20
翌週の木曜日、仕事中に祥子からメールが着た。今夜会えないかという内容だった。また奢らされるのかと内心ぼやきながらも、『どこで?』と問うと、祥子は『たっちゃんち』と返信してきた。
マンションに着くとすでに祥子がドアの前で待っていた。無言のまま何かを訴えるような目を向けている。約束の七時半を十五分ほど過ぎていたので怒っているのだろう。
「ごめん、遅くなって。ちょっとコンビニに寄ってたんだ。夕食まだだろ? おまえの好きな照り焼きチキン弁当買ってきてやったぞ」
手に持っていた袋を掲げてみせてから、ポケットから鍵を取りだしてドアを開けた。そして、入れよ、と言いながら振り向いた瞬間、祥子の大きな目から涙がこぼれ落ちた。
祥子をベッドに座らせ、達也は悲しげに俯いている彼女と向き合うように床の上で胡坐を組んだ。
「いったいどうしたんだよ。タケイと喧嘩でもしたのか?」
すると祥子は驚いたようにさっと顔を上げた。
「タケイ? ・・ああ、マサト? ううん、マサトとはもう別れた」
「え? いつ」
「もうだいぶ前」
さらりと祥子が言うので、達也は困惑気味に問いかけた。
「・・あいつ、おまえに何かひどいことしたのか?」
「ううん。・・・あたし・・」そう言いながら祥子はまた俯いてしまう。「・・あたし、・・ほかに好きな人ができたの」
一瞬ドキッとした。《・・もしかして、また航平?》
「・・あのね、・・会社の人」
「え? あ、ああ、会社のやつか」
内心ほっと溜息をつく。
「で、そいつと何かあったのか?」
祥子は何も言わない。
「・・告白して、断られたとか?」
達也は祥子が航平に告白したときのことを思い出していた。だが妹は俯いたまま首を振る。
「黙ったままじゃわからないだろ? ちゃんと言ってみろよ」
少々苛立った思いでつい語気を強めると、数秒経ってから、あたしね、という消え入りそうな声が聞こえてきた。
「ん?」
「・・あたし、・・・ニンシンしてるの」
その言葉の意味が一瞬理解できなかった。
「・・おまえが、なんだって?」きょとんとしながら訊き返す。
すると祥子は意を決したように顔を上げ、泣きそうな目で達也を見ながら言った。
「あたし、妊娠してるの。・・今二ヶ月」
その瞬間思考が吹き飛び、え? と口を開いたまま言葉を失った。
「たっちゃん、なんとか言ってよ」
妹の必死な様子に達也ははっと我に返り、瞬きをしてから頭を振った。
「に、妊娠て・・」思わず声が上ずる。「おまえ、相手は誰なんだよ。その、会社のやつか?」
祥子は小さく頷いた。
「そいつは知ってるのか?」
また頷く。
「で、そいつに堕ろせって言われたのか? ひどいこと言われたのか?」
焦れた達也は無意識のうちに身を乗りだし、彼女の両腕を掴んでいた。
「たっちゃん、痛いよ」
泣き出しそうな顔で祥子が言ったので、達也はあわてて手を離した。
「・・ちがう。・・シマヅさんはとっても喜んで、結婚しようって言ってくれた。・・あたし、すごくうれしかったの」
「なんだよ。だったら問題ないじゃないか」
気が抜ける思いで達也は再び胡坐をかいて座り込んだ。
「シマヅさん、お父さんに会いたいって言ってるの」
怪訝に思いながら、だから? と眉をひそめて問うと、祥子はまた顔を伏せた。その頬に涙が流れ落ちる。
「・・たっちゃん、あたし、怖い・・」
肩を震わせながら泣き声で言う。
「お父さんの反応が怖い。・・あたしたち付き合ってまだ四ヶ月しか経ってないのに、あたし妊娠しちゃって、・・お父さんはきっとすごく怒ると思う。・・・あたし、・・言えない。・・お父さんに・・言えないよ・・」
泣きじゃくる妹を見つめているうちに、達也の胸は彼女への同情と哀れみでいっぱいになってくる。父がどれほど厳しいか達也もよく知っている。祥子の不安な思いが痛いほど理解できた。
深呼吸をしてからいったん立ち上がり、達也は妹の隣に座り直した。そして慰めるように彼女の背中をさすりながら、優しい口調を意識して問いかける。
「おまえはそのシマヅってやつのこと、愛してるのか?」
「うん、愛してる。・・あたしシマヅさんと・・一緒にいると・・すごく安心する」祥子はしゃくりあげながら言う。「シマヅさん、・・優しくて、・・いつもあたしを・・大切にして・・くれる」
身を屈めて床からティッシュペーパーの箱を拾い上げ、達也はそれを祥子の前に差しだした。
「だったら、勇気をだして言うしかないだろ?」
すると祥子はさっと顔を上げ、悲痛な表情で達也を見た。目も鼻も真っ赤だ。
髪をくしゃくしゃと撫でてから、達也は真剣な眼差しで彼女の顔を覗き込んだ。
「おまえが自分で父さんに言うんだ、その人を愛してるってこと。・・その人と幸せになりたいってこと。・・それで父さんに認めてもらうんだよ。・・俺が代わりに言ってやることはできない。おまえが自分で言うしかないんだ。・・父さん、きっと分かってくれるよ」
祥子にそう言い聞かせながら、達也は航平のことを考えていた。自分たちの関係が認められることは一生ないだろう。
祥子は切なげに達也を見つめたまま黙っていたが、やがて目を伏せながら、そうだね、と小さく呟いた。
「・・たっちゃんも・・」
「え?」
達也が首を傾げると、彼女は、なんでもない、とかぶりを振りながらティッシュペーパーに手を伸ばした。
日曜日の夜、航平のマンションから帰る途中に祥子から電話があった。
妊娠のことを知ると父は予想通り怒り狂ったそうだ。だが祥子はひるまずに訴え続けた。『あたしはシマヅさんを愛しています。彼と一緒に幸せになりたいんです』と。父は最終的には折れ、『身体を大事にしろよ』と言ったらしい。今日シマヅが実家を訪れ、『祥子さんをください』と土下座したとき、父は怒るどころか『ふつつかな娘ですが、よろしくお願いします』と逆に頭を下げたそうだ。
祥子はひとしきりしゃべりまくったあと、『たっちゃん・・』と不意に涙声になって言った。『・・ありがとう。・・ありがとう』
そして祥子の腹が大きくなる前にと、結婚式の日取りは三月一週目の日曜日に決まった。




