二十話
結局、自分の気持ちに大した整理も着かないまま、俺はバスに揺られ、駅に着いた。ここからまた電車に乗り、最寄り駅に帰る……はずだったが。
電車の時刻表を見ると、前の電車がちょうどいってしまったところらしい。次の電車が来るまで、およそ二十分ほど。ホームに降りるのもいいが、立って待つには少々長い。
ふと周りを見渡せば、いつしか紫央と入ったコーヒーショップがあった。暗くなりかけているからか、いつもよりも客数が少ない。しばらく考えたあと、俺はその中へ入った。
レジの列に並び、店員が差し出してきたメニューをぼんやりと眺める。思い出すのはやっぱり、紫央と会ったあの日のこと。あの時も電車の待ち時間をつぶすために、この店に入ったのだった。カフェモカが好きだといった彼女に対し、俺はカプチーノの方がいいと返す。デート中のカップルと間違われるかもとからかってくる彼女に、俺は照れくさくて素っ気ない言葉を返した。
そんなやり取りがついこの前あったはずなのに、なぜかとても懐かしく感じる。もう少し感傷に浸っていたかったが、いつの間にか注文の順番が来ていた。俺は意識を店員の方に戻し、伝えた。
「カプチーノ……あ、いや」
いいかけてから、俺は考え直した。
「カフェモカください」
やがて出てきたカップからは、あの時と同じ甘い香りが漂ってきていた。それを手にもってコーヒーショップを出た俺は、そのまま駅の中へ入る。時間つぶしにと入ったが、あのまま店内にいたら紫央のことばかり考えそうで、余計に落ち込むこと必至だった。それならいっそ、ホームのベンチで一人寂しくこれを飲んだ方がましだろう。
改札口を抜け、ホームの空いていたベンチに腰掛ける。カップのふたを外すと、ココアの香りが強くなった。湯気の立つそれを、息を吹きかけてから慎重にすする。
……甘い。やっぱり俺にはココアと同様にしか思えない。だけどこの前、紫央からもらったそれとはちょっと味が違う感じがした。俺が今飲んだのは、ココアに少しコーヒーの香りがするもの。けど、紫央が一口くれたあの日のカフェモカは……一口飲むとココアだけじゃない甘さがいっぱいに広がって、胸がギュッと締めつけられるような、不思議な味だったんだ。
やっぱりカプチーノにすればよかった。甘いものは苦手だし、これを飲んでたら場所なんて関係なく、紫央のことを思い出すに決まっている。俺はバカだったのか。
やけになって、甘ったるいその液体を喉の奥に一気に流し込む。甘い上に熱くて思わずむせた。
「うげっ、ゲホッ!」
我ながらかなりバカっぽい。ゲホゲホとむせながらも、カップをイラ立ちまぎれにゴミ箱に放った。そこへちょうど電車到着のアナウンスが入り、乗車位置に並んだ。高校生は少ないが、仕事帰りのOLやサラリーマンが列の大半を占めている。到着した電車からも、ドアが開けば疲れた顔のおっさんたちがドッと流れ出てきた。
それをかわしながら徐々にドアに近づいていく。帰宅ラッシュの電車からあふれるサラリーマンの数はかなり多く、時折肩がぶつかった。
紫央と一緒にいた時は、俺は彼女を守るのに必死だった。よく転んだりぶつかったりする危なっかしい彼女を俺は放っておけなくて、手を握ったり引き寄せたり、とにかく自分の傍にいさせたかった。
ふと電車に乗ろうと踏み出した足が、中途半端に止まった。どうやら俺はついに、幻聴なるものが聞こえるようになったらしい。いるはずのない紫央の声がした。頭を振って一歩踏み出す。するとまた声がした。今度はもっと大きく。
うしろに並んでいたおばさんが迷惑そうににらんできたが、俺はかまわず立ち止まって振り向いた。
「……た、くん……っ」
やっぱり聞こえる。でもどこから? 列を離れて俺は、彼女の声が聞こえた方へ歩き出す。
「……なたくん……ひな――」
電車のドアが閉まり、発車のベルが鳴った。走行音にかき消され、紫央の声は聞こえなくなった。あとに残ったのは、たった今電車を降りた人たちだけ。紫央の姿なんて、どこにもない。
やっぱり俺の空耳? あんなにはっきり聞こえたと思ったのに。
「……重症だな」
いもしない好きな女の声が聞こえるとか、俺はどれだけ惚れこんでるんだ。むしろ自分の執着心がコワい。
また電車を乗り過ごしてしまった。せっかくカフェモカで時間をつぶしたと思ったのに……。
「陽向くーん……」
ああ、しつこいぞ俺の幻聴。そう何回も騙されるほどバカじゃない。そもそもなんで紫央が、こんなところにいるっていうんだよ。
「陽向くーん……!」
またしても聞こえてきた幻聴を、頭をぶんぶん振ってかき消した。違う、紫央はいない。冷静になれ、俺。
そう自分にいい聞かせて顔をあげた、その時だった。
「陽向くん……っ!」
向かいのホームで必死に声をあげる、その姿。手を振って、懸命に俺に向かってアピールをしていた。一瞬、呼吸も忘れて見入ってしまった。
「紫央」
間抜けに開いたままの口から声が漏れる。と同時に、俺は階段を駆け上がっていた。
なんでいるのかとか、どうしてここがわかったのかとか、疑問はいっぱいある。けど今は、とにかく早く彼女のもとにいかなくちゃ、と強く感じた。
反対側のホームに転がるように駆け下り、俺はすぐ下で待っていた紫央のもとへ急いだ。
「紫央、なんで」
顔を合わせて開口一番、そんなことが口から飛び出す。もっと他にいうことがあったはずなんだが、彼女の顔を見て色々俺も混乱していた。
紫央はボーダーのワンピースにカーディガン、あとポシェットを肩からかけて、いつもより子どもっぽい格好だ。まるで家から慌てて飛び出してきたかのように見える。
紫央はわずかに笑みを浮かべて、すぐに目をそらした。
「たぶんここかなって、思ったから。いてもたっても、いられなくなっちゃって……」
「でも」
「悦美から全部聞いちゃったんだよね? 私の病気のこと」
ズバリいわれて戸惑ったが、俺は正直にうなずいた。
「聞いた」
「そっか……。ごめんね、黙ってて」
「いや、俺こそごめん。知らなかったとはいえ、ずいぶん無神経なこともいってたから」
「そんなことないよ」
紫央はゆるゆると首を振った。
「私、はじめて会った時から陽向くんに助けてもらってばっかりだったもん。感謝はたくさんしてるけど、怒ったりなんて絶対しない。陽向くんが謝るようなことは一つもないよ」
そういつもみたいに穏やかな声でいわれると、俺はなにも返せなくなる。
「増田先生とも会ったんだって?」
「あ、ああ」
「……どう思った?」
俺が体験した、四分の一の世界の話だろうか。紫央は視線を下に向けたまま、俺の顔を決して見ずにたずねてくる。
「怖かったよ」
単純だが、俺はそう答えた。
「見えると思ってたのに、気づかないだけで見えてない。それがあんなに怖いなんて思ってもみなかった。紫央があんな世界で生きてるのかと思うと、余計に」
「うん」
「……今、俺の顔、見えてる?」
紫央はほんの少し微笑を浮かべて、ゆっくりと首を振った。
「暗くなると、だんだん見えづらくなるの。でもここは蛍光灯とかあるから、まだましかも」
「そうか……やっぱり怖いよな」
紫央はうなずいた。
「怖いよ。いつも足元ばっかり見て、それでもわからないことが多くて、一歩動くのにも勇気がいる。夜になったら、もっとわからなくなる。でも今はまだ見えてるから」
今は、と強調した彼女の言葉が気になり、俺はうつむいたままの彼女の頭頂部を見た。
「いつか私の目が完全に見えなくなったら、なにかにすがって歩かなくちゃいけない。人でもものでも、頼らないと生きていけなくなっちゃうの。それが私には、一番怖かった」
涙交じりの声に思わずぎょっとする。
「紫央、泣いてんのか?」
ぐすっと鼻をすすりながらも、紫央は首を振った。
「将来、誰かと恋をして結婚しても、その旦那さんの顔とか、自分の子どもの顔も見れないのかなぁって思うと、すごく、すっごく怖くて……」
「紫央」
「だから、恋愛なんてしない方がいいって、思ってたの。お互いに傷つくし、私も相手に迷惑かけたくないから。でも」
目元をしきりに指で拭いながら紫央は続けた。
「陽向くんに会ったら、そんな決意もどっかいっちゃったよ。いつもドキドキして苦しくて、一緒にいるとふわふわして幸せで、それ以外なにも考えらんないんだもん」
ようやく紫央の顔があがって、俺と目が合った。涙で濡れて、少し赤くなっている。
「責任とれよ、バカぁ……」
そういってまた涙が膨れ上がる。その瞳の中に俺が映っているのが見えて、たまらない情動が沸き起こる。思わずその頼りなさげな身体を抱き寄せてしまった。予想していなかったのか、紫央がこわばるのを感じ取ったが、嫌がるそぶりはない。
「わかった、責任とる。だから」
そのままの体勢で、俺は答えた。
「俺とずっと一緒にいて」
至近距離で見つめた彼女の顔は、一瞬ののちに真っ赤になっていた。たぶん、俺の顔も同じぐらい赤いんだろう。触れ合っている部分は異様なほど熱を持っている。
紫央が涙に濡れた目のまま、俺を見あげて微笑んだ。
「すごい……。ここにいたら、陽向くんの顔が見えるよ。すごく真っ赤……でも優しい顔」
少し冷えた紫央の手のひらが、俺の頬に触れた。
「私にしかわからない表情だよね。陽向くんのそういう顔は、私にしか見えない。これから先もずっと、そうであってほしい」
「見せねえよ、紫央にしか。当たり前だろ」
「うん……」
自然と顔が近づいてきて、唇が触れあった。紫央は片時も目を離したくはないというように、優しく目を細めたままだった。
「陽向くん……」
俺を呼ぶ声が愛しくて、また唇を重ねる。
「なに?」
「……大好きだよ」
小さくつぶやいたあと、紫央はふにゃりと、今までで一番幸せそうな笑顔を見せた。それに心臓がどくんと音を立てて跳ねた。
「俺も」
俺は笑い返した。きっと俺の表情も、この上なく緩み切ってだらしないものになっているだろう。だけどそれでいい。紫央には俺の表情のすべてを見せてやりたい。
「紫央のこと、大好き」
たとえ将来、きみの世界に俺が映らなくなったとしても。
H30,3,14
加筆・修正を行いました。
病気の説明部分を大幅に変更しております。
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ここまで読んでくれた皆様に、心からの感謝を込めて。
by usa




