(?)
家の中が暗かった。
夫とはここ最近、口すら聞いて貰えない。
もう限界だ。私は私を見て欲しいだけなのに。
蓮が寝静まるのを見計らって家を出た。
夜の街に。
煌びやかで、何処か刺激的な誘惑が蠢く街。
「お姉さん、寄っていきませんかー? ワンセット3000円」
そう声を掛けてきたのは、私の一回り年下であろう男性。
夜の街で、その笑顔は輝いて見えた。
「どうしたの? なんか疲れた顔してるけど……ちょっと吐き出していく?」
私はいつのまにか、その男性に着いて店の中に入っていた。
まるで別世界に来たかのような感覚。
家で夫が帰ってくるのを待っていたのが、バカバカしくなるくらい。
「お姉さん、何飲む?」
アルコールを勧められ、私は巨峰サワーを頼んだ。
お酒など、ここ数年飲んだ事すら無かった。
そうだ、妊娠してから……蓮を妊娠してから口にしていない。
そこで初めて子供の事を思いだした。
しかし蓮はもう今年で五歳だ。私が五歳の時は既に家事を手伝っていたし、一人で留守番など日常茶飯事。父親にも母親にも何度も殴られ、何度も真夜中に家の外へ放り出された。あの子はまだ幸せだ。
そろそろ、一人で留守番くらいさせなくては。
「はい、お待ちどうさまー」
男性がお酒を持ってきた。乾杯し、恐る恐る口を付ける。
冷たくて甘い、それだけじゃない。
何か舌がピリピリする不思議な味。
「えっ、ちょ……イッキ?」
いきなりジョッキの中を空にし、追加のお酒を頼んだ。
次に来たお酒も一気に飲み干した。
美味しい、美味しい。どんどん気持ちが良くなってくる。
もう、なにもかもがどうでも良くなってくる。
そう、夫の事など……どうでも……
子供の事など……どうでも……良くなってくる。
気が付けば私は、一回りも違う男性と一線を越えていた。
初めて、夫と出会った夜を思い出して。
あの頃に戻りたい。もう一度やり直したい。
その思いが私をエスカレートさせた。
貯金を崩して毎晩のように遊びに行った。
夫意外の男に夫の影を見ながら。
それが堪らなく楽しかった。
私に見向きもしない夫がこれを知ったら……きっと悔しがってくれる。
きっと怒ってくれる。きっともう一度……私を愛してくれる。
しかし夫は簡単に私を切った。
子供の為にも、お前と別れる事にした。それが夫の捨て台詞。
暗くて狭い一軒家に、私は一人取り残された。
なんで?
どうして怒らないの?
貴方にとって……私はどうでもいい存在だったの……?
それまで私は町医者の受付として働いていたが、浮気をして夫が出て行ったという噂は瞬く間に広まった。小さな町で唯一の病院。誰もが私の事を浮気した妻だと知っている。私は早々に辞表を提出した。
だが住む場所まで変える訳にはいかない。
そこまでのお金は無い。何せ大半の貯金は遊んで無くしてしまったのだから。
自殺も考えたが、死ぬ前に見たかった。蓮がランドセルを背負っている所を。
なんて自分勝手で我儘な最低のドブネズミ……とでも罵倒されればどんなに楽だったろうか。
私は私を見てくれる人が欲しい。
お金さえ払えば簡単に手に入る。でもそれじゃあ貯金がいくらあっても足らない。
私の事を知らない人しか居ない所で過ごしたい。
自然と足は全く違う土地へと歩み出した。
そこで見つけた職業は家庭教師。
「春日さん? 私ね、可愛い女の子が大好きなの」
一番最初の生徒がそんな事を言い放った。
唖然とする私に、その生徒は再び口を開く。
「だから、見つけにいきましょ。可愛い女の子を」
綺麗な金髪を揺らしながら、その生徒と私は一件の喫茶店へ赴く。
そこには可愛い女の子が集まってくるらしい。
でも、私が見つけたのは……
「春日……?」
元夫だった。
一流IT企業を辞め、私の夫は住み込みで息子と一緒に喫茶店で働いていた。
なんてことだろうか、私が求めた生活を……この男は私と別れてから手に入れたのだ。
許せない。
私は元夫への不満を、子供に会いたい、という理由に変えてぶつけた。
あの子に会わせろ。あの子を私から奪うな、と。
夫は身勝手な私の言葉に頭に来たのか、見た事も無いような怖い顔で私を見てくれた。
嬉しかった。初めて夫が、私が浮気をした事を罵倒してくれた。
そうだ、もっと、もっと私を見て。
私が他の男と遊んでた事に対して怒って。
そんな私に、神様は尤も効果的な罰を下した。
「おばちゃん……誰?」
私の分身、お腹を痛めて産んだ子が私の事を忘れていたのだ。
今更母親と呼ばれて欲しかった訳では無かった。
でもこんなのあんまりだ。
私はその時、初めて、本当の意味で自分の行いを後悔した。
なんて虫のいい話だろうか。
私は私を見て欲しかった。
でも私は自分の子供すら見ていなかったのだ。
こんな私が、この子の母親であって良い訳が無い。
この子の母親である資格など有る筈が無い。
この子の目に、私が映って良い筈が無い。
ごめんなさい。
今夜、私は死ぬことを決意した。
もう何も望みません。
私は私である事を捨てます。
最後まで身勝手で訳の分からない私に構ってくれてありがとう。
さようなら




