03 遠州久遠は主張する
家に入れたはいいが、久遠は体中ずぶ濡れ。
しかもぽたぽたと垂れる水滴は、血が混じってるのか、うす赤い。
あわててバスルームからタオルを何枚かひっ掴んできて渡すと、久遠は血まみれの制服をぎこちなく脱いで、体をふきはじめた。
「ちょ、おま、思いきりよすぎだろ!?」
両手をパーにして視線を隠しながら、悲鳴を上げる。
指を開いているので隙間からいろいろ見えているけど、今はそんなこと問題じゃない。でかい。やばい――じゃない。さすがにこれはまずいですよ!
「隠せ! とりあえずいろいろ隠してくれ! でもありがとうございます!」
「よくわからないが、とりあえず確認してくれ」
あわてふためく俺を尻目に、久遠は背を向ける。
なんだこれ。
どんなシチュエーションなんだ。
どんなラブコメに迷い込んじまったんだ俺は。
軽く混乱しながら、俺は久遠を見る。
血のついたタオルで胸や腰を隠してはいるが、逆にそれが色っぽくてドキドキする。
背中には――傷ひとつない。
しなやかな背に施された拭いきれない血の化粧に、思わず息をのむ。
「く、久遠……とりあえず、風呂、沸いてるから、血を流してくれ。着替えは、脱衣所に俺のパジャマがあるから」
内なる衝動に耐えながら、かろうじてバスルームを差し示す。
少女はこくりとうなずいて。無造作に――本当に無造作に俺の横を通り過ぎて、浴室に入っていった。
ややあって、シャワーの音が聞こえてくる。
「……くそ、なんなんだあいつ! ちょっとは恥じらえよ! ロボットか! 宇宙人か! 無感情キャラか!」
あふれる衝動を言葉にして吐き出して、それから大きいため息をつく。
とにかく、久遠の状態は普通じゃない。
それは、玄関口に脱ぎ捨てられた、血まみれの制服が物語っている。
確認すると、分厚い生地は鍵爪で引き裂かれたように破れている。直に見ても、服がこのありさまで無傷だったってのは信じられない。
いや、無傷ではないのかもしれない。
外傷はなくても、ダメージは確実にあるはずだ。
久遠のぎくしゃくした動き。機械音声のような声。
あの異常は、この惨事のショックがもたらしたに違いない。
「ちくしょう。わけがわからん……」
頭を抱える。
考える間にも、さっき見えた久遠の背中とか胸が頭をよぎり、そのたびぶんぶんと頭を振る。
中学に入ったころから「こいつでかくなったな」と思ってたが、まさかこれほどの破壊力とは。あいつならきっと湯船に浮く。ミキ丸先生とは好対照だ。いやなにを考えてるんだ俺は。
「……ふう」
深呼吸して、気を落ち着ける。
制服を確認したせいで手に血がついていることに、いまさらながら気づいた。
キッチンで手を洗い、リビングに戻ると、ソファに深く腰をかけて、天井をながめる。
「それにしてもあいつ、なんでいまさら俺を頼って来たんだ……」
たしかに久遠とは幼馴染だ。
家も隣だし、学校もずっといっしょだ。
小さい頃は、久遠はよく俺の後ろをついて回ってたし、よく懐かれた。正直妹みたいに思ってた。
でも、それも小学生くらいまでだ。
今ではすっかり疎遠になってるし、むしろあっちが俺のこと敬遠してる節がある。
「まあ、とっさに頼れる人間が、ほかに居ないだけなのかもしれんが」
久遠の母親は小学校の頃、事故で亡くなっている。
親父さんは、考古学だか古人類学だかの偉い先生で、発掘調査なんかで長期間家を空けることが多い。たぶん今日も留守なんだろう。
「それにあいつ、友達少なそうだしな」
中二の頃からだろうか。
怪我もしてないのに腕に包帯を巻いて、黒い帳面を肌身離さず持ち歩きはじめ、まわりをドン引きさせていた。
いわゆる中二病というやつだ。
ああいうのは大抵一過性のものなんだが、久遠はいまだに現役続行中。包帯のかわりにロング手袋なんて装備してる。
全力で関わりたくないタイプの人間だし、それでなくともあいつはぼっち気質だ。そういうとこ、昔から変わってない。
「……体はむっちゃ育ってるのになあ」
「刹那。風呂。ありがとう」
つぶやくと同時に、背後から声。
久遠が風呂から上がって来たのだ。
いまの聞かれてないよな……恐る恐る振り返る。
俺のパジャマを着た久遠が、そこにいた。
サイズが違いすぎてブカブカだが、まあいい。むしろ色っぽくて素敵だ。
ボタンをかけ違えてるのは、あれか。わざとか。狙ってやってるのか。好きだ。
「……久遠、ボタン掛け違えてるぞ」
平静を装って指摘する。
久遠は自分の胸元と服の裾を見て、それから顔をあげ、言った。
「すまない。直してくれないか?」
「待て。なんのつもりだ。なにが狙いだ。くそっ、俺はそんな誘惑に屈しないぞ!」
「……直してくれてありがとう?」
どういたしまして。
こちらこそありがとうございます。
「助かった。見ての通り、ボクは今、ひどく不器用になっている」
言って、久遠はぎこちなく指先を動かす。
本物の操り人形のようなその動きに、俺はうそ寒いものを感じた。
◆
「あらためて、話を聞かせてくれるか」
髪を乾かすのを手伝ってから、リビングのローテーブルを挟んで向かい合うと、俺は久遠に説明を求める。
久遠が危険に巻き込まれたこと。それが原因で奇妙な状態に陥っていることはたしかだが、事情がさっぱりわからない。
「ああ。単刀直入に言おう」
久遠はかくん、とうなずいて、言葉を続ける。
「――遠州久遠は死んだ」
「……は?」
唐突な告白に、とっさに返せない。
「死んだ。すくなくとも、一度は」
ある種の確信があるのか、久遠は明言した。
たしかに、あの制服の痕跡、あの出血量は、致命傷だと言われても納得ができるが。
「犯人は……いま泉下町を騒がせている猟奇殺人犯」
「……“人狼”」
思い出す。
引き裂かれた制服の背中部分を。
そして人狼が人狼と呼ばれるようになった理由は、獣の鍵爪で何度も抉られたような、特徴的な殺害方法からだ。
「おそらくは、そうだ。塾が終わった帰り道、近くの――吉祥公園の前で背後から襲われた。ボクは傷つき倒れ、意識を失った。そしてそのまま……死んだ」
「だが、生き返った、と?」
「ああ。気がつくと、ひとりだった。倒れ伏していたボクの周りには、雨でも洗いきれないほどの血が広がっていた。傷は無かった。痛みも。だが、代償はあった」
久遠は手を握り、開く。
錆びた機械のような、ぎこちない動きだ。
「体が、上手く動かないのか?」
「いや、負傷やショックによる障害ではない。その手の問題はないから、すこし練習すれば、もっと上手く動かせるようになると思う。こうなった原因であり、ボクが真に失ったのは……心だ」
「心?」
ピンと来なくて首をひねる。
「ああ、心だ。記憶はある。だけど想いがない。感情がない。ありとあらゆるものに対する執着が、まるで存在しない。だから自分が自分だという実感がない。いまのボクには、なにもかもが他人事のように思えてしまって、自分の体を動かすのも、遠隔操作してるような頼りなさがある。だからうまく体を操れない」
ぞっとした。
その言葉が正しいなら、玄関で彼女を見た時、まるで見知らぬ人のように思えたことも説明がつく。
俺が知っている遠州久遠はもう居ないのだ。
居るのは久遠の記憶と体を持つ、彼女の残骸でしかない。
「……なんで、そんなことに」
「わからない。だけど、失われた心の中で、ひとつだけ、実感を伴った想いがある。それが、ボクを生きながらえさせたのかもしれない」
心を失った久遠に、最後に残された想い。
それは“生きたい”という感情だ、と久遠は言う。
「死に瀕して抱いたのだろう強烈な想いは、このがらんどうの心の中で、いまも燃え続けているんだ。生きたい。生きている実感が欲しい。切実に。だから――お願いだ、刹那、教えてほしい。どうすればそれが得られるのか」
「それは……」
言葉に詰まる。
生の実感。
昔は、そんなものがあったのかもしれない。
自分がヒーローだと無邪気に信じられた、そしてミキ丸と全力で戦っていた、あの頃なら。
だが、いまの俺は……
生を感じるなんて、俺の方こそ遠い話だ。
――でも……
久遠に頼られた。
そう思うと、胸にじわりと温かいものがこみあげてくる。
わかってる。本当の久遠は俺に期待なんてしない。
心を失う前の久遠なら、俺を頼って来なかっただろうし、今俺を頼ってるのだって、親父さんが家に居ないからに違いない。
――これが、「ボクの仇を討ってほしい」なんて願いなら。
俺は迷いなく首を横に振っていた。
当り前だ。
相手は殺人鬼だ。命に関わる。
そんなことは本物のヒーローのやることだ。
だけど、このおかしくなった久遠を支えてやることなら。
ささやかな手助けくらいは、脇役にだって許されるはずだ。
だから。
「刹那、頼む。ボクを……助けてくれ」
「ああ」
久遠の言葉に、俺はうなずく。
「生きている実感なんて、正直俺もわからない。だけど、それを探す手伝いくらいは……してやるよ」
「ありがとう」
久遠はぎこちなく立ち上がると、すぐそばまで来て、俺の手を取った。
近い。
がらんどうの瞳が、目の前にある。
すこし前のめりになれば、唇と唇が触れあうだろう、そんな距離で。
「――刹那。ありがとう」
久遠は、ぎこちなく微笑んだ。
心を失った少女の、壊れた笑み。
だけど、俺は狂ってしまったのだろうか。
俺は、この終わってしまった彼女の微笑を――美しいと思ってしまった。




