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12.新馬戦

 窮屈なゲートの中に体を押し込めると、後ろの扉を閉じられた。

 私の背に乗る小早川孫が緊張していることがわかる。脚に力が入っているから。

 すぅー。

 呼吸を整えて集中する。

 そうすると、もう背の上の人のことなど私の意識から消えてしまった。


 お母さん。見ててね。

 そう思いながらスタート地点に立つのが私のジンクスだった。

 どんな大きな大会でも、どんなにたくさん人がいても、心を落ち着かせることができたの。


 遠くからたくさんの人のざわめきが聞こえる。大きく、小さく、波のように。

 彼らが握るのは欲望。純粋に応援してくれる人はいない。一人も。

 走るのは私。

 私はもう人間じゃないんだ。

 悲しい。


 でもね。


 よーい――

 耳を澄ませば、ほら、聞こえる。

 お母さんの声。

 ――どん


 練習の通り。ゲートが一斉に開いたのがわかった。

 その瞬間、私は一気に駆け出す。

 よし!いいスタート!

 お母さんの声に合わせて走り出せば、いつだって最高のスタートが切れる。


 って、ええええ!?

 まさかの一位スタートなんですけど!

 私、一番先頭を走るの慣れてないから苦手なんだけど大丈夫かな……。ゲームメイクなんてできないよ?

 いっつも誰かの背中を見ながら走って、タイミングを見計らって前に出ていくスタイルだったんだから。

 そんな私の葛藤を知らず、良しっと背中から小早川孫の嬉しそうな声がした。

 おお?そんなに喜ぶってことはなんか策があるの?私に頼ってもダメだよ?

 って思ってたら、少しペースを落とそうとした私に対して、スタート時の勢いを維持するように指示をされちゃった。結構、このスピード速いけど大丈夫?

 私のスタミナ、このままのペースで行ってもつかなぁ。個人的にはもたないと思うんだけど、どっかで一度速度落とすよね?

 この一か月ずっと今日のために1600メートルを走る訓練をしてきたとは言え、練習時はもうちょっと遅めのスピードだったはず。この一週間、あなたとの訓練でもこんなに速い速度で走ったの数えるほどだけど大丈夫?ラストスパートできないと思うよ?

 そんなことを考えていると、他の馬はみんな私の後みたいで、周りからの観客の声がでっかい!

 徐々に後続との距離が開いていくのが分かる。馬の視界は広いから……。


 まだ誰も上がって来ないって、やっぱりこのペース配分おかしくない?

 ほんとにこのまま行っちゃう?私まだ一位?いける?

 ええーもうしかたない!悩んでると色々良くない。とりあえずまっすぐ走れ!

 って思ったら目の前に上り坂!しかも急なヤツ!

 うおおおおおお。脚が!脚が!いたい~きつい~つらい~。

 小早川孫が背中で頑張れ頑張れ言ってるけど、ほんとに辛いの!

 呼吸が乱れてやばい!

 気楽に言いやがって~!!!

 うげーなんとか上り切った!次はすぐに下り?

 よし、ここで勢いを戻して。

 まだ後続は来ない?ほんと?

 緩やかな下り坂で勢いがついたまま第1コーナーに突入。わわわ、ちょっと膨らんじゃう。できるだけ内に入りたいのに~。

 かーらーのー第2コーナー突入~。わわ、もうゴールが!

 もうゴール!このまま突っ切りたい!いける?いや無理~脚が!脚が!限界です!

 でももうここが最後の直線!

 目の前のことに集中しないと。

 緩やかだけど上り坂だ。はぁはぁはぁはぁ、もう限界が近い。いけるかな?

 頑張れ私!

 あんなに坂道訓練したのに、ぜんっぜん足りてない!こんなキツイの!馬のレースって!

 ちょっとまって~。もう無理だよーー。限界ー!

 何度目の限界だー?

 はっ、後ろ!後ろはどうなってる?おいつかれそう?

 わかんない!

 って急な登り坂がーーーーーーーーーーーーーー!

 うわーん!これを上るの?ほんとに?

 絶望!

 ここで小早川孫が鞭をいれてきた!

 くそー!乙女の尻を!

「がんばれ!がんばれ!あとちょっとだ!」

 簡単に言ってくれるよー孫~!!

 四肢に力を籠める。もうほんとヤバい!限界!

 脚が痛い痛い痛い!筋肉切れそう!

 神様仏様お母さん!助けて……。

 あぁやばい頭がぼんやりしてきた。

 あんなにうるさく聞こえてた歓声ももうよくわからない。

 なのに、自分の息遣いだけははっきり聞こえる。

 熱い呼気が喉を通り抜けるたびに、喉の奥がひりつくような感覚がある。

 はっはっ。

 はっはっはっ。

 心臓が痛いくらいに動いてる。

 汗がすごい勢いで流れて行ってる。お風呂に入らなきゃなんて。

 はっはっはっはっ。

 たたたったたたったたたってリズミカルに動いている足音だけが私の心の支え。

 これを繰り返していればいつかはゴールにたどり着くって知ってる。

 だから、辛いとき、規則正しい足音に意識を集中するの。

 あぁ、でも、今回はきつい。

 なんで私は走ってるんだろう。

 走るのなんてやめちゃおう、うんそうだ。そうしよう。

 いや、ゴールするまではなんとか……!

 なんで私今走ってるんだろ……。

 頭が回らないから同じことを繰り返し考えちゃう。

 なんで走ってるんだっけ。

 ほらね。こんな意味無いことを考え出してしまう。

 辛いときはいつもそう思ってしまう。

 なんでって、そりゃー……。

 それでも走るのを止められなかったからだよ。


 なんでだろう。

 はっはっはっはっ。呼吸のリズム。

 なんでかな。

 たたたったたたったたたっ。足が地面を叩くリズム。

 どんどん頭が働かなくなって……。


 空。

 

 目の前には青い空しか見えない。

 綺麗。

 自分の息遣いと心臓の鼓動と、大地を踏みしめる足音で頭の中がいっぱいになる感覚。

 背中をやお腹を伝わる汗の感じさえ、もう気にならない。

 すごく懐かしい。

 すごく。


 私は変わってしまった。

 もう言葉は話せないし通じないし。

 会いたい人にも会えないし。

 何もかも変わっちゃった。

 でも、中身は変わってないの。

 それだけは分かっている。

 今はもう、それだけが私の真実。

 だから。

 がんばるの。

 この気持ちまで無くしてしまったら――



――たったったった

 ほら。聞こえる。リズミカルな足音が。

 私はまだ走れる!

 それにゴールはもう目の前だから。

――たったったったったった

 あぁ。やっぱり走るのは気持ちいい。

 風が汗を吹き飛ばしてくれる。

 この、走っているときの自分がからっぽになるような感じが好きだった。もうそれしか考えられなくて。

 あんなに周りの人のペースや自分の走るペース、レースの進行、集団の位置とかを気にしながら走っていて、どこで仕掛けるかを考えて、ここ一番というタイミングで飛び出すために、機をずっと窺っていたのが、意識の外へ流れ去っていく。

 競技中は、ずっと誰かの背中や横顔を見ながら走っていく窮屈さがある。でも、一度集団から飛び出して先頭にでてしまうと、目の前が一気に開けて、ただ走ってゴールを目指すだけになる。その瞬間、頭の中からうじうじ考えていたことがきれいさっぱりなくなって、透明な自分だけが残るような感覚。


 走るのは私。

 私はもう人間じゃない。

 それは悲しいことだ。


 でも。

 でもね。


 走るのが好きだった。

 馬になっちゃったけど、それでもまたこうして走ることができて、やっぱり私は幸せなんだと思った。

 この青い空と爽やかな風が答えだった。

 そう。覚えてる。私が走る理由。

 走るって本当に素敵だ。

 私はまだ人間なの。


――たったったったっ

 ほら。後ろから誰かの足音が。

――たたたったたたったたたっ

 みんな走ってる。


 ほら。無限に続く気がした上り坂が終わった。

 よし!上り切った!ゴールは目の前!いける!!


 その瞬間。


 ゴールまでもうすぐというときだった。

 誰かが私の横を通り抜けていった。

 風のように。

 一つの影が……。

 この感覚は……。

「あっ……。かげ……さ……?」


 気付くと真っ黒い色の馬が私の真横を走っていた。

 え?

 そう思っている間に、みるみる私を追い抜いて先行していった。

 ダメ。負けちゃう。

 ダメ!

 私の馬鹿!どうしてぼんやりしてたの!

 まだ勝ったって決まってないのに!油断して!

 ダメ!負けちゃう!

 最後のひと踏ん張り。脚に力を込めて!

 追いつかないと!

 耳の奥で鼓動が恐ろしいほど速く脈打つ音がする。

 はっはっはっはっ……。

 あぁ、だめ。

 スピードが上がらない。脚がもう上がらない。頭を下げないといけないのに。

 小早川孫が私の頭をぐいぐい押している。

「がんばれ!がんばれ!」

 小早川孫の声が耳に届いた。すっかり忘れていた。

 けど……。

 笹森さんたちが見てるのに……。




 距離は縮まることはなくて、私は2着になった。

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