02 そして異変は訪れる
「ただいま――なんて言っても、家には誰も居ないんだけどな」
自分で突っ込みながら、玄関を上がる。
元々は親子三人暮らしだったのだが、二年ほど前に、親父が単身赴任で外国住まいとなり、二日前には母さんも父の赴任先へと旅立った。
親父が交通事故で足の骨を負ったので、その看病のためだ。
なので現在俺は、はじめての一人暮らしというものを体験している。
漫画なんかだと、お隣の幼馴染や押しかけヒロインなんかが炊事洗濯掃除と面倒を見てくれたりするものだが、もちろん俺にはそんな素敵な存在は居ない。なので家事全般は俺の仕事だ。
「ま、大変だけど……気楽っちゃ気楽だよな。散らかしても怒られないし、好きなもの食えるし」
ちなみに、今夜の夕飯はカレーだ。
というかここ数日カレーしか食ってない。
一人暮らし初日に作りすぎてしまった結果である。
余った分は小分けにして冷凍保存。かなりのスピードで消費してるんだが、まだ数食分は残ってる。大好物だからいいんだけど。
部屋着に着替えた後、自室で一休みしてから、キッチンへ。
冷凍カレーを小鍋に放り込んで解凍。深皿に盛ったご飯にドロドロのルーをかける。
洗いものがめんどくさくて、小鍋にご飯をぶちこんで食べたいところだが、そこまで墜ちるのもどうかという後ろめたさが、かろうじて我が家にまともな食事形式を成立させてる。
「いただきます」
手を合わせてから、テレビをつけると、ちょうど気になっているアイドルの姿が映っていた。
「――お、賀古みらいだ」
地元泉下町出身の人気アイドルだ。
だからってのもあるけど、それ以上に顔も声質も超好み。おっぱいが大きくてほんと素敵だと思います。
「ああ、でも事故の追跡報道か。早く元気になって欲しいよなあ」
一月ほど前に、大きな飛行機事故があった。
乗客の生存が絶望視される中、唯一生還したのが現役アイドルの賀古みらいだったってことで、当時かなり話題になった。
もちろん無傷だったわけじゃなく、即座に入院。いまは自宅療養中とのことだが、マスコミをシャットアウトしてて、実際どうなってるのかはわからない。
「命があっただけめっけものとは言うけどなあ……」
ステージの上で、あれだけキラキラと輝いていたアイドルだ。
事故さえなければ。そう思わずにはいられない。
しんみりした気持ちでカレーを食べる。
食べながらテレビをぼうっと見ていると、また泉下町がらみのニュースが流れてきた。
――逢坂市連続猟奇殺人事件。
ミキ丸が気にしていた事件だ。
二週間ほど前から、泉下町内で連続して4件。
いずれも夜道を一人で歩いていた人間が惨殺された。
獣の爪にも似た凶器での猟奇的な犯行から、テレビでは犯人のことを“人狼”なんて呼んでる。
その衝撃は大きく、このところ、町中どこか緊張している。うちの学校でも、部活動が軒並み休止されるほどだ。
「……久遠のやつ、大丈夫かな」
ふと、幼馴染のことを思い出す。
こんなときくらい塾なんか休んでもいいのに、と思う。
文系でインドアで運動音痴なんだから、自衛ぐらいすりゃいいのに、変に律儀なところがあるのが困りものだ。
ミキ丸は……心配するだけ無駄だろう。
あいつなら、きっと人狼だって撃退してしまう。
――なにせあいつは……ホンモノなんだから。
そう、心の中でつぶやいて、思い返す。
かつての自分と、ミキ丸のことを。
◆
子供のころから、少年漫画が好きだった。
強い敵にわくわくしながら挑む、心を燃やして大切な人を守る、かわいい女の子に囲まれてドキドキする。そんな物語が大好きで、自分もそうなりたいと思っていた。
なれる、と、純粋に信じていたのかもしれない。
すくなくとも、小学生のころまではそうだったと思う。
小さいころからデカくてやんちゃで、なんの疑問もなく自分を漫画の主人公になぞらえていた。
中学に入ると、俺は空手道場に入門した。
戦うことに憧れていたし、自分が強くなれることを、疑っていなかった。
道場では、自分より強い人などいくらでもいたけど、それでへこたれたりはしなかった。みんな追い越すべき目標だと思ってた。
それから半年ほど経って、ひとりの少女が道場の門をたたいた。
それがミキ丸だ。小中と同じ学校だった彼女とは、数少ない同年代ということもあって、すぐに親しくなった。
とはいえ、ミキ丸は小さくて軽かった。
成長期の俺がすくすくと育ったのもあって、組み手の相手としては不足だった。
当時の俺にとってのミキ丸は、かわいい妹弟子のようなもので、なにかと稽古につきあってやった。ずっとこんな関係が続くと思っていた。
だけど、あいつは天才だった。
いつのまにか、ミキ丸は俺より強くなっていた。
挑まれて、最初は油断で負けた。
次は全力で挑んで、それでも負けた。大負けに負けて、骨までぶち折られた。
以来何度も挑んだけど……最後の勝負は、あいつの上限が見えなかった。このさき一生勝てないと思わされた。
――これじゃあまるで、漫画の噛ませ犬じゃないか。
心が折れた。
自分が主人公だという自負が消し飛んだ。
心の支柱が吹き飛んで、一時期は自分が何者かさえわからなくなっていた。
そんな時、俺を励ましてくれたのは、皮肉にもミキ丸だった。
気晴らしと思ってか、お茶や遊びに誘ってくれるし、ゲームや漫画の話にもつき合ってくれる。
そして俺は……憧れてしまった。
彼女こそが、本物のヒーローだと思ってしまった。
よく居る序盤のライバルキャラのように、ミキ丸の支持者でありたいと思ってしまった。
それが、ヒーローになることをあきらめた滝口刹那の生き方だと……思っていた。
◆
夜10時を過ぎたころ、ふいに呼び鈴が鳴った。
風呂の準備だけして、リビングで昔の漫画を読みふけっていた俺は、こんな時間にはて、と首をひねりながら、玄関口に出る。
ドアスコープを覗き見ると、扉の向こうには制服姿の黒髪の少女――久遠らしき姿が見えた。
「久遠か。どうしたんだ、こんな時間……に……」
扉を開きながら、言いかけて――言葉を失った。
外は雨。
吹き込む雨粒と濃密な湿気を背負って、少女はそこに立っていた。
傘もささず、全身ずぶぬれで、長い黒髪が、病的に白い肌に張り付いている。
「久遠……?」
呼びかけながら、自信が持てない。
整った顔の造作は、たしかに久遠のものだ。
だけど表情が違う。目が違う。
のっぺりとした能面のような表情が、ぞっとするほど冷たい瞳が。眼前の少女と遠州久遠を結び付けさせない。
「滝口、刹那」
少女が口を開く。
声音は、久遠のもの。
だけど、感情のこもらないその声は、まるで機械音声のようだ。
「――助けて、ほしい」
かくり、かくりと、操り人形のように近づいて。
少女はドアにかけていた俺の手に、冷たい手を添えた。
ぞっとした。
ちらと見えた少女の背中は、紺のブレザーごと無残に切り破られている。
破れたブレザーの下から、赤黒いものが見えた。傷だ。相当深い――下手すれば命に関わる!
「――救急車!」
「いらない。傷は塞がっている」
携帯を探る俺を制止して、少女は言った。
「塞が――そんなわけないだろう!?」
「触って確認すればわかる。もはや傷跡すら、存在するか怪しい。だけどボクは今、より深刻な状態にある。自分に起こっている現象が、さっぱり理解できていない」
わけがわからない。
混乱しているのもお構いなしに、少女は間近から俺を見上げて、言った。
「――助けて、刹那」
懐かしい言葉だ。
小学生の頃は、久遠はよく俺に助けを求めてきた。
ヒーロー気取りだった俺は、そのたび「まかせろ」と胸を張ったものだ。
だが、今の俺はヒーロー気取りですらない。
とてもじゃないが胸を張って「まかせろ」なんて言えない。
だけど、こんな状態の幼馴染を、見捨てることなんてできなくて。
「とりあえず入れ。話を……聞かせてくれ」
自分になにが出来るのか。迷いながらも、俺は少女を家の中にいざなった。




