第1話『ありふれた日常にさよならを』
放課後、いつも通りの茜色に染まる其成第一高等学校の校門をくぐりながら、三人はあぜ道を歩いていた。
「ねぇ、ちょっと商店街の方寄り道してかない?」
バッグの紐を両手でギュッと握りしめ、くるりと振り返って提案したのは剣持このみだ。
『商店街!おれ、行きたい!昨日、新しいパンのお店、できた。ニュースで、見た!』
真っ先に食いついたのは荒河燐。大柄な体を弾ませ、まるでしっぽを振る犬のように目を輝かせている。
「流石リンリン!食べ物に関しては情報早いねぇ~。シマはどうする?」
このみがクスクスと笑いながら、一歩後ろを怠そうに歩く少年――嶋佐波音に視線を投げた。
波音は耳から片方のイヤホンを外すと、心底うっとうしそうに眉間へシワを寄せた。
「お前らさぁ……先公から寄り道すんなって言われたの忘れたのか?」
「うー、シマって本当変な所で真面目なんだから」
「そもそも誘われたって行けねえよ。帰ったらダチとサイファーの約束取り付けてんだ」
波音はこの街のストリートで知られた高校生ラッパーだ。アンダーグラウンドな熱量に身を投じる彼の言葉には、どこか冷めた大人ぶった響きが混ざる。
「また悪そうなオトモダチと、ねぇ。私達とソイツら、どっちが大事なの?」
このみが冗談めかしく突っかかった、その瞬間だった。
――バリィンッ!!
世界が裂けるような、鋭い高音が有降タウンの空に響き渡った。
ガラスが粉々に砕け散るような異様な破壊音。通りを行き交う人々が一斉に足を止め、呆然と上空を見上げる。
「……な、んだ……これ……?」
波音の口から、呟きが漏れた。
空だ。青と茜色が混ざり合う見慣れた有降タウンの空に、まるで巨大な窓ガラスにハンマーを叩きつけたかのような、巨大な亀裂が入っていた。
亀裂は蜘蛛の巣状に広がり、やがて音を立てて崩落する。空の向こう側に広がっていたのは、深い紫色の渦と、異様な圧迫感を放つ異空間。
その異空間から、それは這い出てきた。
ぬらりとした皮膜に覆われた無数の脚、歪んだ巨躯、人間を捕食するためにあつらえられたかのような歪な顎。これまで見たどんな生き物とも、どんなフィクションとも異なる怪物――異世界のモンスターだった。
「ひっ……う、嘘だろ……!?」
「キャーッ!!助けて!!」
静まり返っていた街が、一瞬にして悲鳴と狂騒の渦へと叩き落とされる。逃げ惑う人々、重なり合う怒号、路上に放置されクラクションを鳴らし続ける車。
ほんの数秒前までそこにあった「ありふれた日常」が、呆気なく崩れ去っていく。
「おい、逃げるぞ二人とも――」
波音が二人を振り返り、叫ぼうとした。しかし、言葉は途中で途切れる。
モンスターの一頭が、逃げ遅れた子供を目掛けてその巨大な爪を振り上げていた。
「――っ!」
息を呑む燐。顔を蒼白にする波音。
その中で、一人だけ動いた者がいた。
「……逃がさない」
小さく、だがどこまでもまっすぐな声で、このみはそう言った。
考えるよりも先に動いていた。逃げ遅れた子供に襲い掛かるモンスター目掛け、鞄を投げ捨てて駆け出す。彼女の瞳に宿っていたのは、恐怖ではなく、ずっと胸の奥底で燻り続けていた「何か」の芽生えだった。
「離れなさい!」
凛とした叫びが、悲鳴とクラクションの交差する街頭に響き渡る。
このみは小中とあらゆる武術系の習い事や部活動をしていた。空手、柔道、合気道、剣道――そのすべては、幼い頃に画面の向こうで輝いていた"憧れのヒーロー"になる為。単なる習い事の域を超え、持ち前の類まれなるセンスと血のにじむような練修を重ねた彼女は、各部門の全国大会で優勝をさらうほどの圧倒的な実績を積み上げた実力者だった。しかし、進学した其成第一高等学校には武術系・格闘系の部活が一切存在せず、情熱の行き場を失った彼女は致し方なしに帰宅部に収まっていた。
抑え込まれていたその超人的な体術が、今、最悪の災厄を前にして解放される。
地を蹴る踏み込みの一歩でアスファルトが小さく砕け散る。うねる蛇のような異形のアームを振り下ろそうとしていたモンスターの懐へ、このみは目にも留まらぬ踏み込みで潜り込んだ。がら空きの脇腹に渾身の一打を食らわせる。衝撃波が異形の肉体を突き抜け、背面の皮膜が大きく隆起した。体勢を大きく崩し、苦悶の声を漏らすモンスター。だが、このみの攻撃はそれだけで終わらない。彼女の動きに迷いや躊躇は一切なかった。流れるような足さばきで軸足を切り込み、モンスターの太い前腕を絡め取り、巨体相手を諸共しない、美しい一本背負いが炸裂する。遠心力と相手の自重、そして自らの体幹のバネを極限まで連動させた完璧な投擲。数メートルはある巨軀が美しい弧を描いて宙を舞い、次の瞬間、激しい破砕音とともにアスファルト舗装の地面へ叩きつけられた。
地響きが起き、道路に放射状の亀裂が走る。首の骨を折られ、ピクピクと痙攣した後に動かなくなったモンスター。すると、その不気味な身体はまるで最初から存在しなかったかのように、細かな青い光の粒子となって空気中へ弾け、消滅した。舞い散る青い光の残滓の中で、このみはゆっくりと息を整え、膝を突いて震えていた幼い少女の前にかがみ込んだ。殺気立った気迫は綺麗に消え去り、そこにあるのはいつもの明るい笑顔だ。
「もう大丈夫だよ」
このみは優しく微笑んで子供に手を差し出した。
その背後では、呆然と立ち尽くす波音と燐の姿があった。手にしていたイヤホンを落としたことすら気づかず、波音は喉を乾いた音で鳴らす。
「マジかよ……あいつ、あんな化物相手に……素手でやりやがった……」
『すっごい……! このみちゃん、ほんとうにヒーローみたいだ……!』
燐は目を丸くし、畏怖と感動が入り混じった声を漏らした。だが、二人が歓声を上げる間もなく、空の亀裂はさらに大きく不気味な音を立てて広がり始めていた。青い光となって消えたモンスターは、ほんの前触れに過ぎない。歪んだ紫色の穴からは、先ほどよりも一回りも二回りも巨大な影が、次々とその蠢く触手や鋭い爪を覗かせつつあった。
「お兄ちゃん、助けて……!」
助け出された子供がこのみのスカートの裾をぎゅっと掴む。このみは立ち上がり、ゆっくりと視線を空へ向けた。手応えはあった。自分の鍛え上げてきた拳と技は、この異世界の脅威にも通用する。
「シマ! リンリン! 子供たちを連れて安全なビルの中に逃げて!」
このみは振り返ることなく、再び拳を固く握りしめた。
「ここは……私が食い止める!」
「おい、正気かコノ! 相手は一頭じゃねえんだぞ! いくらお前が強くたって――」
波音の制止を振り切るように、新たな二頭のモンスターが橋の上から飛び降りてきた。衝撃で街灯が倒れ、炎と煙が上がる。有降タウンの平穏だった街並みは、刻一刻と戦場へと姿を変えていく。
波音の制止も聞かず駆け出したこのみの背中を見送るしか出来ない男二人。その足は、目前で繰り広げられた異次元の暴力と奇跡のような戦いにすっかり縫い止められていた。涙で濡れた顔で波音の手をぎゅっと握りしめ、不安そうに顔を見上げてくる子供。その小さな手から伝わる震えを受け止めた瞬間、波音の頭の中に直接、キンと甲高い悲鳴のような声が響き渡った。
(どこなの……!? どこに居るの、私のあの子……っ!!)
脳の奥を直接揺さぶる、狂おしいほどの焦燥と愛着。それは、崩壊する街のどこかで我が子を探し回っているであろう、この子の母親の思念だった。
――波音は、いわゆる「超能力者」だ。
それも、他者の思考や感情の波長をダイレクトに受信し、時に干渉すらできてしまう類の能力。
他人の心の声が、雑音のように四六時中頭の中に流れ込んでくる。優しさの裏に隠された醜い嫉妬も、笑顔の仮面の下にある冷めた本音も、彼にとっては隠しようのない事実として突きつけられてきた。そしてその力は受動的なだけではない。彼が強い感情を乗せて言葉を紡げば、その声は波となって相手の精神をダイレクトに揺らす。だからこそ、彼は普段から有線イヤホンを耳に突っ込んで外部の思念を遮断し、吐き出す言葉からは意識的に感情を削ぎ落としていた。人と深く関わらず、どこか冷めた「嫌な奴」を演じることが、己の力と他者を守るための防壁だったのだ。
だが、今はそんな予防線すら生ぬるい。
波音は小さく息を吐くと、子供の目の高さまで膝を折ってしゃがみ込んだ。イヤホンを外したままの耳に、街の悲鳴と異形の咆哮が容赦なく突き刺さる。それを無視し、小さな頭にそっと手を置いた。心の中で――純粋に、この恐怖に震える小さな命を"安心させたい"と、強く強く感情を込める。
「大丈夫だ、お前の母さんは近くにいる。それにオレ達がお前を守ってやる。だから泣くな」
波音の口から漏れた言葉は、彼自身の意識を超えて、温かく力強い波動となって子供の精神を優しく包み込んだ。頭を殴られたような激しいパニックが瞬時に引き波のように引き、幼子の瞳から恐怖の色が和らいでいく。女の子は袖口でポロポロとこぼれる涙を拭うと、しっかりと頷いた。
「うん……!」
波音は子供に視線を向けたまま、隣で戸惑う大柄な少年に向かって低く、短く言い放つ。
「荒河、オレはこいつを母親の所へ送り届ける。お前はコノに加勢しろ」
『えっ、でも、シマ君……』
燐は困惑したように目を泳がせた。燐自身、このみの圧倒的な体術を知ってはいるが、押し寄せるモンスターの群れはあまりに異常だ。そして何より、普段は「面倒くさがりで、何事からも一歩引いている」はずの波音が見せた、見たこともない真剣な眼差しに気押されていた。
「良いから行ってやれ!」
波音の叫びには、隠しきれない熱と能力の余波が混ざっていた。その声の響きに背中を押されるように、燐の大きな体がビクッと跳ねる。
『……わかった! 』
燐は力強く頷くと、大柄な体を揺らし、青い粒子と煙が上がる激戦の渦中――ひとり立ち向かうこのみの元へ向かって、猛然と走り出した。
「さて……行くぞ」
波音は子供を抱き上げると、頭の中に響く母親の悲痛な「声」の波長を頼りに、瓦礫の山となったストリートを駆け出した。自分の内側で眠っていた不気味で忌々しいはずの力が、今、この無秩序な地獄の中で誰かを救うための唯一の道標になっていた。
このみがモンスターたちと相対する最前線まで走る中で、燐は考えていた。
加勢できないわけじゃない、燐も、あのモンスターと戦うだけの力量は持ち合わせている。持ち合わせているのだが、それは安易に見せられるものでは無かった。
荒河燐―――その真名は"蟒蛇のアルグ"。
遥か地の底、魔界より、人間の住む地上世界の支配の為の視察団の一人としてやって来た、正真正銘の悪魔である。地を揺らし、力を喰らう巨大な蛇――それこそが燐の本来の姿であり、地上世界の事を知る為に人間の高校生のフリをして潜伏していたのだ。
だが、この地上世界と言うのは、悪魔である彼から見てもあまりに魅力的すぎた。特に燐は、人類が生み出した膨大な"食文化"に心を奪われた。安易に魔界の手に堕とすにはあまりに惜しい、この愛すべき豊かな食文化と街を守りたいと、彼は次第に強く思う様になっていたのだ。
『コノちゃん、おれも、手伝う!』
巨体を揺らして駆けつける燐に、戦いの渦中にいたこのみが驚愕の声を上げる。
「リンリン!?危ないよ、逃げて!」
『おれ、逃げない、戦える!』
燐は覚悟を決めた。このみの目の前で、隠していた悪魔としての力の一部を解き放つ。
グラグラと地が鳴り響き、アスファルトを突き破って巨大な土壁がせり出した。モンスターの行く手を阻む強固な盾。しかし、激しく暴れるモンスターの極太な腕が一閃すると、その土壁はいとも容易く粉砕されてしまった。
(ダメだ、強い…!)
本気を出せばひとたまりもないが、正体を隠したままで出力できる限界の力では押し切れない。燐は思わず一歩後退った。そこに、迷いなく割り込んできたのがこのみだった。
「余計に体力を使わせて削る作戦?それもいいけどさ…」
砕けた土壁の破片が舞い散る中、彼女は次の技の構えを取ると、ニッと不敵に笑う。
「私……短期決戦派なの」
腕を振り上げて襲い掛かるモンスターの懐へ極限まで潜り込み、その歪んだ顎目掛け、このみは渾身のアッパーを見舞った。衝撃で跳ね上がるモンスターの頭部。だが、凄まじい生命力を誇るモンスターは、顎を打たれて脳揺れを起こしながらも、足掻くように無数の触腕をこのみへ向かって嗾ける。
『させない!!』
燐が地面へ力強く拳を打ちつける。地中から隆起した先の鋭利な岩の柱が、空を切り裂いて襲い掛かる触腕をことごとく貫き、縫い止めた。隙は完璧に生まれた。このみは軸足を鋭く旋回させ、無防備になったモンスターの喉元へ殺傷能力の固まりのような追撃の蹴りを叩き込む。完璧な連携のもと、ついに最後の一体が青い光の粒子となって砕け散り、消滅した。
荒い息を吐きながら、このみは拳を下ろして燐をまじまじと見つめた。
「リンリン…あんた、只者じゃないって思ってたけど、まさか"魔法使い"だったとはね」
("悪魔"って、バレなかった、でも……その解釈、後々面倒、なりそう……)
燐は滝のような冷や汗を流しながら、苦笑いを浮かべて誤魔化すしかない。
『ま、まぁ…そんなとこ』
「魔法使いなのは凄いけどさ、よりによっていわ・じめんタイプとか……地味にも程あるでしょ」
『地味で、悪かったな…このかくとうタイプ人間!!』
そんな他愛もない小競り合いを繰り広げているところへ、子供を無事母親のもとに送り届けた波音が、ポケットに手を入れたまま怠そうに戻って来た。
「騒がしい小競り合いが聞こえると思ったら…この感じだと終わったみてぇだな」
「遅かったじゃん、無愛想エスパータイプ。私達の最高の雄姿を見られなくて残念ね♪」
「悔しかねーわ、ゴリラ女!ったく……早く帰るぞ」
やれやれと肩をすくめる波音に、べーっと舌を出すこのみ、そして不満そうに鼻を鳴らす燐。
崩れかけた路上で繰り広げられるいつもの軽口。空の裂け目からは未だ不気味な紫色の歪みが覗いていたが、三人は何事もなかったかのように、いつも通りの夕暮れの帰路へ戻っていく。
武術を極めた「格闘」の少女。
食を愛する土の「悪魔」。
心を読み声を響かせる「超能力者」。
噛み合わないはずの三人が交差したこの放課後の出来事が、これから有降タウンに迫る大いなる混沌の、ほんの序章に過ぎない事を――今の彼女たちはまだ知らない。




