第9話 土下座の価値
第9話 土下座の価値
十二月の東京は冷たかった。
神楽坂商事の新オフィスの窓からは、冬晴れの青空が見えている。
半年前とはまるで違う景色だった。
社員は二十名を超えた。
オフィスも三倍の広さになった。
観葉植物が並び、ガラス張りの会議室には活気があった。
キーボードの音。
電話の声。
笑い声。
会社が生きている音だった。
神楽坂恵流沙は社長室で資料に目を通していた。
コーヒーの香ばしい香りが漂う。
机の上には地方メーカーとの新規提携契約。
その横には父が残した黒いファイル。
神楽坂グループ倒産の真相を追う調査も続いていた。
その時だった。
コンコン。
ドアがノックされる。
「どうぞ」
真奈が入ってきた。
しかし様子がおかしい。
「社長」
「どうしたの?」
「お客様です」
「アポイントは?」
「ありません」
「なら後日に」
「それが……」
真奈が言いにくそうに口を開く。
「御子柴竜臣さんです」
空気が変わった。
恵流沙は数秒間黙った。
冬の日差しが机を照らしている。
だが部屋の温度が下がったように感じた。
「何の用かしら」
「会いたいそうです」
「断って」
「断りました」
「それで?」
「帰りません」
恵流沙は小さくため息をついた。
「分かった」
窓の外を見る。
灰色のビル群。
忙しく行き交う人々。
あの日から一年も経っていない。
婚約破棄された夜が遠い昔のようだった。
「通して」
十分後。
応接室。
御子柴竜臣は一人で座っていた。
その姿を見た瞬間、恵流沙は少し驚いた。
やつれている。
頬はこけている。
高級スーツは着ているが、以前の余裕は消えていた。
髪にも疲労が見える。
別人のようだった。
竜臣が立ち上がる。
「恵流沙」
「お久しぶりです」
敬語だった。
それだけで状況が伝わる。
恵流沙は向かいに座った。
紅茶の香りが漂う。
静かな時間が流れる。
先に口を開いたのは竜臣だった。
「会社が順調らしいな」
「おかげさまで」
「ニュースで見た」
「そうですか」
「大手との提携も決まったそうだな」
「ええ」
短いやり取り。
他人同士の会話だった。
かつて結婚を約束した二人とは思えない。
竜臣が俯く。
指が震えている。
そして。
「謝りたい」
その一言だった。
恵流沙は黙っていた。
「悪かった」
竜臣は続ける。
「あの時は本当に……」
「どの時ですか?」
静かな声だった。
竜臣が言葉に詰まる。
「婚約破棄した時かしら」
「……」
「それとも私の会社に圧力をかけた時?」
竜臣の顔色が変わる。
「知っていたのか」
「当然です」
恵流沙は紅茶を口に運んだ。
アールグレイの香りが広がる。
「証拠もあります」
竜臣は何も言えなかった。
しばらく沈黙が続く。
やがて彼は立ち上がった。
そして。
床に膝をついた。
恵流沙は瞬きをした。
さらに。
額が床につく。
土下座だった。
「頼む」
掠れた声。
「助けてくれ」
冬の陽射しが応接室を照らしている。
その光の中で、かつて自信満々だった男が頭を下げていた。
「うちの会社は終わりなんだ」
声が震えている。
「銀行も融資してくれない」
「そうですか」
「主要取引先も離れた」
「大変ですね」
「笑うな」
「笑っていません」
恵流沙は本当に笑っていなかった。
むしろ驚くほど冷静だった。
怒りもない。
憎しみもない。
ただ分析している。
MBAで染み付いた癖だった。
竜臣が顔を上げる。
「もう一度やり直したい」
「何を?」
「俺たちを」
静寂。
遠くでコピー機の音が聞こえた。
社員たちの笑い声も聞こえる。
今の恵流沙の世界だった。
竜臣の世界ではない。
「恵流沙」
竜臣は必死だった。
「俺は間違っていた」
「そうですね」
「今なら分かる」
「そうですか」
「お前が必要なんだ」
恵流沙はしばらく黙っていた。
そして静かに尋ねる。
「理由は?」
「え?」
「私が必要な理由です」
竜臣が言葉に詰まる。
「それは……」
「好きだから?」
「もちろんだ」
「嘘ですね」
即答だった。
竜臣が固まる。
恵流沙は微笑む。
「好きなら婚約破棄しません」
「……」
「好きなら会社に圧力もかけません」
「……」
「好きなら倒産した瞬間に逃げません」
言葉は静かだった。
だが鋭かった。
竜臣は何も返せない。
恵流沙は続ける。
「あなたが欲しいのは私じゃない」
「違う」
「私の経営能力です」
図星だった。
竜臣の顔が歪む。
恵流沙は立ち上がった。
窓の外に視線を向ける。
冬の光が街を照らしている。
社員たちが働いている。
仲間がいる。
未来がある。
それは彼女自身が作った世界だった。
「恵流沙」
竜臣が最後の希望に縋るように呼ぶ。
「頼む」
恵流沙は振り返った。
そして穏やかに笑った。
「御子柴さん」
「……」
「私は経営者です」
竜臣の肩が震える。
「だから感情では判断しません」
机の上の資料を手に取る。
「費用対効果」
その言葉が静かに響いた。
「え?」
「あなたを雇用する価値」
「……」
「復縁する価値」
「……」
「共同経営する価値」
一つ一つ区切るように言う。
そして最後に。
「費用対効果が見合いません」
沈黙。
長い沈黙。
竜臣は動かなかった。
やがて。
ゆっくり立ち上がる。
その顔は敗者の顔だった。
「そうか」
「はい」
「終わりか」
「最初から終わっていました」
竜臣は笑った。
寂しそうな笑顔だった。
そして何も言わず部屋を出ていく。
ドアが閉まる。
静寂。
恵流沙は窓の外を見た。
不思議と何も感じなかった。
勝ったとも思わない。
ざまあとも思わない。
ただ。
一つだけ確かなことがあった。
あの日、彼女は捨てられた。
そして今日。
彼女は自分自身の力で立っている。
誰にも頼らず。
誰にも媚びず。
自分の足で。
冬空は高く澄んでいた。
神楽坂恵流沙は静かに微笑む。
過去は終わった。
未来だけが、彼女の前に広がっていた。




