22
コートのポケットに両手を突っ込み、マフラーに顔を半分うずめて冷たい夜気の中を早足で歩き続けた。何も考えたくなかった。一刻も早く自分の部屋に戻り、酒をあおって眠ってしまいたかった。
マンションの入り口を抜けると、狭いエントランスホールに置かれたソファベンチに黒いツーリングジャケットを着た航平が座っていた。足と腕をそれぞれ組み、仏頂面でこちらを見据えている。右の頬骨辺りが青っぽい痣になっている。さっき達也の手が当たったところだろう。
ぷいと顔を背け、達也はエレベータのボタンを乱暴に押した。
「あんなふうに逃げだしたら説明ができないだろ?」
背後から航平の不機嫌そうな声が飛んでくる。
「別に逃げだしたわけじゃない。俺には逃げだす理由なんてないよ」
背を向けたまま吐き捨てるように言い返した。
エレベータのドアが開いて乗り込むと、航平も一緒に乗ってきた。五階のボタンを押す。
「バーほっといていいのか?」ドアを睨みながら低く言った。「今日は忙しいんだろ? だから休めないって言ったじゃないか」
「忙しいよ。見ただろ?」
奥に立った航平が同じように低いトーンで返してくる。
「だったら何でここにいるんだよ! さっさと戻れよ!」
目を伏せたまま顔をわずかに後ろに向けて唸るように怒鳴ると、航平は大げさな溜息をついたが何も言わなかった。
むしゃくしゃした気分のままエレベータを降りて自分の部屋に向かい、鍵を開けて中に入る。ドアを開けっ放しにしておくと航平も続いて入ってきた。
玄関に立っているその存在を無視するように達也はマフラーとコートを脱ぎながら洋間に行き、ベッドの上に放り投げた。そしてネクタイを緩めながら電気ヒーターのスイッチを入れ、目を伏せつつキッチンに回って冷蔵庫から缶ビールを取りだす。航平がキッチンを横切って洋間に入る気配があった。
「飲むか?」
顔を背けたまま無愛想に問いかける。
「・・いや、いい」
そう答える航平の声に苛立ちや怒りはもう感じられなかった。
達也は気を静めるように目を閉じて大きく深呼吸をした。それから冷凍庫を開けてアイスパックを取りだし、ベッドのそばに立っている航平に向かってキッチンカウンター越しに放り投げる。航平はすんでのところでそれをキャッチした。
缶ビールのプルタブを開け、キッチンに立ったまま一息に半分ほどあおる。
「・・俺とジュリアは・・」
不意に航平が話し始めたので、達也は口を拭いていた手を止めた。
「由紀さんのパーティで会ったんだ。・・俺が日本に来て、三ヶ月くらい経った頃だった。・・・おまえが偶然俺のバーに来たとき、俺たちはまだ付き合ってた・・」
溜息が聞こえてくる。
「・・でもおまえに再会してからは、・・もうだめだった。・・おまえへの気持ち、抑えられなかった。・・・俺、正直に彼女に言ったよ、他に好きなやつがいるから別れてくれって」
達也はすばやく振り向いた。カウンターの向こうで航平は顔を伏せてベッドに浅く前屈みに腰かけ、アイスパックを頬に当てている。
「別かれたんならなんでその女とまた会うんだよ! なんで一緒に旅行なんかするんだよ! 俺には理解できないよ。あのレイってやつだってそうだったろ? 別れたやつとどうしてそんな関係を続けるんだよ。おまえにその気がなくたって相手はどう思ってるかわからないだろ?!」
じれったい思いで一気に不満をぶちまける。
航平はしばし黙ってからアイスパックを頬から外し、そして足元に視線を落としたまま再び話しだした。
「ジュリアに別れたいって言ったとき、・・彼女、あっさり承知したんだ。・・・ずっとそんな予感がしてたって。・・俺が心の奥で、誰か他の人を求めているのがわかってたって。・・・でも、ひとつお願いがあるって言ったんだ」
「お願い?」つい口から漏れる。
「・・ずっと友達でいてほしいって。・・俺に異存はなかったよ。別に彼女が嫌いになって別れるわけじゃなかったからな」
顔を上げ、遠くを見るような表情で航平は目を細めた。
「向こうで会ったとき彼女、フランス人の恋人と別れたばかりで落ち込んでたんだ。・・別れてから自分がどれほどその男を愛していたか、思い知ったって。・・・その男に会ってちゃんとその気持ち伝えろよって言ったら、・・彼女、怖いって泣きだした。・・そいつがどんな反応するか怖いって。・・・・だから俺、言ったんだ、・・俺がそばまで着いてってやるって。・・約束するって」
そこで自嘲するように軽く笑った。
「俺、あとで知ったんだよ、その男はそのときにはもうパリに帰ってたってことをさ。・・・でも、約束したあとだったからな」
肩の力がすっと抜けるような気がした。それでも彼が昔の恋人と一緒にパリに行ったという事実は変わらないのに、その瞬間そんなことはもうどうでもいいことのように思えていた。
《俺ってほんと、単純だな》心の中で苦笑する。
「レイとは・・」航平の説明は続く。「大学時代に知り合った。・・陽気で、面白いやつでさ、いつもジョークとばしてる」
居酒屋で偶然隣り合わせたあの男の顔が達也の脳裏に蘇る。
「あいつの家はいわゆる上流階級ってやつでさ、・・あいつには親が決めたフィアンセまでいたんだ。・・俺には親に反発しているようなこと言ってたけど、・・実際にはまったく言いなりになってた。・・逆らえなかったんだよ、親にはさ」
カウンターの上に缶ビールを置いてベッドに歩み寄り、そして達也は静かに航平の隣に座った。
「俺が大学四年めの年、あいつはロースクール卒業して、マンハッタンのローファーム、・・法律事務所でインターンとして働き始めた。・・・それから忙しさを理由にあいつは俺とあまり会おうとはしなくなって、・・・そんな状態が半年くらい続いた頃、俺は突然あいつのアパートメントに呼び出された。・・思ったとおり別れ話だったよ。・・でも俺、別にそれであいつを憎んだり嫌ったりはしなかった。・・・親に逆らえないっていうのは俺も同じだったからな」
『愛してたのか?』と訊きかけたとき、不意に航平が顔を向けてきた。
「あの電話、覚えてるか? ずっと前に、おまえが俺のマンションにいたときにかかってきたやつ。・・たしか俺たちがチェスをしてたときだった」
首を傾げてくる航平に達也はしっかりと頷いてみせた。六年前、彼に初めて 『愛している』と言われたあの日だ。
「あれ、レイだったんだ」
そう言ってから航平はまた正面に目を向けた。
「あのときおまえに言ったことは本当だよ。俺たちはあのときにはもう別れてた。・・あの電話をしてきたときはあいつ、少し、・・その、・・ハイになってたんだ。・・・いろいろあったみたいで。・・・ニューヨークに帰ってから偶然会ったとき、照れくさそうに謝ってたよ」
大麻か何かを使用していたということだろうか。内心わずかに動揺したが、達也は平静を装って口をつぐんでいた。
「俺、レイには共感する部分が多くて、・・・そのあとも友達として何度か会ってたんだ。・・恋人同士になる前も結構長い間いい友達だったからな、・・俺たちはまたその状態に戻っただけだった。・・・だから、あいつが結婚する前に半年くらいかけて世界中を旅行するつもりだって話をしたとき、それなら日本に来たら俺んとこ泊まれよって、俺、気軽な気分で言ったんだ。・・・・でもあいつ、いよいよ結婚ってときになって、なんか焦ってたんだと思う。・・まだ俺に未練があったとかじゃないんだよ。・・あいつはもう一度男と寝てみたかっただけなんだ。・・だから・・」
「ごめん、航平」
航平の言葉をさえぎるよう言いながら達也は頭を垂れた。何だか自分がひどく幼稚に思え、無性に情けなくなった。これでは気に入らないことがあると形振りかまわず癇癪を起こす五歳児となんら変わらない。
「・・なんか、とんだ誕生日だったな。・・俺、祝ってやるどころか、おまえに怒鳴り散らしてばっかで、・・おまけにそんな痣まで作ってさ」
すると航平は笑いながら手を回し、肩をぎゅっと抱いてきた。
「いいよ。気にすんな」
「なんか俺、嫉妬ばかりしてるよな」
「ん?」
「おまえはさあ、俺が香織と結婚してるときも、一度も嫉妬なんかしなかったよ」
「・・本当にそう思うのか?」
「え?」
不意に硬くなったその口調に思わずさっと目を戻すと、航平はその端正な顔をどこか悲しげに歪めていた。達也の肩から腕を離し、正面に向き直りながら少し前屈みになって目を伏せる。
「・・彼女の具合が悪くて会えなかったり、・・・おまえたちの結婚記念日で会えなかったり、・・・俺は嫉妬してたよ。・・・普段は考えないようにしてたけど、・・いつもの土曜日におまえと会えないときは、・・・最悪な気分だった」
彼の口から深い吐息が漏れる。
「・・おまえが俺んとこに泊まってたあの週末、・・幸せだった、すごく。・・・でも、その分、おまえが彼女の元に戻っていくとき、・・俺は、・・・俺は、心底彼女が羨ましかった。・・・正直、憎かったよ」
「でもおまえ、・・そんなことひと言も・・」
困惑しながら達也が言うと、航平は苦笑のような笑みを向けてきた。
「言えるわけないだろ? 俺、おまえが結婚しててもかまわないって言ったんだからな、あのとき」
胸が熱くなる。顔を伏せながら航平の肩に額をのせ、シャツの上から彼の胸をまさぐりながら達也は震える息の中で、愛してる、と呟いた。身体中が震えだしそうなほど、息が苦しく感じるほど彼が愛しくて愛しくてたまらなかった。
「俺も、愛してる、達也」航平は優しく髪を撫でてくる。
昂ぶる気持ちを抑えきれずに達也はつと顔を上げ、押し付けるように航平の唇に自分の唇を重ねた。欲情に駆られた達也の手は彼の胸から下腹部へと熱く這い下がっていく。だが航平は制するようにさっとその手を握った。そして唇を離し、息の乱れた達也の耳元で囁く。
「・・俺、もう戻らないと」
もどかしい思いで無意識のうちに苛立ちの溜息を漏らすと、ごめん、という航平のすまなそうな声が聞こえてきた。達也はあわてて頬を緩め、笑い顔を作って彼を見た。
「い、いいって。謝るなよ」
航平はまだ気が咎めているような表情で達也を見ている。
「気にすんなって。・・そうだ、日曜日にここに来いよ。俺、なんか作るよ」
苦し紛れにそんな言葉が口から飛びだしていた。
「・・作るって、・・おまえが料理するってこと?」
半信半疑な航平の様子に、なんか文句あんのか? と思わず口を尖らせる。すると航平は、いや、と真顔で細かく首を振り、それからにっこりと笑った。
「楽しみだ」




