4 帰りたい場所 ‐大野春美‐
あれから三日が経った。部屋を出て行った後、春美は大学の友人である果穂に連絡を取り、一日だけ家に泊めてほしいと頼んだ。大学の友人の中で彼女だけが一人暮らしをしていたため、頼れるところはそこ以外にはなかった。彼女はすんなりとそれを受け入れ、快く春美を迎え入れてくれた。
「でもいきなり連絡が来たと思ったら泊めて欲しいなんて……。彼氏と喧嘩でもしたの?」
「まあ、そんなとこ」
果穂はつり目を更につり上げてふーんと言った。どうやら詳しく話さないことに少し不満を持っているようだ。
果穂とは学部が同じで、取っている授業もほとんど同じだった。ある授業を受けていた際に、向こうから声をかけてきて、それがきっかけで二人はだんだんと話すようになった。最初は明るく積極的な彼女に、春美は好印象を抱いていたのだが、次第に彼女の素の部分が見え始め、少しだけ距離を置くようになった。というのも彼女と話していると、たまに見下されているような気がして、それが春美には不快だったからだ。成績にしろ人間関係にしろ全てにおいて春美と比べ、自分の方が優っているとわかると得意げになってアドバイスをしてくる。そのうち彼女といることで自分がどんどんダメな奴のように思えてきて、春美はあまり連絡を取らなくなっていた。
「あんまり意地張ってると彼氏に捨てられちゃうかもよ?」
果穂はいやらしく口角を上げ、にんまりとした顔で春美を見た。
「そうかもね」
別れたなんて知ったら、なんて言われるかわからない。春美は余計なことは出来るだけ話さないようにした。果穂も最初の方は色々と探りを入れてきたが、そのことに対してあまり春美が話してくれないとわかるとそれ以上は何も聞かなくなった。
「ねえ、別に一日じゃなくてもいいんだよ」
「え?」
「ウチに泊まるの。私は何泊してもらっても構わないけど」
本当に親切心で言っているのか、それとも別れさせようとして言っているのか春美には分からなかった。どちらにせよ春美にとって有難いものではあったが……。
「うーん、そう言ってもらえるのは嬉しいけど……。でも大丈夫。ありがとう」
「えー? 遠慮しなくていいのに」
遠慮、というよりもあまり心を開いていない相手に、こういう時ばかり頼るのは何だか気が引けるのだとはとても言えなかった。
その時、スマホにメッセージが届いた。見るとそれは誠からだった。
――残りの荷物はどうする?
てっきり別れたくないとか、そういった内容のものだと思ってしまった自分が恥ずかしい。春美は、適当に捨てておいてくださいと返した。今になって自分が本当に彼と別れたのだという実感が湧いてくる。
「今の彼氏?」
「ううん、友達。それよりさ……」
そんな風に必死に話題を変えては、適当に笑ってその場をやり過ごす。そうして一日目が過ぎた。
二日目は前の日に予約をしておいた駅前の安いホテルに泊まった。昨日と今日は何とかなったけど……。一応二泊三日で予約は取れたが、それから先のことは全く考えていなかった。
やっぱり、一度実家に帰った方がいいのかな……。
帰ればきっと家には上げてくれるだろう。けれど結局、お前は間違っていたのだと言われ、これから先もずっと何かをする度に今回のことを引き合いに出されるのは目に見えていた。そうしてまた家から出ていくことがあれば、今度こそ本当に帰る場所を失うだろう。
でも、そうだとしても結局は実家に帰るしかないんだよね……。だけどその前に。
春美はチラリと視線を動かす。そこには紙袋が二つ並べて置いてあった。
「わり、ちょっと遅れた」
「ううん、大丈夫。いきなりでごめんね」
「別に平気。もう今日はバイトないし」
シュウはゼェゼェと息を切らしながら答える。
昨日、春美はシュウにメッセージを送った。
――借りた服を返したいから、お礼も兼ねて明日会えないかな?
もう少し早くに連絡をするべきだったかなと送った後で後悔していたが、シュウからはわかったと返事が来た。
そして以前約束した通り、シュウは春美を駅まで迎えに来てくれた。
「何、そのでかいカバン」
「え、ああ、これ? ちょっとね」
「ふーん……」
やっぱり、コインロッカーに入れとけばよかった。まるでどこか旅行にでも行くかのような荷物を見ても、シュウはそれっきり何も聞いてこなかった。
彼らの家に着くまでの間、シュウと二人きりという状況に春美はドキドキしていた。この間会ってからそんなに日も経っていないのに、何だかこの前よりもかっこよく彼は映る。そんな春美を尻目にシュウはペラペラと色々な話をしていて、それを聞いているうちに春美の緊張も溶けていき、自然と二人での会話は盛り上がっていった。
気がつくと家の前にいた。やはりシュウと一緒にいるのは楽しく、心地よい。
「たっだいまー」
彼はドアノブに手をかけ、開けようとする。しかしドアは固く閉じたままビクともしなかった。
「あれ? なんで鍵かかって……まさか」
そういうとシュウはおもむろにポケットからスマホを取り出し、そのまま頭に手を当て苦悶の表情を見せた。そんな彼の姿を春美が不安そうに見つめる。
「あー、まじか」
「どうしたの?」
「陽子のやつ、急にバイトが入って一緒に夕飯食えないって」
「そっか……。残念だな」
するとシュウは申し訳なさそうに春美を見た。
「ごめんな」
そうやって俯き謝る姿が、この間の陽子の姿と重なる。なぜだか胸が痛んだ。
「ううん、バイトなら仕方ないよ」
そう答えながら、このままでは二人との接点がなくなってしまうと思った。何とかしてまた会う方法はないだろうか。春美は慌ててシュウにこう提案した。
「……ねぇ、あのさ二人が良ければなんだけど、また会いに来てもいいかな?」
するとシュウはパッと顔を上げ、目を見開いた。
「おお、そりゃ勿論。寧ろその方が助かるわ。あいつ自分だけ春美に会えなかったって拗ねそうだし」
そう言ってシュウはほんの少し優しい顔をした。そういえば、陽子さんの話をしているときによくこういう顔をするな。そんなこと気がつかなければ良かったと春美は思った。
「はい、じゃあこれ。陽子さんに借りてた服とお世話になった時のお礼。あ、あと陽子さんにもよろしく言っといてね。わざわざ駅まで来てくれてありがとう」
それじゃあ、と言って春美は立ち去ろうとした。するとその腕をシュウがグイッと掴んだ。
「待って。せっかく来たんだし、上がって行きなよ。元々今日は3人で夕飯食う予定だったわけだし、そんな急いで帰らなくてもいいだろ?」
シュウに呼び止められ、嬉しさのあまり笑が溢れた。
「じゃあ、上がらせてもらおうかな」
三日前に来た時も思ったが、今改めて見てもやはりそこは学生が住むにはあまりにも広い家だった。
玄関を開けると真っ直ぐに廊下が伸びていて、そのまま先にあるドアを開けるとリビングとダイニングが現れる。廊下の途中には上り階段があり、きっと上にもいくつも部屋があるのだろうと春美は想像を膨らませる。
「あー、悪りぃ。春美が来る前に部屋片しとけって言ってたんだけど、バイトでそれどころじゃなかったみたいだわ」
シュウはそう言いながら床に落ちていた雑誌やリモコン、クッションなどを拾い始めた。
「全然汚くないよ。にしても本当広い家だよね……」
そう言って春美はシュウが出してくれたお茶を啜った。
「まあ、確かに学生が住むには広いよな。二人で使っててもまだ余裕あるし」
二人で、かーー。気にしないようにしようと思っていたが、やはり気になってしまう。春美はついこんなことを聞いた。
「あのさ……」
「何?」
「シュウは陽子さんとは本当に付き合ってないんだよね?」
「……ああ、そうだよ。なんで?」
「あ、いや、その……シュウは陽子さんと住むのに抵抗はなかったのかなーって思って。……あ、ほら、友達とは言え異性だしさ。色々と気にするところもあるだろうし……」
するとシュウはフッと笑って春美を見た。
「抵抗は……。まあ、多少はあったかな」
「……今は?」
「今は……今もあるかな。それなりに」
なぜだか聞いてはいけないことを聞いてしまった、そんな気持ちになった。
「……あ、でもそういう意味では陽子さんはあんまりそういうのはない……のかな」
フォローしようとすればするほど、どんどん余計なことを口走ってしまう。
「ああ、まあ、それは……。あいつ、女じゃねえからな。もうほとんど男みたいなもんだし」
シュウが本当にそう思っているとは到底思えなかったが、春美はそっかと言ったっきりその話題には触れなかった。彼は思っている以上に繊細なのかもしれない。そう思い始めていた。
「ところで、春美はどうなんだよ」
「ん? どうって?」
「あー、いや、そのだから。……付き合ってる人とかさ。いねえの?」
一瞬言葉に詰まる。頭には誠の顔が浮かんでいた。
「……うん、いたんだけどね。最近別れた」
「あ……。ごめん俺……」
「ううん、別にもう気にしてないから大丈夫」
春美のその言葉に嘘はなかった。今は別れたことよりもこれからどうするか考えることで頭がいっぱいで、悲しみに浸る余裕すらない。
「もしかしてさ、それが原因であの日あんなに酔っ払ってた……とか?」
「ああ、うん、そう。恥ずかしいんだけどね。ついカッとなっちゃって」
「すっごいムカつくこと言われたとか?」
「というよりは、浮気してたから」
春美があまりにも淡々と答えたため、シュウは小さな声であっ……と言っただけだった。
「ひどいよね、人の帰りが遅いと思ってさ。そのくせ連絡なくて心配したーとか言うんだよ?」
「……」
シュウは黙ったままだった。こういう時に黙られるのは結構辛い。
「私思わず部屋飛び出して、適当なお店でお酒飲んで……」
「春美」
「え?」
「ごめん……」
「い、いやだなー。もう気にしてないんだってば。それよりもっと気にしないといけないことが……」
そこまで言って春美は思わず手で口を抑える。
「なんだよ、それ」
「あ、いや、それはその……」
するとシュウは春美が持ってきた旅行用カバンをじっと見つめる。そしてハッと何かに気づいたように春美を見た。
「春美、まさかお前……」
「え? 何?」
焦って声が裏返る。
「その別れた彼氏と同棲してたんじゃないのか?」
シュウにズバリ言い当てられ、春美はつい下を向いてしまった。それを見てシュウはやっぱりかと呟いた。
「……今もしかして行くところない?」
「あ、いや、そんなことないよ」
「じゃあなんでそのカバン持ち歩いてんだよ。どう考えてもおかしいだろ」
「き、今日までは確かにホテルにいたけど……」
「ホテルって……。やっぱり行くとこねえんじゃんか」
「でも、今日二人に会ったら実家に帰ろうと思ってて」
「ふーん。でも家族は春美が彼氏と同棲してたの知ってるんだろ?」
「はっきりとは言ってないけど、多分……」
ハアーとシュウの口からため息が漏れる。
「まあ、春美がそうしたいって言うなら別に良いけど。でもそれって何だかすげえ気まずくねぇ?」
「う……」
実際気まずいどころの話ではないと春美は心の中で答える。
「あ、のさ」
頭をポリポリと掻きながら、シュウは様子を伺うように話し始める。
「陽子にも聞いてみないとだけど、その、春美さえ良ければここで一緒に住まないか? 三人で」
その言葉を聞いて驚きよりも嬉しさが勝るのは、どこかでその言葉を期待してしたからかもしれない。けれどそうやって二人の厚意に甘えてばかりいていいのだろうか。春美はそのまま何も言えず、しばらく考え込んでしまった。




