第七百十二話・公家の川下り
Side:周防の忍び衆
嫌な感じだ。船の船頭は裏切らぬように銭を多めに渡して言い含めてある。裏切れば命はないとな。一向宗の僧が申したことだ。裏切らぬとは思うが。
とはいえ大内家の騒動はすでに陶隆房の独断での謀叛ではないのだ。陶と対立しておる者ですら止めようとせぬほど。なにが起きても驚きはない。
僧兵たちも険しい顔つきで周囲を見ておる。どこに敵が潜んでおってもおかしくないのだ。
この先、厄介なのは関所だ。止まらねばなにをされるかわからぬが、関所の者が敵だった場合は止まると一気に危うくなる。陶は西国一の侍大将と呼ばれる男。油断など出来る相手ではない。
皆、無言だ。中には山口の町の方角を名残惜しそうに見つめる者はおるがな。それは我も少しわかる。お園は無事に船までたどり着いたであろうか?
「おおっ、無事であったか!」
そのまま何事もなく川を下っておる途中で、川を上る舟とすれ違うと驚かされた。旅の僧の姿をした者に突然声を掛けられて何者だと怪しんでしまったが、正体は上忍とも言える者だった。
久遠家では影の衆などと呼ばれておるほどの手練れだ。
「これで終いでございます」
「そうか。油断するな。陶隆房の城では家臣が腹を切って自害したと騒ぎになっておる。こちらの動きを予測するやもしれぬのだ」
殿下や本願寺の僧兵たちも最初は敵かと思ったようであったが、味方だと知るとホッとしておられる。舟を寄せてこちらのことを伝えると、三好水軍が到着したことを教えられて殿下を筆頭に皆が喜びの声を上げた。
ただ上忍は、どこかで待ち伏せされておるかもしれぬということを懸念しておられる。
「海だ!」
早く、もっと早くと焦る気持ちを抑えつつ川を下ると、海と町が見えた。秋穂だ。遠くに見える黒い南蛮船に助かったという思いが過った。
「敵襲だ!!」
あと少しというところで、心の臓を鷲掴みにされるような声と共に悲鳴が聞こえた。複数の川舟に乗った牢人どもに気付いた、先頭の船に乗っておる僧兵が声を上げたのだ。
待ち伏せだ。槍や刀を抜いておる姿はただの通りすがりの者でないとわかるほど。
お公家様の悲鳴ばかりが聞こえてくる。船の上でこれだけ戦えぬ者がいては如何ともしようがない。
「狼狽えるでない! 身を屈めておれ!」
上忍が乗る川舟を急がせて敵と戦おうとする中、殿下の一喝する声でお公家様方がやや大人しくなり身を屈められた。
お公家様であっても殿下ほどとなると違うということか。
「無理に戦うでない! 押し通れ!」
殿下の指示で我らと僧兵は敵の乗る川舟と対峙する。厄介なのは相手に弓を持つ者がおることか。ただの賊ではないと言うておるようなものではないか!
「殿下、危のうございます!」
守らねばならん。この身を盾にしても。殿下ご自身は身を屈めるおつもりがないご様子なのだ。
あと少し、あと少しというところで……。
せめて槍があれば……。そう思った時、少し懐かしい音が響いて鳥たちが飛び立った。
そう、尾張ではよく聞いた音だ。高価な玉薬を毎日使い、訓練した音。鉄砲の音だ。
「鉄砲だと!!」
「何処のどいつだ!!」
間近に迫っておる敵は数人が鉄砲の玉に当たったようで川に落ちると混乱し始めた。
僧兵だった。数十、いや、百はおるか。しかも十から二十の鉄砲で敵を撃ったのだ。
「そのままだ! 止まるんじゃないよ!!」
僧兵の中から聞こえた声に思わず身震いすると同時に笑みが零れてしまった。
何度、お叱りを受けただろうか。勝つのではない。生きて戻ることこそ第一と心得よと教え導いてくださった御方の声だ。
鉄砲に続き矢が飛んでくると、敵に次から次へと命中していく。敵は数十はおるようだが、動けぬ舟の上では的でしかない。
「女じゃと……くっくっく……」
殿下はその声に驚きながらも素性を悟ったようで笑い出された。一声で我らを安堵させたばかりか殿下までも安堵させるとは。
我の舟も殿下を守りながら敵の川舟を抜かすように通り過ぎていく。敵はこちらなど相手をしている余裕がなく、すでに多くの者は弓を恐れて川に飛び込んでおった。我らはそれを見ながら通り過ぎてゆく。
我らと助けに入った僧たちはそのまま秋穂の町に逃げ込んだ。第二第三の賊がいてもおかしくないのだ。
幸いなことに僧兵に怪我人が僅かに出た程度で皆が無事だった。
Side:安宅冬康
「安宅殿、退くよ!」
男装した今巴の方の声に、わしは兵たちを引き連れて秋穂の町に撤退した。僧兵に扮した兵たちと共に。大半は三好家の兵だ。織田は二十人ほどか。鉄砲は織田が持っておった代物で我らの鉄砲より優れておるように思える。
僧兵の着物も武衛様が本願寺より頂いたものだとか。我らはそれを借り受けて着替えて上陸して迎えに来たに過ぎん。すべてが織田の策ということがいささか気になるが、ここは武功を競うべき時ではない。
しかし見事であったな。見知らぬ土地で話を聞いただけで敵の位置を大まかに見抜いてしまうとは。
今巴という名は少し大人し過ぎるのやもしれん。
「では、直ちに出立いたしまする。今ならばちょうどよい潮でございますれば」
秋穂の湊に着いた近衛太閤殿下は、怯える公家衆を落ち着かせるとすぐに出立したいと仰せになった。
荷をすべて置いてゆかれるとは。確かにこれだけの公家衆を襲うようなところにはおられまい。陶隆房が兵を上げて数で攻められるとこちらも逃げるしかなくなるが、潮の流れ次第では窮地となる。
村上水軍とは話が付いておるが、この辺りは我らもよく知らぬところ。少数でも陶隆房に加担して船を出せば厄介なことになる。
まさか一泊もせずに戻ることになるとは思わなかったが、ここに留まることは危うい。
「今巴よ。世話になったな。この礼は日を改めて致す。吾は三好と共に瀬戸内を戻る。追手が掛かるまいが、他の者らを連れ帰らねばならぬからの」
「はい。道中のご無事をお祈り申し上げます。こちらはもう一晩、ここで陶を押さえておきましょう」
「あいわかった。あとは頼む」
公家衆を船に乗せつつ急ぎ出航の支度をする中、近衛太閤殿下は今巴の方と別れの挨拶を交わしておった。
まさか太閤殿下ほどの御方が、南蛮人とこれほど親しげに話すとは。
織田の南蛮船は陶が追っ手を出さぬようにここで別れか。まさかそこまでするとはな。
「今巴の方、では我らは……」
「あとはお願いします」
「ああ、任せよ」
最後にわしも今巴の方と別れの挨拶を交わす。話したことすら僅かであるが、共に戦ったことでなによりも理解出来た気もする。
ここで命を懸けて殿をというほど悲壮な別れではない。南蛮船だけならば万が一戦になっても勝算があるのだ。
足手まといになる公家さえいなくば、逃げることも戦うことも容易いはずだ。
湊がいささか騒がしくなったのを見ながらわしは船を出した。
陶隆房め。朝敵にでもなる気か? 西国一の侍大将とは笑わせる。
斯波武衛家か。織田と久遠という力を得ていかがするのであろうな? 敵とならねばよいが。














