第一章 16話 悪女の末路に二重線を
「私は、イリス様が毒を命じたところを、見ていません」
フィリアの声が、広場の上に落ちた。
最初に消えたのは、罵声だった。次に、誰かが吸い込んだ息の音が聞こえた。あれだけ膨れ上がっていた広場の熱が、一瞬だけ行き場を失う。民衆の視線が、処刑台の上にいるイリスから、白い衣をまとった聖女へと移った。
俺は神官兵に両腕を押さえられたまま、膝をついていた。
木の板が、膝に固く当たっている。背中にかけられた手は乱暴で、少しでも動けば肩の骨が軋みそうだった。それでも、俺はフィリアから目を離せなかった。
彼女の喉元に、黒い文字が絡みついていた。
祈れ。
赦せ。
悪女を、悪女のまま赦せ。
聖女は裁きを乱すな。
俺にしか見えていないはずの黒い文が、白い首飾りのようにフィリアの喉を締めている。文字は細く、濡れた髪のように張りつき、彼女が息を吸うたびに震えた。
フィリアはまだ立っていた。
けれど、それは強さだけで立っている姿ではなかった。指先は白くなるほど組まれ、唇は震えている。聖女の衣は夕方の光を受けて淡く輝いているのに、その下にいる少女は、今にも崩れそうだった。
広場の沈黙は長く続かなかった。
「見ていない、とは……どういう意味だ」
誰かが言った。
「聖女様は、悪女をお庇いになっているのか」
「お優しいからだ。あんな女にまで情けを」
「だが、罪が消えたわけではないだろう」
ざわめきが戻ってくる。
早い。
あまりにも早い。
フィリアがやっと口にした言葉が、広場の中で別の形に変えられていく。証言ではなく、慈悲に。事実ではなく、美談に。悪女を裁く場で、聖女がなおも罪人を赦そうとしている、という話に。
嫌な汗が背中を伝った。
違う。
それじゃ、何も変わらない。
イリスは「無実かもしれない人間」ではなく、「聖女に赦された悪女」になるだけだ。
「皆様」
柔らかい声が、ざわめきの上に置かれた。
火傷跡の司祭だった。
片目の下から頬にかけて、焼けた皮膚が引きつれている。南区の白鳩施療院で見た時と同じ、穏やかそうな顔。その穏やかさが、今は吐き気がするほど薄気味悪かった。
司祭は一歩前へ出ると、広場に向かって深く頭を下げた。
「聖女フィリア様の御心は、我ら凡俗には測りきれぬほど深いものでございます。たとえ御身を害されかけたとしても、なお罪人を憐れむ。その慈悲こそ、聖女様が聖女様たる所以でございましょう」
民衆のざわめきが、少しずつ同じ色に染まっていく。
「そうだ」
「聖女様はお優しい」
「だからこそ、裁きは我らが見届けねばならない」
司祭は顔を上げた。目だけが笑っていなかった。
「されど、慈悲と裁きは別でございます。聖女様が罪人を憐れまれることと、罪人の罪が消えることは、同じではございません」
フィリアの肩が小さく揺れた。
黒い文字が、彼女の喉元で太くなる。
悪女を赦せ。
裁きは乱すな。
祈れ。
泣け。
聖女であれ。
俺の奥歯が鳴った。
こいつは、言葉を殺している。
フィリアが命懸けで出した声を、祈りに変えている。証言を、聖女らしさの中へ押し込めている。
「殿下」
司祭は今度、王子へ向き直った。
「聖女様は長き審理と御心労により、大変お疲れであらせられます。これ以上のお問いは、御身に障りましょう。処刑をお進めくださいませ。民の前で示された裁きが揺らげば、王家と教会の秩序に傷がつきます」
レオナールはすぐには答えなかった。
夕陽が、王子の金の髪を赤く染めている。白い外套の裾が、風でわずかに動いた。その顔には怒りも、焦りも、はっきりとは出ていない。
だからこそ、怖かった。
この男が、今どちらへ傾くのか分からなかった。
レオナールはフィリアを見た。
「聖女フィリア」
静かな声だった。
だが、広場の端まで届いた。
「今の言葉は、慈悲か。証言か」
司祭の顔から、ほんの一瞬だけ表情が抜けた。
フィリアは息を呑んだ。
喉に絡んだ黒い文字が、ぎちりと締まる。
答えるな。
聖女は裁きを乱すな。
祈れ。
赦せ。
証言するな。
フィリアの唇が開きかける。けれど声が出ない。白い指が胸元で震えている。
「殿下」
司祭が割って入ろうとした。
「聖女様にこれ以上の御負担を――」
「私は聖女に問うている」
レオナールの声が、少しだけ低くなった。
司祭が口を閉じた。
広場の空気がまた固まる。
俺は息を吸った。
神官兵の手が肩に食い込む。動くなという圧だった。動けば、すぐ床に押しつけられる。下手をすれば、この場で口を塞がれる。
それでも、黙っていられなかった。
フィリアの喉元の黒い文字が、次の一文を浮かべる。
悪女を悪女のまま赦せ。
その瞬間、腹の底が冷えた。
それを言わせるな。
言わせたら終わる。
イリスは救われない。フィリアも救われない。ただ、聖女が悪女を許したという美しい絵だけが残る。
俺は神官兵に押さえられたまま、声を張った。
「その言葉を、祈りに変えるな」
広場の視線が、一斉に俺へ刺さった。
神官兵が俺の肩を床へ押しつける。
「黙れ!」
頬が板に打ちつけられた。口の中に血の味が広がる。それでも、俺は顔を上げた。
「今のは祈りじゃない。許しでもない。証言だろ」
「この無礼者が!」
火傷跡の司祭が振り返る。
その声には、さっきまでの穏やかさが残っていた。けれど、その奥に別のものが混じっている。焦りだ。
「殿下、この男です。この男が南区の施療院で教会の指示を妨げ、証人に接触した者でございます。罪人イリスに与する者として、即刻――」
「黙らせろ!」
神官兵の腕が首にかかる。
息が詰まった。
視界の端で、イリスが動いたのが見えた。処刑台の上、縛られたまま、こちらを見ている。何かを言おうとしたのかもしれない。けれど、周囲の兵がすぐに刃を向けた。
駄目だ。
ここで俺が潰れたら、フィリアの言葉も潰される。
俺は床に押しつけられたまま、指を伸ばした。
フィリアの喉から垂れた黒い文字の端が、処刑台の板の隙間を這っていた。現実の縄ではない。誰にも見えていない。けれど、俺には、それが濡れた糸のように板へ張りついているのが見えた。
指先が届く。
届くか。
神官兵の膝が背中に乗る。肺から息が抜けた。視界が白く滲む。
それでも、右手だけを無理やり伸ばした。
爪の先が、黒い文に触れる。
聖女は裁きを乱すな。
その一文が、指に絡んだ。
冷たかった。
氷ではない。水でもない。もっと嫌な冷たさだった。人の喉の奥に残った嘘を、指で掴んだような感触。
俺は、それを握り潰すように掴んだ。
そして、喰った。
音はしなかった。
だが、喉の奥に黒い紙片を押し込まれたような苦味が走る。舌の根が痺れ、胃がひっくり返りそうになる。俺の中に入った一文が、まだ暴れていた。
裁きを乱すな。
乱すな。
乱すな。
うるさい。
俺は歯を食いしばった。
次の瞬間、フィリアの喉元を締めていた黒い文字の一部がほどけた。
全部ではない。
祈れ、赦せ、泣け、聖女であれ。
それらはまだ残っている。彼女の恐怖も、震えも、聖女として背負わされた重さも消えていない。
ただ、一つだけ外れた。
証言してはいけない、という縛りが。
フィリアが、息を吸った。
細く、震えた息だった。
けれど、今度は声になった。
「慈悲では、ありません」
広場がまた静まる。
フィリアは胸元で組んでいた手を、ゆっくりと下ろした。白い袖が震えている。目には涙が浮かんでいた。それでも、彼女は王子から目を逸らさなかった。
「証言です、殿下」
火傷跡の司祭が一歩踏み出す。
「聖女様」
「私は、イリス様が毒を命じるところを見ていません」
フィリアの声は弱い。
だが、今度は言葉の形を保っていた。
「イリス様が、私の杯に毒を入れるところも、見ていません。薬酒に触れるところも、見ていません」
民衆のざわめきが低く膨らんだ。
「ですが」
フィリアは一度、唇を噛んだ。
何かを思い出すように、目を伏せる。
「聖杯の儀に用いる薬酒の杯は、私が控えの間を離れる前、卓の右側に置かれていました。銀の盆の上、白い布の端にかからない位置です」
ミラが顔を上げた。
証言台の端で、彼女はずっと泣きそうな顔をしていた。弟の薬のことで脅され、黙らされ、それでもようやく吐き出した少女。フィリアの言葉を聞いた瞬間、その肩がびくりと震えた。
フィリアは続けた。
「けれど、私が戻った時、杯は左側にありました。白い布の上に、少しだけかかっていました。私は……その時は、侍女の誰かが整え直したのだと思いました」
「聖女様、それは」
司祭の声が少し強くなる。
「記憶違いでございましょう。あの時、控えの間には多くの者が出入りしておりました。御身は儀式前で緊張しておられた」
「記憶違いではありません」
フィリアの声が震えた。
今にも折れそうだった。
けれど、折れなかった。
「私は、あの杯を覚えています。あの朝、何度も見ました。飲まなければならないものだったからです」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
フィリアは聖女だ。
祈るためにいる。
赦すためにいる。
民の不安を鎮めるためにいる。
けれど今、彼女は自分が飲むはずだった杯の位置を、ひとりの証人として語っていた。
黒い文字が、彼女の周囲で乱れる。
祈れ。
泣け。
赦せ。
黙れ。
聖女は――
途中で文が途切れる。
まるで、誰かが書き損じたみたいに。
俺は荒い息を吐いた。
喉の奥が焼けるように苦い。さっき喰った一文が、まだ胃の中で爪を立てている。視界の端がちらついていた。
それでも、俺は笑いそうになった。
ざまあみろ。
美しい祈りにされかけた言葉が、ようやく証言として立った。
「証人ミラ」
レオナールが言った。
ミラはびくりと肩を跳ねさせた。
「先ほど、そなたは控えの間に戻った時、杯の位置が変わっていたと述べたな」
「は、はい……」
ミラの声はかすれていた。
「私は、薬草の包みを取りに一度外へ出ました。戻った時、杯の位置が……少し、違っていて」
「聖女フィリアの証言と一致する」
王宮文官のひとりが、慌てて筆を走らせる音が聞こえた。
民衆のざわめきは、もう一つの方向へまとまれなくなっていた。
「どういうことだ」
「では、毒を入れたのは」
「悪女ではないのか」
「いや、証人を惑わせたのでは」
「聖女様が嘘をつくはずがない」
広場が割れていく。
さっきまで一つの流れだったものに、亀裂が入った。
処刑台の上で、イリスは何も言わなかった。
縄をかけられたまま、まっすぐに立っている。夕陽が横顔にかかり、瞳の色までは見えない。ただ、その口元がわずかに震えたように見えた。
泣きそうになったのか。
笑いそうになったのか。
俺には分からない。
けれど、彼女の首元に巻きついていた黒い文は、少しだけ緩んでいた。
悪女は塔より落ちる。
悪女は裁かれる。
悪女は――
その先が、濁っている。
完全に消えたわけじゃない。
まだ、そこにある。
火傷跡の司祭が、声を張った。
「殿下、これ以上は危険です」
彼はフィリアではなく、レオナールを見ていた。
「証言が乱れております。聖女様は御心労の極みにあり、証人ミラもまた、この男に接触されております。今この場で裁きを止めれば、民は何を信じればよいのか分からなくなりましょう」
司祭の指が、俺を指した。
「この役なしが、場を乱したのです。罪人イリスに近づき、証人に接触し、聖女様のお言葉にまで口を挟んだ。これを放置すれば、裁きそのものが侮られます」
神官兵の手が、再び俺の腕を締め上げた。
骨が鳴りそうだった。
「っ……」
痛みに息が漏れる。
司祭は続ける。
「まずはこの男を異端の疑いで拘束し、聖務の場にて取り調べるべきでございます。その上で、処刑を――」
「処刑は中止する」
レオナールの声が、広場を断った。
誰も動かなかった。
風だけが吹いた。
司祭の口が、半端に開いたまま止まる。
「殿下」
「二度言わせるな」
レオナールは処刑台の中央に立っていた。
その顔は硬い。だが、迷ってはいなかった。少なくとも、今この瞬間だけは。
「聖女フィリアの証言、証人ミラの証言、杯の位置に関する不一致。これらを前にして、即時の刑を執行することはできない」
「しかし、それでは王家の裁きが――」
「王家の裁きだからこそだ」
レオナールの視線が、司祭へ向く。
「疑義を抱えたまま首を落とすことを、裁きとは呼ばぬ」
司祭は黙った。
レオナールは王宮兵に命じた。
「イリス・ヴァルクラインの刑は一時停止。身柄は王宮管理下に置く。聖女フィリアは神殿へ戻し、医師をつけよ。証人ミラも保護する」
ミラがその場に崩れ落ちた。
フィリアは目を閉じた。祈るようにではない。ただ、立っている力が尽きかけた人間の顔で。
「そして」
レオナールの視線が、俺に落ちた。
「その男も拘束しておけ」
イリスが顔を上げた。
俺も、思わず王子を見た。
レオナールの表情は変わらない。
「裁判を乱したこと、証人に接触したことは事実だ。だが、この場で教会へ引き渡すことはしない。王宮側で事情を聞く」
火傷跡の司祭の眉が、かすかに動いた。
「殿下、それは教会への不信と受け取られかねません」
「受け取り方は任せる」
広場がさらに騒がしくなる。
「処刑が止まったぞ」
「悪女はどうなる」
「聖女様は本当に毒を盛られていなかったのか」
「では、誰が」
「役なしが何をした」
声が重なって、意味を失っていく。
その下で、地鳴りのような低い音がした。
石畳が割れたわけではない。
処刑台が壊れたわけでもない。
けれど、広場の底で何か重いものが身じろぎしたような音だった。
何人かが足元を見た。
王宮兵のひとりが槍を握り直す。
俺には見えていた。
処刑台の下、民衆の影、フィリアの足元、イリスの首元、そして俺の手の甲。そこら中に散っていた黒い文字が、形を変えようとしている。
悪女は死ぬ。
悪女は裁かれる。
悪女は――
文が途切れ、また別の文になろうとする。
死ねなかった悪女は。
裁かれ損ねた悪女は。
都を離れ――
そこで文字は滲んだ。
まだ終わっていない。
胃の中に残った黒い苦味が、そう教えていた。
神官兵に引きずり起こされる。膝が笑っていた。立っているだけで、喉の奥から吐き気が上がってくる。
視線の先に、イリスがいた。
縄を解かれる直前、彼女は俺を見た。
助かった顔ではなかった。
勝った顔でもなかった。
ただ、処刑台の上で死ぬはずだった人間が、まだ自分の足で立っている。そんな顔だった。
フィリアは兵に支えられながら、処刑台を降りようとしていた。白い衣の裾が、夕陽で赤く染まっている。祈るための聖女ではなく、証言した一人の少女として、彼女はかろうじて歩いていた。
火傷跡の司祭は、深く頭を下げていた。
けれど、その横顔には、さっきまでの穏やかな笑みはなかった。
俺はそれを見て、ようやく理解した。
処刑は止まった。
でも、誰も倒していない。
イリスの罪が晴れたわけじゃない。
フィリアが自由になったわけでもない。
ミラと弟が安全になった保証もない。
俺だって、今この瞬間から、教会に名前を覚えられた。
黒い文字は、まだ消えていない。
ただ一行だけ、書き換わっただけだ。悪女の死に関する部分だけ。
そのおかげで、悪女は死ななかった。
けれど、悪女という名は、まだイリスの首から外れていなかった。
読んでいただきありがとうございますm(__)m
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