暴力的なチェリーボーイ③
その日の夜、自分は昨日の夜と全く同じように頭から毛布を被ってディスプレイの煌々とした光りが外に漏れ出さないように気を付けながら、ノートパソコンの中の映像を観た。
何度映像を繰り返し再生したところで、映像が何か突然変異の如くその様相を変えたりすることはないが――いや、そんなまったく昨日と同じ体験の中に、一つだけ変化があった。それは、胡乃葉の匂いがより近く感じることだった。
別に、映像に関しては全く昨日変わりない。そりゃそうだ。昨日は感じなかったが、今日は胡乃葉のシャンプーの匂いがより至近距離に感じられ、それは昨日の胡乃葉と全く違う。緊張が解けたのか、それとも緊張しているからこそより敏感になってしまっているのか分からないが、自分は胡乃葉の匂いを抱きかかえているような感覚が身体中を包んで離さなかった。
甘いシャンプーの匂いは目の前の映像への意識を阻害してくるけど、自分はそれを何度も意識的に振り払いながら、目の前の映像を何度も繰り返し観返し続けた。何か自分の記憶を取り戻すきっかけはないか、その意識をずっと持ちながら。
胡乃葉の匂いも気にならなくなるほど時間が溶けるほど自分は映像を観続けていると、胡乃葉自身を抱きかかえているのではないかと勘違いさせる甘いシャンプーの甘い匂いは、逆に自分をリラックスさせた。
記憶を取り戻すきっかけを探すことに疲れてしまった自分は、ノートパソコンを閉じて、猫のように上に伸びをしたあと部屋のドアをゆっくり開けて廊下に出た。恐らく時間としては深夜帯にこの世界は入っている。聞こえてくるのは静寂と自分の心拍音と呼吸の音だけだ。
ゆっくりとした足取りで自分は食堂車である十号車の扉の前まで行って、そして扉を開けた。食堂車は廊下と違って、人間が発生源の生温かい空気が少しだけ漂っていたから少し温かかった。そして、この食堂車には微量ではあるが汚染された感情も混じっていた。恐らく上のBARの客の感情だろう。時間帯が時間帯だからだろうが、食事をしている客など一人もいなかった。
自分はふと窓際に寄って外の風景を見てみた。
いつも見る部屋からの景色と違いなんて勿論ないが、何度眺めても景色だけは美しい。景色だけは本当最高なんだよな。でも、こんなところ一生居れる気がしないな。それとも、こんな場所でも全くなにも思わなくなるほど慣れるのだろうか。
さてと…………これからどうするかな。
列車が生み出す走行音と微振動、そして先ほどまでここに居たであろう人間の残り香と温もり、自分は何か口寂しい気持ちになっていた。人生において、やり過ごすということは大事であるが、たまにはその口寂しさを味わうのも悪くない。でも、そう思えば思うほどやっぱり口寂しく感じはじめたから、食堂車に来たんだからちょうどいいと思い、BARに寄っていくことにした。まぁ、こんな時間だからやっていないかもしれないけど。
現実と非現実を分ける為の分厚い黒い布を持ち上げてBARの中へと入った。
来るのは二回目だ。それでもこの暗さと埃っぽさ、分厚い黒い布によって隔てられる現実と非現実の浮遊感は慣れない。
自分は驚いた。BARのマスターはこんな時間だというのにグラスを拭いて客を待っていた。淡い灯火が僅かに照らすBARカウンターに自分が座ろうとしたとき、マスターはやっと自分に気がついたようだった。自分達の間に何も会話が交わされないまま自分は椅子に座ると、マスターは自身が拭いていたグラスを目の前に置いてきた。自分は辺りを見渡してみた。そうして初めて、会話の口火を思いついた。
「時間帯が時間帯だからですかね、自分達しかいませんね」
「背後の暗闇に一人おられますぞ」
「なるほど」
何がなるほどなのかは自分でも分からないが、蝋燭や燭台の灯りがあるとは言え、流石にここまで暗闇が深いと少し先すら不明瞭で曖昧だ。カウンター席に座った自分の背後、マスターの視線の先のところは暗闇はで全く照らされてなどいないから、テーブルも何もないただの壁だと思っていた。マスターはそんなことよりも自分が何を注文するのかが気になるのだろう、手持ち無沙汰なその手を落ち着かせるのに大変そうだった。
自分はグラスをマスターの方へと少しだけ押しながら温かい緑茶を注文した。
改めて見ても変な場所だな、と自分は思った。変な場所と言ってしまったらこの列車内自体が普通の寝台列車とはまったく違う変な場所と言ってしまえるのだが。空気感ひとつ取ったってそうだ。この列車内に住む人々は、何かネジが外れているように思えるのだ。
ネジが外れているというか、見えているものすら見えないように洗脳されているみたいな、そんな気味の悪さを感じてならないのだ。そのような感覚は、その人が特異体質者か否かということは関係ないように思えるし、だが何が理由かと言われれば……自分はひとつ確かな心当たりがあるのだが……。
「お待たせいたしました。緑茶です」
思考を全て崩すように言葉が耳に入った。自分は現実に引き戻された。引き戻された現実で緑茶を受け取ると、自分はそれを啜りながらマスターにあるひとつのことを訊いてみた。
「マスター、ひとつ訊きたいことがあるんです。それはこの列車内についてなのですが――」
「私に言われた通りにアミリーに会いには行ったかな?」
駄目だこの人、人の話を聞こうとしない。というか、明確に都合の悪い話を聞こうとしていない。自分はアミリーの部屋に行ったときのことを思い出した。アミリーは話の終盤に、こんな事を自分に話してくれた。
――〝あまりノイジーさんに深く踏み込むことはやめた方がいいよ。キビト、ノイジーさんにアミリーに会うといいよって言われてここへ来たんでしょ? アミリーが記憶を完全に取り戻したのは、確かにノイジーさんのおかげでもあるんだけど……でも……あの人、何か隠し事をしているよ。アミリー達には隠していることが……なにかあると思うんだ……。それは、この列車内の大きな秘密だと思ってる〟
列車内の秘密、それが、マスターの都合の悪い話……か。
秘密なんて言っても、まぁこの世界の事なんて何から何まで知らない自分にとっては、何が秘密で何が既出なのかなんて分からないな。でも、この人が自分に対して列車内のことを話したがらない雰囲気はなんとなく感じている。もしかしたらできることなら自分に何もかも知らないでほしいと思っているかもしれない。
もしそうだとしても、それじゃ自分のような特異体質者に疑われて感づかれるから、仕方なくその場しのぎで、出せる最低限の範囲でも話を出してくれるのであれば自分としてはいいのだが。というかそれよりも自分が気になるのは、なんで隠そうとしているのか、そういう雰囲気を何故自分は薄々感じてしまっているのか、という理由の方だった。
「勿論アミリーには会いに行きました。幸い、自分の意識が遠のく話はされなかったのでちゃんと話ができました。それでマスター、本当に訊きたいことがひとつあるんです」
「…………なんでしょう? 言ってみてください」
渋々、という感じであるが、自分はマスターの懐に猛スピードで入り込んで仕込みナイフの刃を当てることができた。後は、実際に刺して吐き出させるのみ。
自分は、自然と軽い笑みを浮かべながらちゃんと仕留めにいく一言を発した。
「マスター、貴方は初めて私と対面したとき、最後に記憶の忘却の効果がまだ強く残っているから聞こえないだろうという認識で、色々な話を自分に向かってしましたよね? 勿論、あのときの自分は実際に記憶の忘却の効果がまだ強く残っていましたから。頭の中が砂嵐に襲われるような感覚に襲われて意識の操縦桿は何者かに握られてしまい、実質的には意識を失うのと同じような状態になってしまっていました。でも、自分が自分自身の操縦桿を取り戻したとき、その言葉が、まるで投げられて身体に突き刺さったまま残った鋭利な硝子片のように残っていたんです。自分はその言葉の硝子片を抜くことなく、逃げる事なく、痛みを感じながらありありと感じたんです。そして理解しました。そうするとひとつの疑問が自分に浮かび上がってきたんです」
ひとつの疑問、それは雨粒が大きな大河を成す構成員のように、全ての問いを解決する第一歩となりうる。マスターは一切表情を変えず、自分の方をまじまじと見つめながら、言葉を聞いていた。そして自分は言った。
「この列車内の全ての部屋には恐らく人間が、マスター貴方の表現を借りるなら満タンに補充されているはずです。一号車から二十号車までの全ての部屋を確認したわけじゃありませんが、恐らくそうでしょう。つまり、全ての部屋は二人づつ人間がいるはずなんです。でも、一つだけ、そうじゃない部屋があるはずなんです」
「何を以てそう言う? 証拠はあるのかい?」
「勿論、実際にそのような例外としてある〝一人部屋〟を探せば一発ですが、そうしなくても証拠ならあります。マスター貴方が私に初めて会った時の最後に話した言葉というのが、やっぱりまずかった。貴方は言いました。〝――私を含め君を除いた三人は、皆きっかけによって記憶を取り戻している〟と。貴方とアミリー、そして自分を除いてもう一人、特異体質者がこの列車内にはいるでしょう? でも、そのもう一人の特異体質者ではなく、アミリーに会いに行くようにと貴方は言いました。でも、勿論これだけじゃ全然個人の妄想の域を出ません。でもね、自分は初めて頭の中が砂嵐に苛まれて意識の操縦桿を握られたときに、出会っちゃたんです……彼に。それは男の声でした。彼は自分にこう言いました〝やっと見つけた〟と。とある人から聞いた言葉を引用して言うならば、彼はまさしく一番最初の特異体質者でしょう。そのとある人から私は、その一番最初の特異体質者を殺してほしいと依頼をされました。別に自分は他の男性よりも力があるわけではないし、見た目通りに非力な人間です。なのに、その依頼主はこんな弱そうな自分に人を殺すことを依頼したんです。普通に考えたら可笑しいじゃないですか。その出来事が一番の証拠です。この列車内に居ない人間だから、その列車内以外の世界に行けるであろう特異体質者である自分に、その依頼主は依頼をしたんです。その特異性を用いたのかそれともまた別の裏技みたいなものを使ったかどうなのかは分かりませんけど、彼はこの列車内から唯一別の場所での生存が許された人間であることには間違いない。そして、この列車内から存在を消したからこそ、貴方は彼に会うことを勧められないし、この列車内では唯一の例外である一人部屋というのも誕生してしまった。恐らく彼の存在そのものがこの列車内の秘密であり、そして彼こそがある種の黒幕なのかもしれない」
当てた刃をちゃんと腹部に突き刺せたような気がした。これで、吐き出させる準備は整ったと思った。
「それを人は証拠とは呼ばないですよ、キビトさん」
その言葉に自分は唾を飲み込んだ。
確かに、マスターの言う通りに自分の言ったことは証拠として扱うには未熟すぎるただの推論、または妄想に過ぎないのかもしれない。なにせ自分はこの列車内について無知過ぎるのだ。それでも、自分の論理は成り立っていたはずだ。元から情報そのものを引き出せるとは思っていない。
マスターの反応を見て追いかける価値のある推論なのか試してみたかっただけでもある。そしてその思惑の通り、マスターが自分に対して何か隠し事をしている雰囲気はより確信的なものになったから、アミリーの言っていた通り、マスターは安易に信じない方がいい。
もしかしたら〝一番最初の特異体質者〟という存在は、記憶の忘却の効果そのものなのかもしれないな。色々と頭の中に想像が膨らんできた。まぁどうだろうと、その〝一番最初の特異体質者〟だろう存在は、自分に〝やっと見つけた〟と言葉をかけてきた存在と恐らく同じだ。それだけでその〝一番最初の特異体質者〟とやらを、記憶を取り戻すきっかけとして追いかけるに十分値すると思った。まぁ、その具体的な手立てなんて分からないんだけど……。
自分は用が済んだからお茶を飲み干して、その場から立ち去ろうと椅子から立ち上がった。
「この列車内には昔から言い伝えられている予言がある。胡散臭いと思ったなら別にそのまま立ち去ってもらっても構わない」
マスターの言葉に、自分は引き留められた。
自分は椅子に再度座り直した。そして、温かい緑茶も再度煎れなおしてもらうことにした。
煎れなおしてもらった緑茶を啜りながら、自分は話半分にその内容を聞くことにした。
「まず、大前提として、その予言の話というのは私も、もうここには居ない友人から聞いたものなのです。だから整合性がどうだとかそういう事は言わないでいただきたい。だから、話半分に聞いていただけると幸いです」
自分は軽く二度首を縦に頷かせた。元からそのつもりだと内心呟いた。
「西暦で言えば1500年ほどから言い伝えられている予言なのだが、今が2015年だろう? だからとても昔から言い伝えられている予言という事になりますね。その予言はこのようなものでした――〝この世界に三人の特異体質者が現る〟と。内容はシンプルにこれだけで、その言葉の深い意味や意図というのは誰も分からない」
この世界に三人の特異体質者が現る、私と君とアミリーで三人だ、だからその君が今さっき言った〝一番最初の特異体質者〟なんていない、とでも言いたいのだろうか。
この男は嘘をついているように思えた。自分はそんな嘘にしか思えない予言なんかを聞いた自分が馬鹿だと思って、お茶を全て飲み切ると足早にその場を立ち去った。
重い溜息が溢れる。アミリーの言っていた通り、マスターが自分達に何か重大な隠し事をしていて、そして今自分に対して嘘をついたことは事実だろう。
今までのマスターとの会話で分かったことの中で得た一番重要な内容は、ノートパソコンをくれたロディ・リッチメインなる男が言っていた〝一番最初の特異体質者〟が本当にいるだろうという可能性が強まった、ということだ。
自分は自室に戻って、おとなしくベッドで横になって毛布にくるまれると、ノートパソコンの映像は観ることなく、静かに眠った。




