14 時の記憶
「結局、”彼女”の容疑は確定しそうなのかね?」
なにの、とは問いかけない。
陸軍上層部の問いかけに対して、ダグラス・ケリーは小首を傾げた。
「それに関してですが、”ドイツ空軍”のデーゼナー飛行中佐は他の将兵らと特に変わらないごく一般的な軍人に過ぎません」
少しばかりその出自が異様なだけだ。
「ふむ」
彼女自身のことよりも、とダグラス・ケリーは冷静にファイルを繰りながら深刻な顔つきになって眼鏡を押し上げた。
「彼女の実験結果については、ソ連が随分と興味を向けています。このままではいずれ彼女をあちら側に奪われることになるでしょう」
極度の秘密主義に徹しているのは、なにもドイツやアメリカ、イギリスだけではない。戦時中は同盟国であったソビエト連邦も同じだった。ポーランドや、ベルリンで彼らが行った蛮行はすでにアメリカ国防総省にも聞こえるところだ。
そんな蛮族のような者たちのもとに、いくら敵であるとは言え年若い娘を放り出すのは忍びない。ダグラス・ケリーはそれらの事例を指摘しながらそう告げた。
「ニュルンベルクの裁判では、裁判の性質上、ソビエト連邦の言い分を呑まざるを得ませんでした。しかし、彼女は我々医師が観察する以上、戦犯ではありえない。そんな”魅力的な”娘を連中に渡してしまえば、それこそ自由主義の危機に晒されます」
彼女は戦犯ではない。
人殺しをしたが、それはあくまでも軍人としてのそれだ。
ナチス党のナンバー・ツーとも呼ばれたヘルマン・ゲーリングの保護下に置かれていたが、党とは関わりもないことが実際にゲーリングの自供からも明らかにされた。
「あなたは、ソ連の蛮人がベルリンでなにをしたか知っているはずです」
気後れすることもなく、ダグラス・ケリーは突きつける。
ベルリン入りしたソビエト連邦が、ベルリンの女性たちになにをしたのか。そして、ポーランドの将校たちに行ったという犯罪めいた話。
そうした性質の問題は、戦争犯罪として裁かれることはなく黙認された。しかし、イギリスの政府首脳部が提唱するように、ソビエト連邦の台頭はアメリカ、あるいはイギリスを中心とした自由主義の新たな敵という意見にケリーにも異論はない。
もちろんそればかりではなかった。
大義名分としてソビエト連邦の蛮行を追及したが、ダグラス・ケリーは取り調べに対し心を開いて時には笑顔すらも垣間見せるザシャが、彼に向ける信頼を裏切りたくなかったというのも正直なところだった。
情に流されたわけではない。
押しつぶされてすでに形をなくしてしまったと思っていた彼女の才能は、ひっそりと息づいていて消えてはいなかった。
精神科の医師として、彼は今度こそ彼女が社会に対して絶望すれば、本当にその小さな芽をむしりとってしまうのではないかという危機感すら抱いた。
「本官は彼女を、保護するのが妥当であると考えます」
ヨーロッパの大地は彼女にとって危険すぎる。
できれば新天地を与えるべきだと、ダグラス・ケリーはダメで元々と説得を試みる。ドイツ軍の軍人たちの中には、自分の持つ情報と引き替えにして身の安全を求める者もいた。彼らと同列に、彼女を扱うべきだとケリーは訴えたのだ。
「彼女の保護は必ずアメリカを中心とした新たな秩序の形成に役立つはずです」
自分の身の安全に対して不安を抱きながらも、部下たちに対する扱いに心を痛めて自分のことは二の次と口に出さない彼女の健気さが多くの連合軍の将兵たちの心を打った。そんな彼女に同情的な将校の中には、ソビエト連邦の将校らがいたこともケリーは見逃していない。
おそらく英米で彼女を保護しなければ、必ずソ連が横槍をいれてくることは間違いない。そして、彼女自身に対する実験のデータも。
――君は、全てが終わったらなにがしたい?
問いかけたケリーに、ザシャは控えめに笑うと「学校に行きたい」とだけ言った。
子供の時から学校に縛られ続けてきた彼女が、それでも尚、学校に行きたいと切実に願うのはなぜだろう。
「学校?」
訝しくダグラス・ケリーが問い返せば、彼女はこっくりと頷いた。
「先生はわたしが医師免許を持っていないことはご存じかと思います」
医学部を卒業しながら看護婦の免許しか持っていない彼女は、ドイツの終戦の後に追って伝えられた同盟国――日本を襲った悲劇に胸を痛めた。
アメリカ合衆国による、新型爆弾の投下だ。
彼女は新聞でそれを知った。
ことさらにザシャは、アメリカ軍の行為を殺人だの、非人道的だの、戦争犯罪だのと突き上げるようなことはしない。
ただ、悲しげに眉をひそめて心を痛めているだけだ。
「科学の勉強をして、医師免許を取って、わたしは”苦しんでいる人たち”の命を助けたい」
彼女の言葉にぎょっとした。
「……あの爆弾は、それだけの危険性をはらんだものです」
ザシャはそう言い放った。
あなたも知っていて当然だとでも言うかのように。
「放射線研究の第一人者、キュリー博士がどんな死に方をしたのかは、先生もご存じじゃありませんか?」
真剣な眼差しで訴える彼女に、ダグラス・ケリーはとりとめもなく思考を巡らせたこと。
マンハッタン計画――。
高温の熱と、衝撃波、熱風と放射線。
真剣な瞳で、けれども血の気の失せた彼女の面差しに、彼は娘の中の強い意志を感じ取った。
言葉を選ぶようにしてケリーがザシャに問いかける。
「ミュンヘン大学に行っていたときは、物理はやっていたのかね?」
「少しだけです」
当時のわたしは、余り物理に興味がなかったので。
相変わらず控えめにほほえんでいる彼女は、最先端の科学については一般的な知識しかないと付け加えた。
「それでも、科学的に可能性を推察すれば、我が国とアメリカが躍起になって開発していた爆弾がどれくらいのものだったのかは見当も付きますし、あの新聞の写真を見れば誰だって多少の計算はできるはずです」
自分は爆撃隊の人間なのだ。
そう彼女は告げた。
「どれだけの規模の爆弾を投下すればいいのか……」
彼女は一般的な物理学の知識と、ドイツ空軍の爆撃隊の一員としての知識とで原子爆弾の規模を想定した。それらを考慮すれば、彼女の知性が未だに炎を消していないことは明白だった。
今度こそ、その才能を絶望に潰してはいけない。
こうしたやりとりを介して、ザシャはドイツの降伏の翌年――一九四六年にアメリカに渡る。
アメリカ国防総省とアメリカ戦略情報局の支援を受けて彼女は、マサチューセッツ州のハーバード大学に学力的な問題は全くなしで入学した。
軍人としての経歴によるブランクを感じさせることもなく優秀な成績で名門ハーバード大学で学べることになった彼女は、物理学と数学を中心に学んだ。十年前となんら変わらない優秀さを見せた彼女は、すでに一度は大学課程を修了していながら謙虚な姿勢でアメリカの大学の授業を臨んだ。
「十年も勉強から離れていましたので、その辺の高校生と変わらないですよ」
君のような凡庸な高校生がそうそういるか、とダグラス・ケリーは思ったがあえて口にはしなかった。
そう言って笑った彼女はケリーらの助けもあって、勉強に打ち込んだ。
華奢に見えるがその辺は元軍人というだけあって、体力は折り紙付きだ。素晴らしい集中力を見せて三年で必要な知識を吸収した彼女は平行してドイツで医師の免許を取った。
この辺りにはアメリカ政府からドイツ側への圧力もあったらしいが、それは本人に報されることはなかった。
本来医師になるためには多くの過程があるのだが、彼女は論文と短い期間の臨床で免除された。
「優秀な医師は多い方がいい」
それが敗戦後のドイツの苦し紛れの言い訳だった。
もっとも、彼女が医師として役目を果たす前に結局別の道を進むことになるが、それは余談だ。いずれにしろ、ザシャのアメリカ合衆国での生活は彼女の非凡さを見せつけることになる。
一九四九年にソビエト連邦と予定調和的な決裂をした米英仏は、その戦いの最前線としてドイツが選ばれ、新たな対立構造の矢面にドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国が誕生した。
「君の知性が、新たな再生ドイツに必要なのだ」
新たな対立構造のもと、ドイツ連邦共和国政府に召喚された彼女は当時の首都――ボンを訪れて告げられた内容に不意に黙り込んでからじっとなにごとか考え込んだ。
「わたしに、なにができるのでしょうか」
三十歳で世間知らずの小娘だ。
「君が、君自身の意志で選択したまえ」
自分の意志で自分の道を選択したことのない彼女にとって、それはひとつの岐路に立たされていた。
「君が医師として勉強していることも知っている。それでも、君の知性はドイツ再建のためにどうしても必要だ。君が、かつてのナチス党の率いるドイツに裏切られたと思っていることもわかっていて、また君たちの世代に選択を強いるのだ」
「……わたしが、ドイツに必要とされているんですか?」
稀代の天才児としてではなく。
「無論」
「ありがとうございます」
「君が、君の意志で、この新たなドイツに戻ってくれることを、我々は望んでいる」
けれども、まだソビエト連邦に抑留されたドイツ国防軍の軍人たちは未だに戻らず彼女はひとりで罪を細い背中に負った。
――ドイツ軍の裏切り者。
そう後ろ指さされることを、ザシャは戦後四年たっても今尚、恐れていた。
「わたしは、許してもらえるんでしょうか……」
「君は、裏切り者ではない。名誉あるドイツ軍人だ」
金色の髪を揺らした彼女は、胸の前で両手の指を組み合わせてじっと目を伏せると考え込んだ。
すっかり結婚をしていてもおかしくない年齢だというのに、彼女にはいまだに浮いた話がひとつもない。アメリカで暮らしていた時も、結局、アメリカ国籍を取得せずに今に至る。
日本にも渡航していた時期もあったらしいが、こうしてドイツに戻ってきた。
彼女が何に後ろめたく思っているのかは、未だに誰も知りはしない。
「そういえば、君のことをアメリカの心理学者共が心配していたらしいぞ」
「ケリー先生と、ギルバート先生ですね」
苦笑したザシャの瞳に、どこか子供っぽい光が宿る。
敗戦直後のドイツで、彼女の心を救った医師たちだ。
恩人です、と説明してから再び考え込むと「少し時間をいただけますか」と答えを返した。
「君はいつも思い詰める癖がある。若いのだからもっと思い切って未来に飛び込めばいいのだ」
ケリーの言葉がザシャの心に浮かんで消えた。




