第1部 第14章 穴/蓋
(第14章の概要)
ある日、ハジは人事部に呼び出される。録音されたやりとりの中、診断書の否定、退職届の提出期限を告げられる。彼は強い不安と絶望を抱えて職場に戻り、面談で語り手とナベサワに心情を打ち明けるが、ナベサワは冷たく対応し、その後、語り手に監視を命じる。語り手は混乱しつつもその指示に従わざるをえない。職場ではハジが"触れてはならない存在"として扱われ始める。ハジに関わることに対する恐怖が蔓延し、語り手自身も「言葉」の無力さと自身の加担を痛感する。
ハジは「存在していない存在」となり、周囲は見て見ぬふりをしながら彼を封じ込めていく。
(14章)
それはある日の午後だった。職場に電話が鳴った。
ハジは人事部によばれたとそう告げた。どこか強張った声だった。
職場はなんでもない風だった。誰もがいつものように業務をこなしていた。
そうして誰もがハジのその言葉を聞いていた。俺はナベサワに報告した。
いつもの当たり前の日常の喧騒の中、ナベサワは俺の報告をただ聞いた。
ハジは1時間もすると席に戻ってきた。一言も発しない態度だった。沈痛な面持ちだった。
ナベサワは俺を手招きして促した。ハジを呼び出してほしい。
俺はハジに声をかけた。重苦しい足取りでハジはついてきた。
パーテーションで区画されたいつもの簡易な会議スペース。ハジを座らせた。
「さて」ナベサワは言った。どうだった?何の話だった?ナベサワはハジに探りを入れた。
ハジは弱々しく顔をあげた。こんな表情のハジはみたことがなかった。ぽつりと言った「録音機がありました」
沈黙があった。俺は何がおきているのかすぐにわからなかった。ハジは続けた。
「だした診断書は認められない」小さな笑顔をみせる。投げやりって笑顔だった。
「このままだと大変なことになる」大変なこと?俺はたまらず聞いた。
ナベサワの態度は重々しく、何がおきているか、おこなわれているかを知っている者だけが
もつそんな重さだった。ハジは俺の言葉が届かない様にみえた。
「ほかには何か言われましたか」ナベサワは口を開いた。眼つきは真剣そのものだった。
ハジは体調面とか、診察状況の話でしたと気のない返事でそう答えた。「・・・そうだ」ハジは思い出したように
顔をむけた「いい弁護士とか紹介してもらえませんか」ナベサワは首を横にふった。
ハジは俺にも視線をむけるが、俺はちょっと反応しきれなかった。心がついて行かなかった。
ハジは残念そうな表情でうつむいた。「妻にどうやって説明しよう」ハジは弱々しく吐き出した。
奥さんはどこまで知ってるの?ナベサワは日常会話のように尋ねた。ハジはそんな言葉を無視した。
「ローン・・・」俺は思わず呻くように言葉をはいた、頭にハジの住むマンションのあの牧歌的な場面が
浮かんでいた。「住宅ローンは?」ハジは目を上げる「まだです・・・残ってます」
ハジは泣き出しそうな表情でうなだれる。時間がいたずらに刻まれていた。
「あとは係長にまかせたよ」ナベサワはそう言い残して立ち去る。
ハジはナベサワの背中をゆっくりと追いかけ、その姿がみえなくなると俺に声をかける。
「ちょっと聞きたいことがあります」俺はハジとどう接していいのかまだ整理できていなかった。
ハジは懐から4つ折りの紙をだして、おもむろに開くと俺にみせる。退職届の文字がみえた。
「マザキさんに渡されました」ハジは不安そうだった「期限までにだせって言われました」
ハジは俺にすがるようだった「もう選択肢はないのですか」
録音機、退職届、期限。ハジの言葉に俺は混乱していた。ナベサワは俺に耳打ちをしてくる。
「ハジさん、やけをおこすとも言い切れない」ナベサワはそっと周囲を見渡した。「何か仕掛けてくるかもしれない」
「彼が職場から退勤するまで目を離さないようにしておいてほしい」・・・監視?その真剣なナベサワの空気に飲まれて
俺は何も言い返せない。「扱う文書も逐一チェックしておいてほしい」ナベサワはウインクした
「そんなにかからない、もうしばらくだから」
「考えを聞かせてほしい、そう言っただけです」マザキは俺の問い合わせに電話越しで異様に快活だった。
その口ぶりは親し気で丁寧なため、明らかに何かを企てている後ろめたさが見え隠れしていた。もう決まっている、そんなナベサワの言葉が頭に響いた。
ハジにはマザキの言葉をそのまま伝える。追い込まれた奴は見え透いたマザキの言葉を信じて心の底から安堵したようだった。
俺にはハジの姿がどこか少し遠くに感じた。
その後、ハジの職場での行動は全て監視された。ナベサワは俺だけではなく杉田にも指示をだしたようで、杉田は係員に
そのことを徹底するよう指示をだしていたのだ。係員はハジに届いた郵便物を全て俺に確認させた。
ハジの挙動のひとつひとつに俺の了解を求めた。今、ハジのことをフリーズと嗤う者はその頃からいなくなった。
誰もが何かに不安を覚えていたようだった。禁忌。そんな言葉がハジの存在には
刻みつけられていた。
大きな穴があいていた。その穴にハジは落ちていた。誰もが落ちているハジのことは知っていて気づいていた。
でも助けていいのか、救っていいのかその判断を躊躇していた。自分が巻き添えになることが怖かったのだ。
穴にはまっているハジを知っていて、知っているからこそ怖くなって無視をした。
無視をし続けると何かが麻痺し始め、穴に蓋をしてハジごとなかったことにすることが正しいことになっていた。
職場で、ハジはそこにいるのにそこに存在していない存在になった。
ハジに何かができる言葉はすでに存在していない。禁忌に触れた居て非なる存在。
言葉には何の力も感じなかった。その響きが意味するものも無力だった。
コミュニケーション?言葉で作られた嘘にしか感じなかった。職場でハジに関わる全てに恐怖が介在し始めた。
俺が習った言葉、学んだ言葉、触れた言葉、そのどの言葉も禁忌に対して圧倒的に無力だった。
俺にとって言葉は恐怖になっていた。穴に蓋をする行為に自分が加担していたのは気づいていた。
皆が加担していながら首謀者ではなく共犯者になって誰の責任でもなく禁忌を封じ込める。
ハジの発する言葉は無意味な雑音にすぎなくなって、その呼吸や息吹はどこかに霧散したようになる。
それがよかったのか、そうするしかなかったのか。その問いかけすらどこか胡散臭い言葉になって雑音としてかき消される。
本作品はフィクションです。登場する人物、組織、職業、制度及び出来事は物語上の設定として構成したものであり、実在するいかなる個人、団体、職種、組織とも関係ありません。本作品は特定の職業や組織を描写・評価することを目的とするものではありません。




