笑うノコギリエイ 前編3
(暑い……)
体と頭に布を巻き、春子はシニッカとならんで座る。アイノは「私の中の魂が、昔を思い出すからイヤ」とのことで、温室にふたりっきりだ。
(暑い……いや熱い。でも、いい香り……)
木の香りを濃厚に感じられる空間に、気分がよくなっていくのを感じた。
部屋を構成する木の板と天井からつるされた白樺の枝が、熱とともに嗅覚をこれでもかというくらいリラックスさせてくれる。かすかに混じる焼けた石の焦げる匂いもそれはそれで心地よく、料理にまぶされた胡椒のようにぜいたくさを味わわせてくれた。
上質な空気をゆっくり吐く。鼻の下に気流が発生し、加熱された空気で少しヒリヒリする。でもこの対処方法は早々に見つけた。体から出た水分をちょんちょんと塗りつけてやると、いくぶんか楽になる。
汗だくだから水気に困ることもない。
(体の悪い成分、全部出そう)
太めと気にしていた腕や脚も、これなら少しやせてくれるだろうか。少し過剰なやわらかさのお腹も、これで自重を覚えるだろうか。
ならんで座る魔王様のすらりとした四肢と細い腰に、いいなぁと、心が感情を漏らす。身長は自分よりほんの少し高いのに、きっと体重は私のほうが多い、などと。
「どうしたの?」
視線に気づかれた春子は、あわててごまかそうとして、気になっていたことを聞くこととした。「魔王様も転生者なんですか?」
「地球のことにくわしいから?」
「え、ええ。なんか私よりもよっぽどくわしいから、そうなんじゃないかって」
「秘密よ? 私のこと、シニッカって呼ばないから」
舌をちらつかせ、ちょっとだけいじわるな目。
「え⁉︎ でも魔王様ですよ? 恐れ多いですよ。威厳とか権威とかあるでしょう?」
「それはお風呂の外で表現するわ。少なくとも裸でいる時にどうやって権威を着るのか、私は知らない。堅苦しいしゃべりかたもね? そうでしょう、イーダ」
「え、ええ」
そう言われて、また気になることができた。
「アイノも、魔……シニッカも、私のこと苗字で呼びま……呼ぶよね?」
言われるがまま、少々恐るおそる。魔王様という二人称を「シニッカ」へ変換する。
「ああ、それはね」、そのシニッカが一呼吸置いて、疑問へ回答してくれた。その内容は春子にとって、ちょっとだけ衝撃的なものだった。
「Iidaっていうのは、ここの言葉ではFirst Nameなの。そしてHalkoっていうのはFamily Name――姓なのよ。だから呼びやすくって」
「そうなの⁉︎」
「そうよ? イーダという名前は『勤勉な』っていう意味を持つわ。まじめそうなあなたにぴったりだと思うけど?」
(そうなんだ……)
異国の名前が日本語で変に聞こえるのを、テレビで見たことがある。でも苗字と名前が入れ替わることなんて、あると思わなかった。
春子は自分の苗字があまり好きではない。冷たかった親から引き継いだものだから。でもやさしくしてくれる人たちが理由を持って呼んでくれるのならば、悪くない気もしてくる。
残り半分も聞いてみようと、姓になった名の由来をたずねた。「あの、春子は?」
「『丸太』よ?」
「ぐぬっ」、変な声が出た。自分の体つきはこの名前のせいなのか? と顔へしわをよせる。
「あら、嫌なの?」
「だって、丸太って……」
あからさまに落ちこんだ顔をしたのだろう、シニッカがふふっと笑った。
「ケニングっていう、言葉遊びの文化があるわ」
「ケニング?」
「地球では『複合語による単語の詩的な置き換え』のこと。たとえば炎のことを『木々の災厄』って表現するなんていう」
「あ、たしかに詩的。うまいこと言うなって思う」
「『丸太』じゃ、だめかしら?」
「あっ……」
素敵な表現だ、そう感じる。存在自体を過剰にほめられている気がして、照れくささに体がもじもじしてしまう。
「なかなかいい名前でしょ?」
「う、うん」
親から引き継いだ飯田の姓と、親が名づけた春子の名前。好きじゃなかったそれはそのままの形で、異世界で意味を持った。
(転生で特別な力はもらえなかったけど、特別な名前だったらもう持ってるんだ)
「なんか、すごく好きになれそう。もともと春子って、春に生まれたからっていう安直なネーミングだったし」
「あら、それはそれで素敵と思うけれど。なん月生まれなの?」
「3月。3月15日生まれだよ。シニッカは素敵に感じてくれるかもだけど、私は『森の恵み』も好きだな」
「それなら命名させなさい、飯田春子。あなたは今から、イーダ・ハルコよ」
命名、とはおおげさなのかも知れないと春子は思った。けれど「新しい人生がはじまる」なんていう一文が頭の中に浮かんできて……。
それは生前にほとんど訪れなかった、将来への希望とか、もっと端的にいえばワクワク感とか、そういうものにあふれている気がした。
だからすぐに、決意したのだ。
「……うん、わかった。私のGiven nameはイーダ」
返答を聞きシニッカの顔がニコリと微笑むのを見た。すごく自然で、やさしくて、その人が魔王なんて肩書を持つことが信じられないくらいだった。
だから細い腕がのびてきてもそれを拒絶しない。指がやさしく額に触れたのも。
「『飯田春子』へ、魔王シニッカより。『イーダ・ハルコ』の名を<我が名を刻め>とする」
――ドクン。
全身を不思議な感覚が包む。それは血管の中に白樺の香りの風が吹き抜けるような、経験したことのないものだった。
決して不快ではなかったが、とまどいもある。白樺の風はやわらかく、やさしいものだったのだけれど、一方の自分はその風とはじめて出会ったのだ。異世界という「外国」で道に迷った自分が、親切な人に道案内してもらっているような気恥しさがあった。その人に手を引かれているようにも。
風が吹き抜けた後、両手の火傷あとがじわりと温かくなる。なにか特別な、つまり地球では経験できなかったことが起こったのだと察したから、シニッカの顔を見て聞く。「今のは?」
「感じたのならよかったわ。あなたには、魔法の才能がある」
「ま、魔法⁉︎ 私が⁉︎」
「現代地球人は、魔法の才能にあふれているのよ? 映画やアニメーション、さまざまな文化で、感覚的に理解しているから」
あっけに取られた。さっき自分と手をつないでいたのは魔法だったのだ。この世界のことをなにも知らない自分の手を引いて「こっちだよ」と語りかけてくれたのだ。
イーダは心にそんな情景を浮かばせながら、しばしぼうっとする。異世界転生という概念が、いよいよ本格的に姿をあらわしていると、強く実感していた。
そんな彼女を現実に戻したのは、やはり異世界の概念たる魔王の言葉。
「さ、それはともかく、そろそろ1回出ましょう。あまり長く入っていると体に悪いし、なにより日本人だったあなたむけの、とびっきりの試練を課さなきゃね」
シニッカがすらっと立ち上がり、出口にむかう。
「し、試練? 試練って?」
とびっきりの試練という言葉に、気が気じゃない。でも魔王様は今日一番の楽しそうな顔で言うのだ。「イーダは日本人でしょ? だから大工さんに頼んで、作ってもらったの」
「な、なにを?」
「水風呂よ」
しばらくの後、王宮へ『死んだ女子高生』の叫び声が響いた。




