第九話 至高の芸術品は破損さえも魅力と変じる
「ごっごめっ、ごめんねレイさあああーん!!」
土下座であった。
ゴドン!! と勢いよく額を床に叩きつけるほどの土下座であった。
甘い刺激を振り払うように思いっきりフォークを突っ込んだらどうなるか。そんなのわざわざ論ずるまでもない。
「わたし、わたし……っ!!」
顔を上げられない。
情けなさに死にたくなるほどだった。
じわり、とピーチファルナの目の端に涙が浮かぶ。嫌われたに決まっていると、こんなにもどうしようもない自分にこれまで付き合ってくれていたのが奇跡なのだと、心の底から思い知らされる。
申し訳なさと情けなさと、何より恐怖が走る。
レイに嫌われて、見捨てられて、離れていってしまうのがとにかく怖かった。
『いつも』を甘く溶かしてくれた、特別。
レイ=レッドスプラッシュを失うのが、ただただ怖かった。
「くふふ☆ そんなに気にすることないでごぜーますよ。この程度、大したことないでごぜーます」
「でも、わたし……っ!!」
「ピーチファルナちゃん」
じゅわり、と甘い蜜のような匂いが漂う。そっと肩に触れた手が優しく、それでいて有無を言わせぬ強制力を発揮する。
気がつけば、顔を上げていた。
そこには黄金のごとき金髪が靡いており、深淵の闇のごとき瞳があり、何より一際輝く真紅があった。
至宝の芸術品のようなバランスで成り立っている美に欠損が一つ。下唇、やや右寄りに小さな傷があった。そこから一滴ほど、薄く薄く真紅の液体が溢れてくるところだった。
ぷくう、と膨らむ赤。宝石のように真っ赤に光るそれが限界まで膨らみ、許容量を超えたと共にツゥ……と肌の上を流れる。
雪景色のように無垢な肌が赤に染まる。
極限の美に歪みが生じる。
目が離せなかった。
先ほどまでピーチファルナの胸中に渦巻いていたありとあらゆる負の感情を吹き飛ばすほどに、その光景は得体の知れない魅力に満ちていた。
「この程度舐めていれば治りますから、気にしなくていいでごぜーますよ……ピーチファルナちゃん?」
「……ひゃっ、ひゃい!? あ、ええと」
「くふふ☆ 気にしなくて、いいでごぜーますよ」
「で、でも」
「でももだってもないでごぜーます。私が気にしなくていいと言っているでごぜーますから、気にしなくていいのでごぜーますよ」
ぱんぱんっ、とこの話はもうおしまいとでも言うように手を叩くレイ=レッドスプラッシュ。そんな彼女の唇にジワリと血が滲む。
と。
ちろりと飛び出してきた真っ赤な舌が滲む血液を舐めとる。まるで塗り潰すように、より鮮明な赤が飛び込んでくる。
じゅわり、と蔓延する甘い匂いを嗅ぎながら、ピーチファルナは漆黒の美女から目が離せなかった。
ーーー☆ーーー
夜が訪れ、黒に染まった街の片隅、路地裏を歩く影があった。漆黒のフードを深くかぶった影の顔は見えないが、身体のラインや胸の膨らみから女性であることは分かる。
これまた漆黒のマントを羽織る彼女は街の片隅でじっと息を潜めていた。来るべき時のために。
ーーー☆ーーー
(あわ、あわあわあわーっ!?)
ピーチファルナは完全に混乱状態であった。
『やらかした』くせに目が離せない、なんて段階が吹っ飛ぶ。移り変わる。
現状はこのようになっていた。
一つの布団に二人の少女が寝転がっていた。ピーチファルナの小さな身体をレイ=レッドスプラッシュの槍のようにスレンダーな身体が包み込んでいるのだ。
レイの豊満な胸元に埋まっていた。
温かくて、柔らかくて、何より濃密な甘い匂いが鼻腔から肺の中へとえぐりこむように襲いかかってくる。
「ピーチファルナちゃんはかわいいなぁ」
「ひゃっひゃわ、ひゃわわっ!!」
ぎゅうぎゅうと抱き寄せられる。
自分以外はもう使わないからと、両親の布団を売り払っていたせい? お陰? 何はともあれ、布団が一つしかないから一緒に使おうという話になったのだ(ピーチファルナは床でもいいとか言っていたが、やはりと言うべきか侵食する強制力に流されたのだ)。
「あ、あの、レイさん」
「何でごぜーますか、ピーチファルナちゃん」
「どうしてわたしなんかに、良くしてくれるの? わたしただの庶民で、犯罪者の娘ってレッテルを貼られていて、特別な何かを持っているわけじゃないのに……」
「くふふ☆」
甘く、甘く。
ピーチファルナの耳元に顔を近づけて、そっと。
脳をかき回して溶かし尽くすような、甘美な囁きが続く。
「ただの庶民? 犯罪者の娘というレッテル? 特別な何かを持っていない? くふふ☆ こんなにかわいいくせに何を言っているでごぜーますか」
「かっかわ!?」
「自分を卑下することないでごぜーます。私はピーチファルナちゃんに金銀財宝の山だって及ばないほどの価値を感じているのでごぜーますから」
より一層、強く深く、抱きしめられる。
言葉だけでなく、身体に教え込んでやると言わんばかりに。
ずぶずぶと甘い蜜に沈んでいくような心地が広がる。