(21)
六月 二日 (金)
冬子先生に婚約者が出来た。
この話は一気に広まり、白熊大学内では一部お祭り騒ぎとなった。
だが冬子先生は一貫して「あいつはただの助手」という姿勢を取っている。
ちなみに婚約者という噂を流したのは里桜だ。
花村教授が冬子先生にプロポーズして一瞬間程経った。
突如として大学を去った花村教授。当然大学側は必死に引き留めたらしいが、花村教授の意志は固かった。
いや、もう花村「教授」と呼ぶのはふさわしくないだろう。
もうあの人は冬子先生の助手なのだから。花村助手と呼ぶのが正しいかもしれない。
そのせいか、冬子先生が大学に来る頻度は低くなった。
前は週に三日は来ていたが、今週はまだ一日も来ていない。もう金曜日だと言うのに。
もしかしたら、花村助手と一緒に仕事するのも満更でも無いのかもしれない。
「冬子先生……可愛いなぁ……」
そう呟くのは里桜。
いつもの如く中庭で昼食を共にしていた。
「ねえ、晶。私達も恋しよう! というわけで今日合コンね」
「いや、ごめん……今日バイト……」
そう、本日は記念すべき日。
私の生涯の中で初めて、正式にバイトとして働くのだ。着ぐるみバイトはノーカンだ。
「あぁ、あのコスプレ喫茶か……。じゃあ私冷やかしに行こうかなー?」
「別にいいけど……拓也居るかな、今日……」
そう、実は琴音さんが事故に遭った日から拓也には一度も会っていない。
メールでのやりとりはあったが、拓也は琴音さんの話題を避けているようだった。
恐らく私に気を使わせまいとしているのだろう。
「拓也君ってさ、あんたと冬子先生がお姉さん助けたって知らないんでしょ?」
「ん? あぁ、別にわざわざ言う事でも無いし……なんか表彰されそうになったけど、冬子先生が無理やり踏み倒してくれたから……」
警察にも知り合いがいるらしい。
冬子先生……何気に顔広いよな。
「じゃあ……あんたも、そんなに気使う事ないでしょ。素直に言えばいいじゃん」
「え? な、なにを……」
「お姉さんのお見舞いに行きたいって」
うっ! そ、それは……そうなんだけど……。
実際今、琴音さんのお見舞いは出来るんだろうか。
事故からまだ一週間程しか経っていない。というか、琴音さん……目覚ましてるのかな。
そうだ、拓也に……「琴音さん、目覚ました?」なんて聞ける訳が無い。
病院に問い合わせれば話は早いが、私が今行ってもいいんだろうか。
あんな大きな怪我を負ったんだ。私なら……誰にも見られたくない。得に知人には……。
「考えすぎじゃない?」
「そ、そうかな……。でも迷惑だったら……」
「だーかーらー、拓也君と一緒に行けばいいでしょ。なんか手土産でも持って」
手土産か……。
食事制限は確実にされてるだろうから、果物系はアウトか。
あとは暇つぶしのゲーム? いや、不謹慎かしら……。
「じゃあ漫画とか小説とかでいいんじゃない?」
「ふむぅ……」
じゃあ今日、もし拓也と会ったら言ってみるか。
琴音さんのお見舞いに行きたいって……。
そんなこんなで大学も終わり、私のバイト先である執事喫茶へと到着。
裏口からコソコソ入り、とりあえず央昌さんに挨拶するべく、事務室の扉を開いた。
「こんにちはー……今日からよろしくおね……」
「キャン!」
うお! びびった!
このワンコは……琴音さんの命の恩犬か。
事務室で飼ってるのか? 央昌さんの姿は無い。ドコダ。
「クゥーン……」
私の足に身を寄せて甘えて来る子犬ちゃん。
むむ、フサフサ……。
抱っこしたい、という誘惑に敵う筈も無く、子犬を両手で抱き上げる私。
うぉぉぉ、冬子先生の所の柴犬よりモッフモフな気がする。
何故だろう……一言で柴犬って言っても違うのか……。むむ、しかしお腹の一部分だけ毛剃ってあるな。
傷跡が痛々しい。こんな傷を負っているのにも関わらず、この子犬は琴音さんが事故に遭った時、私達を呼びに来たのだ。
「お前は凄いな……」
「キャン!」
ベロベロと顔を舐めまわされ、オチツケ、と言いながら床に降ろした。
その時、背後に人の気配が。
「こんにちは、真田さん。今日からよろしくお願いしますね」
「ふぉぉぉ! 央昌さん! よ、よろしくお願いします!」
突然現れた執事にビビりながら挨拶。
むむっ、央昌さんから……なんかいい匂いがする!
そうだ、この匂いは……シュークリームの……
「おや、流石ですね。実は今日はシュークリームフェアなんですよ。いつもの半額で食べれる上に、今日だけしか食べれない特別なシュークリームがあるんです」
な、なんだと! 私お客さんとして来たかった!
「大丈夫ですよ、ちゃんと取ってありますから。では早速執事服に着替えて下さいね」
了解ッス、と更衣室に移動。
ロッカーの中には、まだ一度しか着ていない執事服が。
ん? なんか……洗濯してあるっぽいな。もしかしてデビルマツダがしてくれたんだろうか。
「クンクン……柔軟剤の匂いが……」
何気にこの匂い好きだ、と思いつつ袖を通していく。
「えーっと……ズボンズボン……」
今まで履いていたジーンズを脱ぎ、スラックスを取り出したその時、更衣室の扉が開いた。
「ぁ、お疲れ様でーす……って、ぁ……」
「拓也……ぁ、えっと……ちょっと話したい事が……」
「は、はい?! いや、ちょ……その前に……」
なんだ、顔真っ赤にして。
「ちょ……下……下履いてください!」
言いながら顔を背ける拓也。
ぁ、そういえばズボン履いてなかった。
いそいそとズボンを履きつつ、再び拓也に話しかける私。
「あのさ、琴音さんの……お見舞いに行きたいと思って……」
「……ぁ、はい……ありがとうございます。でも……まだ姉さん本調子じゃないって言うか……」
まだ目が覚めてないんだろうか……。
拓也は何処か泣きそうな顔をしている。
「拓也……大丈夫?」
「はい……」
そっと涙を拭う拓也。
私に向き直り……
「晶さん……」
「うん……どうしたの?」
「……着替えるんで……出てってください……」
拓也に更衣室から追い出された私。
さて、どうするか。仕事と言っても……まだお客さんは二人くらいしか居ない。
一人は飛燕 涼ちゃんか。もう一人は……って
「だーかーら……なんでこうなるのよ。ここ、計算間違ってる」
「うぅ……分かんないよー……」
里桜が飛燕ちゃんに勉強を教えていた。
っていうか里桜……ホントに冷やかしに来たのか?
「ん? お、晶ーっ、あはは、似合ってるじゃん、執事さん」
私を見つけた里桜が声を掛けてきた!
むむ、お嬢様に声を掛けられたのだ、行かねばなるまい。これも仕事の内なり。
「里桜たん、ご来店ありがとう。涼お嬢様、ご機嫌麗しゅう……」
「ちょ……なんで涼だけ……まあいいや。晶、コーヒーおかわり」
ういうい……とカップを受け取ろうとすると、後ろから私の肩をトントンと叩く誰かが。
って、央昌さん!
「ここでは執事長と呼んでくださいね。とりあえず晶さん、言葉使いがなってませんよ。そこは畏まりました、ですよ」
ひぃ! さっそく怒られた!
うぅ、里桜はなんかニヤニヤしてるし……。
「す、すみません、執事長……か、畏まりましたっ!」
そのままコーヒーカップを持って奥に。
厨房の前を通ると、コックの一人が声を掛けてきた。
「おう、新人執事さん。これ、あとで食ってくれ」
むむ、グラサンを掛けたコックが差し出してきたのはシュークリーム……!
マジか、食べていいの?
「失敗作だからな。それと俺の事は敏郎でいいぞ。あっちの若いのが洋介な」
洋介と呼ばれた男は換気扇の下でタバコを吸っていた。
って、この前もそうだったけど……厨房で煙草吸うってどうなんだ。
「あの……タバコは休憩室で吸った方が……」
思わず洋介と呼ばれたコックへと言い放つ私。
「あん?」
ギロ……と睨まれた!
ひぃ! こ、怖くなんかないぞ! 新人虐めたら央昌さんが黙ってないからな!
「……すみませんでした……」
しかし意外にも、素直にタバコの火を消して仕事に戻る洋介さん。
むむ……なんかやけに素直だな。
もっとなんか文句言われるかと思った。
グラサン執事、敏郎さんは薄く笑いつつ、私に耳打ちして来る。
「あいつ……女が苦手なんだ。なんでも元カノに虐められたとかで……」
そうなのか……。
確かに話しかけるなオーラが出ている……ような気がする。
「じゃあな、頑張れよ新人」
「ぁ、はい! シュークリームありがとうございます……」
おっと、そうだ。里桜にコーヒーを持って行かねば。
遅いとクレームを付けられる訳には行かぬ。
そのままサーバーでブラックコーヒーを注ぎ、ミルクと砂糖を添えて持っていく。
「お待たせしました。コーヒーでございます、お嬢様」
「う、うぁぁぁ……なんか晶に言われると背筋が震えるわ」
うっさいボケ、という言葉を飲みこみつつ、里桜の前にコーヒーを置く私。
すると妹の涼ちゃんが私を見つめてきた。
むむっ、なんじゃ?
「貴方……もしかしてこの前の……可愛いメイドさん?」
ん? あぁ、そういえば……なんか可愛いとか言われて……そのまま連れ去られそうになったんだよな。
その時、里桜の目が光った……気がした。
「何、メイドって……もしかして晶、メイドの格好も出来るの?! なんでそっちにしないのよー、見たかったのにー」
ブーブー言ってくる里桜様。
なんでって言われても……メイド服は今日持ってきておらぬ。
残念だったな! 私の可愛いメイド服が見れなくて!
「今度メイド服でやってよ。私が来た時だけでいいからさ」
考えておこう、とそのまま一礼して立ち去る私。
厨房の前まで戻ると、携帯で電話する拓也の姿が。
こらっ、一応仕事中ダゾ。
しかし拓也は石像のように固まっていた。
ピクリとも動かない。
何だ、どうしたんだ?
「……はい、はい……わかりました……よろしくお願いします……」
「拓也? どうしたの?」
携帯を仕舞い、私に向き直る拓也。
厨房の二人もどうしたのだ、と拓也を見つめていた。
「姉さんが……その……」
「琴音さんに何かあったの?」
コクン、と頷く拓也。
「姉さんが……」
そのまま黙りこんでしまう拓也。
琴音さんに……何があったんだ。




