増援
◇
血の雫が、床に垂れ落ちる。
彼方此方が裂けて灰色の床を覗かせる薄っぺらい絨毯に赤黒い染みを作るのは“ほぼ全て”鬼月佐治の身体から溢れ出たものだった。
僅かな“例外”が、一筋の涙の様に牛緒源一郎の左眼から流れ、頬に伝わり一粒のみ滴り落ちた。
「……ッ!」
若人の身体が空で反転する。爪先が天井を掠る。
高層ビルから突き落とされたかの如く、心臓を貫いた匕首を軸にした大槌の様に頭から落ちる──
発条じみて縮められた鬼月の両足が老人の身体を蹴り飛ばす。並の生物ならば口から内臓を吐き出す程の衝撃が牛緒源一郎の身体を襲う──が、足蹴にされたはずの老人は後退り一つしない。
吹き飛ばされたのは、鬼月佐治の方。反作用によって匕首が引き抜かれ、競泳選手がターンを行うが如く空を身体が滑る。必然的に二人の間に距離ができる。
冷たい打ちっぱなしの壁へ身体が叩きつけれられるよりも前に四肢を伸ばす。四足歩行の獣のように四肢を壁につけ、着地の衝撃を和らげる。一連の流れの中、決して相対する敵からは目を外さないように。
対する老人は、袖口で血に濡れた匕首を拭う。
「……?」
奇妙なことに、吸血鬼の従者は牛緒組の長が今しがたとった行動に違和感を覚える。
武器に付いた汚れを拭う。別にどうということもない行為。
だがそれに奇妙さを感じた。
目の前の老人の暴力性、凶暴性、残虐性、冷酷性は嫌という程味わった。牛尾源一郎という人物はそういった要素で構築された人格を持っている。そう確信している。
そんな人物に全く似つかわしくない程に──今の行為に、何故だか老人が持つ愛着の発露を感じる。
匕首を拭うその仕草に、優しく、丁寧に、まるでミルクが垂れた赤子の口元を拭うような“愛”を感じる。
自らの左眼に食い込んだ銃弾を一切意に介さず、更には古巣に入り込んだ望まれぬ訪問者さえ眼中にないのが言葉が無くとも分かる程に丁寧に、この場に存在する何よりも匕首を優先するその行為の所為で、余計にその印象が強まった。
鬼月佐治は考える。思えば不可解な点があった。
貫通に至らないまでも、ああして血を流した。あの咄嗟の攻撃は有効だった。
ならば何故、敵の身体に突き刺さった武器から手を離して防御をしなかった?間に合わないと判断した?いや、今の今までまざまざと見せつけられた身体能力。自分で打った銃弾を追い抜く怪物性を踏まえて考えれば十分間に合った筈。
(自分の身体より愛用の武器を優先した?何でそんな──)
この冷酷な殺人者の理に合わない行動は今まで“二回”あった。
一つは今しがたの、自分の危機よりも道具を優先した不可解な行動。
もう一つは──地下室で襲われた時のこと。
コンマ数秒が貴重になる戦闘中の思考の妨げになる為、追いやられていた疑問が酸素不足の脳に蘇る。
(何故、出くわした時……爺さんはいきなり刀を突き刺して終わらせなかった?俺の背後を取ってたのに)
牛尾源一郎の、侵入者に対する自身の冷静な殺意にそぐわない行動。それに関する疑問が蘇る。
どういった経緯で古巣を訪れたのか、侵入者を感知したのかは分からない──ただ、牛尾源一郎が接近すれば来るはずだった連絡が来なかった事実から逆算して考えれば、協力者であった筈の男の裏切りの一環である可能性が高い。鬼月佐治はそう考える。あるいは、セラ・テンキーンが作り出した迷宮の中で追い詰められたあの状況から抜け出す為に黒田羽久斗は方便を使った、つまりは元から嵌められていたのだと。そっちは如何様にも道理がつく。
だが憎き侵入者の背後を暗闇から取っていたにも関わらず、突き刺し切り刻んでしまわなかった理由はどうにも思いつかない。
(黒田から俺の身体特性を聞かされていたから?いや、治るだけで有効ではある上に動きも封じられるんだからそうしない理由が無い。弱点は黒田の奴に伝えてないから分からなかったのかもしれないが……人の形をしているんだから、頭を潰せば致命傷になるなんてのは直ぐに思いつくだろう。実際首を刎ねられかけたんだ。しかし、それなら背中越しにそうしなかった理由が思い浮かばない)
死に物狂いで命を繋いだ戦闘の最中は脳髄の末端に追いやられていたこの疑問──無論、今現在も戦闘の最中。それも戦闘技量も生物としての格差が著しい相手との。本来ならば必要ない省かれるべき思考。それは鬼月も理解していた。
それでも脳は稼働を止めない。
(不自然だ。俺が聴いて観て理解したつもりの牛尾源一郎の実像に……そぐわない)
普通に考えれば無駄としか捉えられない思考に、吸血鬼の従者は奇妙なことに光明を見出していた。
とめどなく溢れる思考の切っ掛けは、牛尾源一郎の左眼から流れ落ちた一滴の赤黒い雫。一方的な戦いの最中、此方が与えられた唯一の負傷。
視界を司る感覚器官の強度は他の部位と比べれば脆いというのは理屈としてよく分かる。生物として当然のことだ。ましてや本人が分かっていない筈がない。にも関わらず、冷酷かつ苛烈に攻め立ててくるあの老人は庇わなかった。
自分の匕首から手を離せばどうとでもできただろうにそうしなかった。
(つまり、冷静じゃなかった。確かに武器をもぎ取ろうとした時……爺さんはかなり頭に血が昇っていた。こっちが身体に銃弾をぶち込んでも冷静、というか、無関心ささえ感じるような具合だったのに)
自身の命を脅かす可能性を蔑ろにする執着心。何故に牛緒組の長がそうまでして心を揺らすのかは知る由もない。だが、そこに付け入る隙があるのではないか。
恩人と自身の命が懸かる崖際で感じ取れた針の先程の光明を逃がすまいと、頭が熱くなる。
(そして、怒りを露わにしてた瞬間は今の一回だけじゃない。初めて地下室で出くわした時もだ。明らかに苛立ちと抑えきれない怒りが混ざった声だった。当たり前だが入り込まれたことにブチ切れていた──一刻も早く“あの部屋”から追い出したくて……もしかして、“あの部屋”を俺の血で汚したくないなんて理由だったのか?侵入者の身体を後ろにぶん投げるなんて非効率的なことをわざわざやったのは──)
止めどない思考の渦。
≪……サ……サジ君!!≫
その流れを消し飛ばす、脳内に響き渡る聞き覚えのあり過ぎる女性の切羽詰まった声。
「えっ!?セラさん!?」
「!?」
若人の突拍子もない発声に反応し、匕首を衣服で撫でつける老人の手がピクリと止まる。
(しまっ……何やってる俺は!)
鬼月佐治の顔に、隠しきれない後悔の色が映る。更に、失策による後悔を顔に出してしまったことによる後悔も顔に出てしまう。
頭に響いた声が我が命の恩人が放った“念話”であることは直ぐに理解した──反射的に返事をしてしまった数瞬後に。
だが、若人の焦りは程なく打ち消される──別種の焦りによって、上書きをされる形で。
≪玄関から人が入ってきた!三人いる!君がいる場所へ向かっているよ!相手の増援の可能性が高い!≫
「……!?」
≪どうにか、どうにか隙は作る!“転移陣”から今撃てる最大出力の“雷撃”を送り込む準備は整っている!これなら、ウシオ・ゲンイチロウもさっきよりは動きが鈍るかもで、それでどうにか脱出を、あっ合図は──≫
言葉は続かない。いや、続いていたのかもしれないが、どちらにしろ鬼月佐治にはそれ以上の言葉は届かなかった。
吸血鬼の主人を蔑ろにした訳ではない──鬼月の意識は匕首を拭い終えた老人と──向かい側の通路にあった、今しがた荒々しく蹴り開けられ壁にぶち当たった、玄関方向に繋がる扉に意識が注がれていた。
蝶番を情けなく鳴らす扉の先。そこからは僅かに吹き込む風と共に、白い影が隙の無い動きのもと入り込む。
薄汚れ、崩れ、放棄されたこの場所に似合わない、清潔な白。それを纏う影は──回転式拳銃を持っていた。
それは贅沢を嫌うかのように無骨であった。銃口は長く、銃身は厚く、大きかった。それは明確に、強大な獲物を撃ち滅ぼす重く強い弾丸を放つ為の形状であった。
ただ無骨さの中にある信念を示すが如く──銃身に十字架をモチーフとした紋章が刻まれていた。
そして、その銃口は──
「……なんだっていうんだ……これは……」
牛尾源一郎を捉えていた。
「吐叶市探索者組合長、牛尾源一郎だな」
毅然とした、場慣れした声が白い影から響く。
「天日市から要請を受け、貴様を捕縛する。抵抗すれば貴様を神の御元へ送る──我らは正浄化協会だ」
人類を脅かす吸血鬼を屠る正義の味方が、そこにいた。




