十三話
この話だけ、紫央の視点で進みます
なにもない放課後っていうのは、ここまでつまらないものだったんだろうか。
宿題の出た教科のノートやプリントをカバンに詰めながら、私はため息をついた。なにをする気にもなれず、ただ時間ばかりが過ぎていく日々。立ちあがることすら億劫で、ただ窓の外を眺めていた。
前はこんな風じゃなかったのにな。ぼんやりとしながら、そんなことを思う。
朝は陽向くんが待つ電車に乗って、つかの間の二人の時間を楽しむ。放課後は二人で寄り道をしたりしながら、他愛もないおしゃべりをする。たまには休日にも会ったり、陽向くんの家にも遊びにいったりして。
決して長い期間ではなかったのに、とても濃密な時間だった。陽向くんと出会う前の自分を思い出せなくなるくらいには。
今さら悔やむなんて、身勝手だとはわかっている。あの日、陽向くんの手を離したのは、私なのだから。私はただ怖かった。私の秘密を知った時の陽向くんの反応を知るのが。我が身可愛さに、私は陽向くんを突き放した。そんな私がなにを今さら後悔しているんだろう。
あれから一週間が経つ。最初は陽向くんから、様子をうかがうようなメールや電話が来ていたけど、すべて無視していたらやがて途絶えた。電車の時間もずらした。はじめて陽向くんと出会った時に乗った電車だった。嫌な思い出もあるけれど、陽向くんはきっと、私がその電車に乗っているとは思っていない。
下校時もこうして、駅にいくまでの時間を少しでも遅らせようとしている。どこかでばったり会ってしまわないように。顔を合わせたらきっと、私は泣いてしまう。罪悪感に苛まれて。陽向くんが恋しくて。
クラスメイトが部活や帰宅でどんどん教室から出ていく。その間も私はただぼーっと窓の外を見つめ、木に止まる小鳥なんかを意味もなく眺めていた。
何分か経ったころ、ポンと誰かに肩を叩かれた。驚いて振り返ると、部活に向かう前だったのかジャージ姿の悦美がいた。
悦美は無表情のまま、ドアの外を指さした。
「校門に陽向くんが来てる。話がしたいって」
名前を聞いただけで、胸がギュッと締めつけられるかのようだった。こんなに会いたいのに、今の私にはそれすらも許されない。
「ごめん。今は会いたくないって、伝えてくれる?」
「……わかった」
悦美は仕方なさそうにため息をついた。
「あんたたちになにがあったのかは知らないけど、いつまでも逃げるのはよくないよ。紫央、あいつはまっすぐにぶつかってきてるんだから、あんたもまっすぐに返さないと。それが礼儀じゃないの?」
知らないというわりに、悦美は私を責めるような目で見てくる。もしかしたら、陽向くんがなにかを話したのかもしれない。
無言の私になにをいっても無駄と思ったのか、悦美は首を振りながら出ていった。
ごめんね、悦美。私は悦美ほど強い人間じゃなかった。幸せに、普通に生きることを想像できなかった。陽向くんに好きだっていわれてとてもうれしかったけど、それに応えることなんて無理だった。
だって、怖くてたまらない。付きあったりしたら、遅かれ早かれ陽向くんは絶対に気づいてしまう。その時優しい陽向くんは、絶対に私を見捨てたりしないだろう。むしろこれまで以上に、優しく甘やかしてくれる。自分では気づいていないのかもしれないけど、陽向くんは面倒見がよくて、困ってる人を見捨てられないような人だから。そんなことになったら、私は二度と離れられない。
陽向くんと過ごす時間はとても甘くて、やわらかくて、温かかった。今突き放しておかないと、陽向くんはずっと私に縛られたままになるかもしれない。私が陽向くんの自由を奪ってしまう。それがどうしようもなく怖かった。
そろそろ陽向くんは帰っただろうか。私をひどいやつだと軽蔑したかもしれない。胸がズキズキと痛んだけど、それでいいんだと自分にいい聞かせた。
カバンを持って立ち上がり、ゆっくりと教室から出た。大体の生徒は下校したか部活に参加しているかで、校舎の中はわりと静かだった。自分の足音だけが、しんとした廊下に響いていく。
のろのろとした足取りで、下駄箱で靴を履き替え校門へ向かう。駅へ向かうため足をそちらの方向へ向けた時、背後からクラクションを鳴らされた。
思わずドキリとして振り返ると、見慣れた水色の軽自動車があった。運転席から顔を出しているのは、まぎれもなく私の母親だった。
お母さんはゆっくり車を前進させながら、あっけに取られて立ち止まる私の真横に再び停車した。
「紫央、遅かったのね」
「お、お母さん、どうしたの?」
平然とした表情で声をかけてくる母に、私はたずねた。別に迎えなんて今日は頼んでいない。なにか用があるわけでもないのに、いきなり学校へ来るなんて……。
お母さんは呆れたようにため息をついた。
「あなた、やっぱり忘れてたのね。今日は予約が入っている日でしょ?」
「……あ」
いわれてようやく私は思い出した。
「そっか。今日だったっけ」
「そうよ。今朝いったじゃないの。聞いてなかったのね?」
「……聞いてませんでした」
いわれてみれば朝起きた時、お母さんがなにかいっていた気もする。ただここ最近はぼーっとしてばかりで、なにも頭に入ってこなかった。
素直に認めると、お母さんは「よろしい」といった。
「じゃあ急いでいくわよ。早く乗って」
「うん」
車の後部座席のドアを開けて、カバンを奥へ投げてから私も乗り込んだ。私が座ったのを見てから、お母さんはハンドルを握りなおした。そのまま車を発進させる。
お母さんは運転しながら、私に話しかけてきた。
「にしても、今日はなにかあったの? ずいぶんと出てくるのが遅かったけど」
「ああ……うん」
私は適当にいった。
「今日日直だったから、日誌書いてたらいつの間にか時間経っちゃって」
「あら、そうだったの。私はてっきり最近よく話してる……えーと誰だっけ? ああそう! 陽向ちゃんとおしゃべりでもしてるのかと」
私は笑ってごまかした。
お父さんとお母さんには、陽向くんのことは男の子だといっていない。二人とも、陽向くんのことは「学校の同級生の女の子」と思っている。男の子と毎日のように会って出かけているなんて、二人には知られたくない。お父さんは陽向くんを家に呼べというだろうし、お母さんは私たちの関係を根掘り葉掘り聞こうとしたはずだ。まあでも、もう陽向くんと会うことはないだろうから、そんな心配をする必要もなくなっちゃったんだけど。
お母さんはミラー越しにちらりと私を見ていた。それに気づいて、私は「なに?」と聞いた。するとお母さんはふっと笑みを浮かべた。
「陽向ちゃんとケンカでもしたの?」
「えっ」
「名前が出た瞬間から、紫央ったら暗い顔してるんだもの」
そうだったのかな。自分では笑っているつもりだったのに。
お母さんはすべてお見通しとでもいうように続けた。
「わかるのよ、母親なんだから。それに最近、帰りが前よりも少し早くなってきたから、遊びにもいってないんでしょう? あんまり陽向ちゃんの話、しばらく聞いてないし」
「……ケンカじゃないよ」
私は答えた。
「ただ、少し距離を置いてるだけ」
「どうして?」
「だって……。あんまり仲良くなると、バレちゃうから」
お母さんは一瞬、悲しそうな目をした。だけど発した声は、いつもと同じように明るい。
「あら、それのなにがいけないの?」
「その子は優しいから、気をつかわせちゃうもん。今だって十分すぎるくらい大事にしてくれてるのに」
「でも友だちなんでしょう? 友だちが友だちを大事にしてなにが悪いのよ」
お母さんの言葉に、私は一瞬返事に困る。だけど答えはもうわかっていた。私はそれを認めたくなかった。
「知っちゃったら、「大事」じゃなくなる。「同情」になるから」
陽向くんに同情されるのが怖かった。今までは女の子として大事に扱ってくれていたけれど、それが今度から同情の目で見られるのは耐えられない。
散々陽向くんに迷惑をかけたくない、気をつかわせたくないといっていたけれど、結局のところ私の本心はそれだった。陽向くんには、ただの普通の女の子として見ていてほしかった。だから知られたくなかった。
つまりは全部、私の自己中心的なわがまま。
お母さんはもう私の方を見ていなかった。まっすぐ前を向いたままたずねてくる。
「同情されるのが嫌なの?」
「……普通じゃないって思われるのが嫌」
「でも、本当に普通の子なんているのかしらね」
お母さんはいった。
「みんななにかしら個性があるでしょう? みんな特徴がある。得意なものと苦手なものがある。あなたが普通だと思っている子だって、実は特別なのよ」
あなたもそう。お母さんはそういってまた微笑んだ。
「あなたがマイナスだと思っていることは個性だわ。それにあなたにだって、好きなものや得意なものはあるでしょう?」
答えなくても、お母さんは満足そうにうなずいている。
「普通なんて考えなくていいの。みんな普通じゃないんだから」
「……そんなの、お母さんぐらいしか思ってないよ」
「あら、そんなことないわよ」
お母さんはクスクス笑っている。
「だって考えてみなさいよ。あなたがそうやって、陽向ちゃんに嫌われたくないって思っているのは、その子があなたの特別だからでしょう? 逆に陽向ちゃんがあなたを大事にしているのは、あなたが陽向ちゃんの特別ってことじゃないの」
ほらね、とお母さんは悟ったような顔でいう。
「特別ってことは、普通じゃないってことでしょ?」
それはお母さんのこじつけにすぎない。そう思っても、特別って言葉には心がゆすぶられる。私が陽向くんの特別。本当はずっとそうなりたかった。私だけが、陽向くんの特別な存在でありたかった。でもそれはもう許されない。
黙りこくった私に、お母さんはなにかを感じたのだろうか。心配げな声で名前を呼び掛けてきた。
だけど私は返事をすることができなかった。今声を漏らしたらきっと、泣いていることがバレてしまう。
私はお母さんに見えないように座席の隅っこに体を寄せ、靴を脱いで体育座りになった。そのまま膝を抱え込んだ腕の中に、顔を突っ込んだ。時折意思とは関係なく漏れてしまうすすり泣きを、車のエンジン音が消してくれることを祈りながら。




