十九話
「それで」
私は口をはさんだ。
「その理子さんて人、どうなったの?」
たずねてみたものの、私は答えをなんとなく悟っていた。だって私は、お母さんにそんな友だちがいるなんて今はじめて知った。この写真だって、今まで見たこともない。
お母さんは一瞬口を閉ざしたあと、ささやくように答えた。
「亡くなったわ。結婚式から二年後。まだ三十二歳だった」
「そんなに早くに?」
「ええ。もうその頃には、彼女は私の知っている彼女じゃなかったけど。ベッドから起きあがることもできず、うつろな目だけを開いていたわ。旦那さんが声をかけても、気づくこともなかった」
でもね、とお母さんはいった。
「彼女ね、まだ自分を失う前に、日記を書いていたの。亡くなったあと、旦那さんと私とで読ませてもらったわ。そこにはね、最後まで自分を支えてくれたであろう旦那さんへの感謝と愛、それに私への変わらない友情がいっぱいに詰め込まれてた。最期までありがとう、あなたたちは、私のことを忘れないでって」
お母さんは大事そうに写真を胸に抱いた。
「正直、あの二人の結婚は私も不安だった。ハッピーエンドとはいかないだろうって。でもあれでよかった。日記にも書いてあったもの。「なにか思い出をひとつ天国に持っていけるなら、愛する人と過ごした日々がいい」って。頭では忘れてしまっても、きっと心では覚えていたはずだもの。最期の顔は、とても穏やかだったわ」
まるでそよ風が、小川を優しく渡っていったように。そうお母さんはいった。
「人の人生なんて、短い上に一度だけなんだもの。その中で大切なものを見つけたら、最後まで手放さないで。そう彼女に教えられた気がするわ」
大切なもの。私にも大切なものがある。学校、友だち、家族、夢、それに……。
「紫央、あなたも大切なものができたら、それを突き放して後悔しないことね」
話を終えると、お母さんはなにもなかったかのように、運転に戻った。それからはなにも語らず、互いに無言のまま帰宅した。家に着くと、お母さんはキッチンに向かった。夕食の支度に入るらしい。
私はといえば、なんともいえないモヤモヤを抱えながら、自室に入った。制服を脱いで部屋着のワンピース一枚になる。メガネもはずして、ポイッと投げ捨てた。楽な格好になったところで、ベッドにパタッと倒れこんだ。
お母さんはなんともなかった顔をしていたけれど、若くして亡くなった親友の話をするのは、きっと辛かったと思う。私だったらきっと、思い出すことも苦痛になる。でもお母さんはそれをこらえて、私に話をしてくれた。私の中にある葛藤に気づいて。
私の大切なもの。お父さんとお母さん、悦美、凛香ちゃん、雄大くん。
それに……陽向くん。私の大好きな人。生まれてはじめて恋をした人。いつも私を守ってくれていた、ちょっと怖い顔の優しい人。ぶっきらぼうで不器用で、女心をちっともわかってくれない、憎たらしいような人。それでも嫌いになれない、私の心を離してくれないひどい人。
はじめて会った時、痴漢呼ばわりした私を本気で怒ることもなく、本当の痴漢を捕まえてくれた。あの時の形相はちょっぴり怖かったけど、それ以上にとても頼もしくて、ヒーローみたいだと思った。白馬の王子さまとはほど遠い容姿だったけど、私にとっては運命の出会いだった。
時間を巻き戻したい。陽向くんが想いを伝えてくれたあの時に。あんなひどい返事しかできなかった私を、今すぐ怒鳴りつけてやりたい。ウソつき、あんただって彼が大好きなくせにって。
やっぱりそうだ。私、陽向くんが大好きだよ。自分の病気が怖くても、陽向くんに迷惑かけるってわかってても、やっぱり好きなのは変われない。きっと私は一生後悔し続ける。大切なものを手放したことを。
カバンの中から、新着メッセージを知らせる音がした。ベッドに寝ころんだまま私はカバンを手繰り寄せ、スマホを取り出す。悦美からのメッセージだった。
アプリを開いて中の文を読む。そこには、悦美が私の秘密を陽向くんに話してしまったことが書かれていた。淡々とした彼女らしい文章だったが、どこか申し訳なさも漂っている。だけど私は彼女を責める気にはなれなかった。
あの場から逃げた時点で、私が彼に隠し事をしているのは誰の目にも明らかだった。いずれは陽向くんにもバレていたんだろう。それが少し早くなっただけだ。
そう自分で納得しても、返信するような気にはなれなかった。アプリを閉じてそのままスマホを投げ出した。再びスマホから音が聞こえてきたけれど、四肢をだらりとさせた私にはもう取る気力もない。
陽向くんに知られてしまった。彼は今頃なにを考えているんだろう。やっぱり私のことを、フラれて正解だった面倒なやつだと思ってるのかな。いや、陽向くんに限ってそれはない。強面で言葉も乱暴だけど、実は繊細で優しい人だから。
そうなるとやはり、同情か。数時間前まで恐れていたことがついに現実に近づいてきた。私は陽向くんの『恋愛対象』から『同情対象』に変わる。憐れむべき存在になってしまう。
連続してなるスマホが、メッセージではなく着信音に変わっていた。ついに無視できなくなり、私は上半身だけ起こした。
「もしもし」
『あ、紫央』
電話に出ると、悦美の少し沈んだような声が聞こえてきた。
『ごめん、何度も鳴らして。あんたはなにも聞きたくないと思ってるだろうけど、でも……』
「そんなことない。なに?」
本心は悦美のいうとおりだったが、それを隠して私は問う。悦美は一瞬間をおいたあと、ため息とともにいった。
『陽向くんのこと、本当にごめん。私からいうべきことじゃなかったのに』
「いいよ、もう。気にしないで」
『ダメだよ、気にする。医者の娘として失格だよ。患者の病状について勝手に話をするなんて』
電話越しでも悦美の声は暗く、本気で後悔していることがうかがえる。いっそ責めた方が彼女は楽になるかもしれない。それでも私は、彼女を怒るつもりはなかった。
「あの状況じゃ、遅かれ早かれ陽向くんには説明することになってたと思う。でも私の口からじゃ絶対にいえなかった。だからむしろ感謝してる」
『紫央……』
「用ってそれだけ? 今日は検査で疲れてるから……」
『ううん、もう一つだけ。どうしても伝えたかったの』
さりげなく切りたいと申し出ようとすると、悦美はあわてたように止めてきた。
『陽向くんね、全部聞いても、あんたのこと怒ってなかったよ。混乱はしてたけどさ。父がさっき電話をくれたの。紫央の病気のことを知りたいって、わざわざ聞きに来たって』
陽向くんが、増田先生に? 驚いて言葉を失っていると、悦美はさらにいった。
『陽向くんはすべて知ったうえで、それでも紫央の本当の気持ちが知りたいって思ってくれたんじゃないのかな。あんたは、自分の病気が知れたら同情されるって思ってるんだろうけど、少なくとも陽向くんはそうじゃなかった。陽向くんはあんたを可哀想な目でなんか見ていない。ただ一人の女の子として……好きな女として見てるよ』
ドクン、と心臓が音を立てた。
同情されていない。それを聞いてホッとする自分と、だったらどう思っているの? と疑心暗鬼になる自分がいる。
『あんたが不安になるのもわかるよ。でも陽向くんはその不安も、全部理解しようとしてくれてるんじゃないのかな。だから父にそんなこといったんでしょう? あんたが抱えているもの全部、陽向くんは一緒に抱えてくれようとしてるんだよ』
「だからダメなんじゃない」
私は思わずいい返した。
「悦美ならわかるよね? もし私が将来失明したら、普通の生活も苦労する。その時一番被害をこうむるのは、一緒にいる人なんだよ。なにも関係のない陽向くんを巻き込むことになるんだよ?」
『陽向くんはそんなの、なんとも思ってないよ。あんただってそう思ってるでしょ? 陽向くんなら絶対、紫央のこと見捨てたりしないって』
「だって」
『父から聞いたの。紫央の励みになってやってっていったあと、陽向くんうなずいてたんだって。本人は無意識だったかもしれないけど、それでもあんたを支えていくつもりではあるんだよ』
悦美の声の響きが、切実さを増した。
『ね? 私の前ではなにもいわなかったけど、陽向くんはやっぱりあんたの傍にいたいんだよ。だって陽向くん、紫央のこと本当に好きなんだから。見てればわかるよ。紫央のこと見るあの目、すごく優しくて温かくて……。親友の私のいうことが信用できないの?』
なにも答えずにいる私に、悦美がさらに言い募る。
『だから反対したのよ。そんな男に会わなくたっていいって。いずれにせよあんたが傷つくことは目に見えてたもの。でも実際にはあんただけじゃなくて、陽向くんも同じぐらい傷ついてる。お互いに傷つけあってるくせに、なにが迷惑かけたくないよ。あんたがやってるのなんて、ただの自己満足と一緒よ!』
怒鳴るようにいわれた一言に、電話越しにもかかわらず肩をすくめた。
『弱虫』
次いでつぶやかれた言葉が、胸に突き刺さる。思えば今まで、悦美は私を冷たくあしらうふりはしても、本当にひどい言葉をいうことなんてなかった。だからこそ、今の一言は彼女のなによりの本心であり、余計にぐさりと来た。
それきり悦美はなにもいわず、黙って電話を切った。スマホから聞こえるツーツーという音がどこか悲しく、私はそれをぐっと握りしめる。
階下からお母さんが叫んでいるのが聞こえる。
「紫央ー、夕ご飯もうすぐできるから、降りてらっしゃい」
ドアを開けると、ハヤシライスの匂いが漂っていた。私の好物のひとつで、検査の日は必ずお母さんが作ってくれる。
いつもならこの匂いがすると嬉しくて、喜んで階段を降りるんだけど、今日はとてもそんな気分ではない。食欲もいまいちわかないし、自分でもおかしな気分だ。
ダイニングに入ると、お母さんがテーブルに今夜のメニューを並べていた。中央にボウルに入ったサラダ、それぞれの席にはクロスを敷き、サーモンとレモンのマリネと、メインであるハヤシライスが置かれる。
どれも私の好きなものばかりなのに、食べる気がまったく起こらない。ダイニングの入り口でボーっと突っ立っていると、お母さんが取り皿とスプーン、フォークを持ってせかせかと前を通り過ぎた。
「ほらほら、もうすぐお父さんも帰ってくるんだから、そんなとこに立ってないで。ドレッシングは和風がいい? それともフレンチにする?」
お母さんの質問に「どっちでもいいよ」と適当に答え、私はイスに座った。その時、ワンピースのポケットに入れておいたスマホが再び振動した。驚いて確認すると、今度はまたショートメッセージだった。それを読んで私は思わず立ちあがった。
「お母さん」
「ん? なぁに、どうしたの?」
「ちょっと出かけてくる」
「はぁ?」
お母さんはエプロンで手を拭きながら、こちらを振り向いた。
「なにいってるの? もう外は暗いから危ないわよ。また明日にしなさい」
「ごめん、すぐ帰るから! ご飯は先に食べてて」
そういって、私は慌てて部屋に戻り、財布と定期、そしてスマホを小さいポシェットにしまい、カーディガンを羽織って飛び出した。
悦美から届いたメッセージは、たった一言だった。
『彼ならきっと、あそこにいる』
簡潔で意味不明な文章に見えがちだが、私にはこれで十分だった。サンダルを引っかけるようにして家を出、全速力でその場所へ向かった。私と陽向くんの、思い出のあの場所へ。




