笑うノコギリエイ 前編2
異世界転生――英語なら「get isekai'd」。
それを裏づける光景が目の前にあっても、春子の心は現実をのみこめない。
目の前には太陽を反射して輝くおおきな湖があり、それを西洋風の街並みがぐるりと半分囲んでいた。高い鐘楼や風車、水車に綺麗な石畳の道。行きかう馬車は荷台をゆらし、見たこともないような生物を運んでいる。歩く人々は笑顔を浮かべているが、半分以上が人間とは違う人型生物だ。中には空をただようように進む者も。
そして――
広がる大森林のむこうへそびえる、半透明の巨大な世界樹。太さ数百メートルもあるであろう幹が空にのびて、高い雲に突き刺さっている。
春子は涙のあとが残る顔を冷たい風に吹かれながら、口を開けてその光景を見ていた。もう1時間くらいそうしている。
「そろそろ中に戻るわよ? 異世界にきて最初の試練が、風邪だったら嫌でしょう?」
「は、はい」
振り返ると濃紺の髪の大人びた少女が微笑んでいた。かわいくて綺麗と感じさせるその人は、頭の横にペストマスクを着けて、すらりと背すじをのばし立つ。背丈はそれほど高くないけど、藪の中に咲く大輪の花のような存在感があった。
先ほどまで彼女の腕の中で泣き明かしていたのだ。そう思うと少し恥ずかしい。
「わかりました、魔王様」
そう答えて彼女の元へむかった。「魔王」なんていう現実離れした名前を口にしたことに、自分で違和感を持ちながらも。
しかし現実として、ここは魔界だった。少なくとも彼女らはそう呼んでいた。目の前の少女「魔王シニッカ」が君臨する、魔族が生きる国なのだと。
召喚された暗い壁の部屋でさんざん泣いた後、春子はシニッカに現状を聞かされた。「あなたの知っている現実から離れたことがらを、とりあえず4つ伝えようと思う。気負わずゆっくり理解すればいいわ」という言葉をそえられて。
ひとつは、ここが異世界の中の「魔界」と呼ばれる場所であること。といっても健康を害する瘴気だったり灼熱の地獄があったりするわけではない。悪魔種という人類たちが多く住む、世界の辺境であるというだけだ。
ひとつは自分――飯田春子が、『転生勇者』の対抗召喚というもので呼び出されたこと。転生勇者というのは地球からきた強い力を持つ人たちで、ゆえに益にもなれば害にもなるらしい。そして基本的に、魔界とは敵対関係にある。
3つ目は体が健康に戻っていること。切断された両脚も、失った血液も元に戻った。
そして最後。とりあえず王宮で面倒を見てくれること。つまり自分は魔王の庇護下に置かれる。
(まあ、勇者として召喚されなくてよかったかも。似合わないし)
通常の考えならば、物語の主人公の敵役側に身を置いているのだろう。その事実も、地球の現代社会とそれほど変わらない秩序の元にあるこの場所で実感をともなわない。そもそも自分の知っている小説なんかの創作において、「勇者が善・魔王が悪」というステレオタイプな世界観はそれほど多くなかったように思う。
(小説か……)
お約束にして王道の展開をふまえるのであれば、転生と強い力はセットのはずだ。にもかかわらず、春子は自身が強力な力を持っていないと理解していた。ゆえに世界を救うという使命をあたえられたわけでもないと。
ひとつだけわかることは、今自分の心が落ち着きを取り戻しつつあることだ。魔王様(と厳密にはもうひとり)が自分と一緒にいてくれて、目を見て話を聞いてくれることは、死に際して発生したネガティブな気持ちをずいぶんとやわらげてくれた。
(これからどうなるんだろう)
けれど冷静になればなるほど、この世界への困惑は深くなっていく。心のどこかに刺さる現実の釘が「これは夢だ」と告げているようだ。半透明の世界樹を見ても、高い空へはばたく赤いドラゴンを見ても、それは変わらない。春子は地球での生活が残したアンカーによって、非現実の空間にぶら下げられているかのようだった。
そんな彼女の思考を知ってか知らずか、肩にかかる奇妙な重さと、明るい声。自分と一緒にいてくれた存在のひとりであり、おそらく魔王様の部下である女の子。
「イーダッ!」
文字どおり空中にふわふわ浮かぶ彼女は、海流になびく海藻のように、黒い長髪を宙へ揺蕩わせる。同じくらいの年齢に見えると春子は思ったが、体格は自分よりもずっと華奢だ。でも夏の海のようなからっとした笑顔をしていて、そこには力強ささえ感じる。
宙に浮かんでいる彼女は首に手をまわしてきて、後頭部に頬ずりをしていた。
「やぁぁ、なにぃぃ?」
「いいじゃん、いいじゃん」
困惑しつつも拒めない。彼女は魔王様に「下がっていなさい」と言われたのに、結局最後まで一緒にいてくれたのだ。ずっと心配そうに顔をのぞきこんでくれて、目が合ったら微笑んでくれて。火傷あとの残る両手に両手を重ねて温めてくれまでしたのだから。
そして元気を取り戻した自分に、すりこみをされた鳥の雛のようについてくる。
アイノ・コティラと名乗ったその子が普通の人間じゃないことくらい、今の春子にもわかった。ここが異世界なのなら、空中を揺蕩う彼女はゴーストかなにかなのだろうと、そう思う。身にまとうダークグレーのコートの裾も、幽霊の尻尾のようにゆらゆらとゆれている。
でもその仮定に反し、だきつく彼女の肌にはたしかな温もりがあった。それに、こんな距離感の近い同年代の女子なんていなかったから、むずかゆくて。
結局振りほどくこともできないで、首に生きたマフラーを巻きつけたまま、魔王様の元へ歩を進める。王宮は街の他の場所よりも5メートルくらい高い位置に建ててあって、見晴らしも風とおしもいい。とはいえあらためて入口に立ってみると、その異常な状況が嫌でも目に飛びこんできた。
(すごい壊れかた……)
風とおしに関しては少々行きすぎなほど、そこは破壊されていた。建物の中で正常なのは、全体の半分から3分の1くらい。入口の扉は枠だけになってしまっているし、調度品の残骸や壁の破片なんかがあちこちに小山を作っている。
もはや用をなさない入口の枠を、魔王様がそうしたようにくぐりぬけて中へ入った。視界に広がるのは、昔は豪華であっただろうホール。余白たっぷりの空間の左右には階段があり、奥はおそらく謁見の間かなにかになっていただろう。今はその面影しかない。円形の天井は半分以上崩れてしまい、風雨が無遠慮に吹きこむ状態。そこから恩恵を得てホールの一角におおい茂る草のしたたかなこと。階段も下2メートルくらいがなくなって宙ぶらりんの状態だ。王宮内で追いかけっこをしたのなら、危険なトラップとして逃走者の前に立ちはだかるだろう。
(あれってなんだろう?)
あちこちで破壊孔をいろどる黒い水晶は、穴を埋めるというよりは、穴を作った張本人のように見えた。とくに王宮の入って右側はひどい。人が入るすきまもないくらいに、がれきと水晶が奇妙な塊となってしまっている。おかげで破壊された王宮の右側は、人の出入りできない場所になってしまっていた。
破壊されたホールを左に抜けて応急処置された扉をくぐる。こちらは無事な施設なようで、ガラスの張られた広い窓のある廊下に出た。他の場所と違って破孔がないから、室温も高めで暖かい。寒暖差でほっと安どのため息まで出た。「あらためまして、ようこそ魔王様の王宮へ」と歓迎してくれているかのようなその空間は、食堂や居住区に続く唯一の場所らしい。
「ここが王宮の、いわば大通り。残っている施設も少ないから、ほとんどの場所にはここからアクセスできるわ」
春子は魔王様の言葉へ「そうなんですね」と無味なあいづちを入れた直後、寒暖差がもたらす生理現象に直面する。体をふるる、と震わせて、生きるに必要な情報を手に入れることとした。
「あ、あの、トイレはどこに……」
ちょっとした恐れもあった。現代日本のトイレはおおむね清潔だけれど、中世欧州の雰囲気であるこの異世界では、そこまでのものを望めないだろうと。
「つきあたりの右にあるよ! 水洗だし紙もあるから安心して!」
魔王様のかわりに、アイノが耳元で教えてくれた。
「よかった……」、しかしかわりに疑問がひとつ。
(異世界って中世ヨーロッパのイメージだった。中世に下水道ってあったっけ? それに紙も……)
春子が物知りだったからそう思ったわけではない。実際、歴史の授業でそのようなことを聞いた覚えがあるのだ。欧州の文明レベルというものは、中世という時代にいちど退化していると。もっと正確にいうと、大国がなくなってしまったがゆえ公衆浴場などの衛生施設が維持できなくなってしまったのだ。だからそれより前の時代、古代ローマのほうが体を清潔にする施設は多かったらしい。
そんな疑問を見抜いたのか、青い髪の女はクスリと笑い、話を続ける。
「この世界はね、神様のおかげで清潔さがたもたれているの。伝染病をなるべく減らすようにね。たぶんあなたが危惧しているよりも、ずっと衛生環境はいいと思う」
「そうなんですか。そういえばガラスもあるし、街並みも近代的ですね」
「勇者たち転生者は、よく『中世ヨーロッパ風』なんていうけれどね。実際は中世から現代レベルの文明とか文化が集まった、サラダボウルのような場所なの。たとえば『蒸気機関』はないけれど『木材原料の紙』はある、というように」
「それも神様が?」
「そうよ? ああ、下着や女性の必需品は現代に近いものがあるから安心しなさい。お風呂もね」
「はい!」
(ああ……神様ありがとう)
下着の部分だけ神様がどんな顔をして用意してくれたのか少し気になったが、日常生活を送っているだけで不潔からくる感染症にかかるのはごめんだった。
ほっと胸をなでおろし、しかし新たな疑問が芽生えた。なんで自分がいた世界のことを、この世界の魔王様が知っているんだろうかと。もしかしてこの人も転生者なんじゃないだろうか、それを口に出そうとしたが、トイレとお風呂の方向からあらわれた、なにやらあやしい影の存在に阻止されてしまう。
カタカタと骨を鳴らし、だぶだぶのお仕着せをまとった人影。掃除道具を持っている、あきらかに死んでいるもの。
「ス、スケルトン!」
「ああ、骨158号よ?」
(――それって名前⁉︎)
「イーダ、あの子はねぇ、お掃除をしてくれる魔動人形なんだよ」
「そ、そうなんだ」
魔界の命名規則に動揺しつつも、頭を左右にゆらして歩く「骨158号」さんに少しだけ愛嬌を感じ、会釈してすれ違う。
「さあ、食事の前にお風呂に行きましょう。どうやらあなたは衛生環境が気になっているようだから、ちゃんとしているところを見せてあげないとね」
「さ、サウナがあるんですか?」
「サウナなんて中世といわず、あなたの世界の石器時代から存在したのよ? もちろん、これから入るのは現代のやつだけれども」
魔王のどこか楽しそうな顔に、春子は少々とまどいを覚えながらも、その施設へむかうことにした。
かくして彼女は異世界において、人生初のサウナに挑むこととなった。




