諦めて彼女の思うままにさせてあげよう、と心に決めたのであった。
――その判断が失敗だと理解したのは、朝食を作った後の事だ。
「おなかすきましたー」
「お願いですからタオル一枚で歩かないで下さい!」
うっかりシャワーを浴びたいと言われて貸してしまったのが失敗であった。
湯上がりタオル一枚、万金を積んでも見られなさそうな柔らかそうな肢体をうっかり目撃しかけて、引っくり返りそうになったヴィルフリートであった。




