14 回顧
彼女が知っている事と、識っていること。そして、知らないこと。
ドイツの最高学府のひとつ、名門ミュンヘン大学医学部を卒業し、本来であればダグラス・ケリーと同じ道を進んでいただろう年若い娘。
将来を嘱望された「超」天才児。
ザシャ・デーゼナーという女性の才能は悪い事に、社会そのものに押しつぶされた。極度に内向的で自己主張が少なく、しかしながら人一倍責任感の強い性格はそのような不安定な社会情勢と、脆弱な家族関係とによって形成されたものである。
ダグラス・ケリーは、彼女の性格に対して、そう結論づけた。
勘ぐるまでもなく、ザシャは本当に自分がどういった計画の元におかれていたのかを確かに知らなかった。なぜなら、その計画そのものが国家機密だったからである。しかし人並み以上に聡明な知性を持っていた天才児であるゆえに、詳細をあかされることはなくとも、自分の周囲の状況からある程度の推察はできていた。
神のように、彼女は全てを天高くから俯瞰する。
「大人はみんな勝手だ」と慟哭するのは、社会に傷つけられた子供だからだ。
抑圧された感情は、やがて表現する手段さえも見失って沈殿していく。
おとなしく、聞き分けの良い、けれども人並みの情動を発露させることのできない平坦な性格は自分が社会によって押しつぶされることしかできない環境と天性の才能の落差が生み出した。
極度の緊張に晒されて自らの生命の危機を本能的に感じ取っていたのかもしれない。それらの理由から子供の本来の伸びやかな発達は妨げられた。まるで草食動物が、肉食動物の気配に怯えるように、じっと草むらに身を潜めているようにも見える。
ダグラス・ケリーはそれを大変残念なことだと思った。
平和な時代であれば、彼女はどんな大物に育っただろう。
政治家か、法律家か。もしくはケリー自身と同じ学者の道か。
才能に溢れた子供の未来は光に満ちていて然るべきだ。
きっと、とケリーは思う。
彼女は大輪の花を咲かせたに違いないというのに。
「君の心をドイツという政府が台無しにしてしまったことを、わたしは大変残念に思う」
それはケリーの心の底からの言葉だった。
天才的な知能を持つドイツ空軍の女性飛行士は、アメリカ人であり敵でもあるダグラス・ケリーのそんな言葉に目をみはると、閉口した様子でかすかに唇をわなかかせてから、はっとしたように顔を伏せると肩を震わせた。
「デーゼナー嬢」
ケリーが穏やかに英語で彼女の名前を呼んだ。
「君が、”恐れていたもの”は、もう存在しない」
――もう、”大丈夫”。
「わたしは、敵――アメリカ合衆国の人間だが、君と”同じ道”を進み、”同じ学者”だから、恐れなくて良い」
怯えなくて良い・
君を糾弾するつもりは、決してないから。
「”君”はもう日陰で震えなくて良い。”だから”、こちらへおいで」
優しく、穏やかに。
幼い子供を諭すように、ダグラス・ケリーは向かい合って座るテーブルの向こうから、飛行士の娘に片手を差し伸べた。
アメリカから、君を助けに来たのだ、と。
しばらくの沈黙の後、ザシャの左手がおずおずと差しだされる。
ケリーの指先と、ザシャの指先が触れあった瞬間、びくりと震えて硬直したが、男は娘を急かすようなことはしない。
握りかえしもしない。
そんなことをすれば、傷つきすぎた子供は怯えるだけだ。
そのまま時を止めてしまったように随分と長い時間硬直していた女性の細い手は、そうしてからケリーの手に控えめながら重ねられる。
「大丈夫、心配いらない」
彼女の存在を引き寄せるように、力強く軍人とは思えない華奢な手を握りかえして、ダグラス・ケリーは同じ言葉を繰り返した。
終戦から数ヶ月。
それが彼女がアメリカ陸軍の軍医でもあるケリーに心を開いた瞬間だった。
「わたしは、わたしが知っていることしか答えられません」
ケリーに心を開いた彼女は驚くほどはっきりと言葉を告げるようになった。そして、恐るべきはその記憶力だ。
「それで構わないよ」
「ありがとうございます、ミスター」
表情を取り繕うように笑った彼女は、時折、母国語のドイツ語を交えながらケリーの質問に快く応じた。
「君が、ドイツ政府首脳部の異変に気がついたのはいつ頃だろう」
問いかけられて、かすかに眉をひそめてからザシャは緑色の瞳を瞬かせる。
「子供の頃だったのでうまくは言えませんが、オラニエンブルクに強制収容所が設置された頃です。一九三三年ですね」
彼女の口から飛び出すのは生々しいドイツの姿だ。
見知った顔の学生や、街の人たちが消えていくことに、当時の彼女は気がついていたという。
「……どこに消えてしまったのだろう、と思いました」
自らドイツの外へと脱出した者――もちろん、当時は彼らがドイツの外へ脱出したのだということは知らなかったが――はまだ良かった。しかし、それにしても突然消息を絶った者も多かったのだと彼女は告げた。
「数が、合わないんです。おかしいんです……」
気がついた時にはすでに遅かった、と彼女は言った。
「あんなにたくさんの人たちを収容するにしても、ドイツの国内の施設だけでは数が合わない……。それで、わたしはナチス党の嘘を知りました」
青ざめた彼女の表情に、ケリーは黙り込んだ。
「殺している、とは思わなかった?」
問いかけられて、ザシャは視線を彷徨わせるとためらいがちに言葉を綴る。
「……考えたくなかったんです」
数が合わない。
数字がおかしい。
わかっていても、ザシャに選択肢はなかった。
戦時中の記憶を辿るように彼女は言葉を続ける。
「どうすることもできないまま、わたしは先生たちの言葉を信じることしか、身を守る手段がなかったんです」
そうして、彼女の記憶は一九四〇年の初旬へと舞い戻った。
*
――マジノ線。
それはフランスが対独国境沿いに一九二九年以来から多額の費用を投じて築いた長大な防衛線である。
想定されるドイツの侵攻を食い止めるために備えられた万里の長城。
およそ、八キロメートルおきに強固な要塞を配置し、無数の放題を並べている。コンクリートで固められ、ありとあらゆる種類の火砲を備えている。さらに平行して有刺鉄線が張り巡らされ、多数の地雷を埋設される。
マジノ線の役割は、いざ戦争状態に突入したときに、数週間を持ちこたえることを望まれていた。
一九四〇年初めには、フランスはあわせて十四個師団をマジノ線の防衛にあて、その他の地域に八十八個師団を展開していたことから、どれだけフランスがマジノ線を重要視していたかを読み取ることができるというものだった。
一方、フランスの同盟国であるイギリスはウィリアム・ゴート率いるイギリス海外派遣隊を一九三九年十月から北フランスに四個師団を配置していた。
このマジノ線は、フランスとベルギーの国境付近で終わっているのだが、それよりも北に延長すると、中立という立場を守っているベネルクス三国――ベルギー、ネーデルランド、ルクセンブルクの三国――に要塞を建設することになるため、ドイツを刺激してしまうのではないかと懸念した結果なのだが、この辺りにフランスの甘さがあったと言えなくもない。
要するに、堅牢な「マジノ線」はドイツとフランスの国境しか守れないと言うことになるのだが、結果的にそれは配置する部隊の数や質をおさえることを可能にし、その分、優れた部隊をベネルクス三国に置くことができたため、防衛戦としての効果はは充分にあがっていたと言えるのかもしれない。
マジノ線はそれ単体では堅牢な防衛線であるかもしれない。しかし、外からの攻撃に強い要塞というものは、存外内側からの攻撃に弱かったりするものだ。
そこを衝けば、どんな堅牢な要塞も陥落するだろう。
マジノ線とはそう言ったたぐいの防衛線だ。
そしてそれこそが、ザシャのマジノ線に対する評価である。
フランスとイギリスの思惑はともかく、と、ザシャは首を傾げながら地図を見つめている。
「またつまらんものを見てるな」
頭の上から降ってきた声に、彼女は顔を上げた。
「……ハーラー中尉」
彼女が見つめていたのは標高地図だ。
「そうでもありませんよ、こういうものを見ておけば、実際に飛ぶときに参考になりますから」
「……全部記憶できるか?」
「はい、できますけど、なにか?」
ぽかんとして大男を見上げた彼女はわずかに小首を傾げながら「なにを言っているんだろう」とでも言いたげに両目をまたたいた。
「人間って言うのは、意識下でものすごい量の情報を無意識に処理しているものなんです。……だから、つまり、ちゃんと理解してるし覚えています」
そう言ってほほえんだ。
「地図を眺めているのは楽しいですよ。その土地の天候と、気候帯、地域性、動植物の分布を理解して、標高を思い描けば、どんな場所でもだいたい想像はつきます。そういったことを考慮して、頭にたたき込んでおけば飛ぶときにも応用ができますので」
「……――普通の人間には無理だな、それは」
簡単に言ってのけるが、ザシャの言っている事はそれほど簡単なことではない。
唖然としてルッツ・ハーラーが彼女を見つめ直すと、ザシャが彼の言葉が理解できないのか首を傾げてから眉間を寄せる。
「おまえは、自分が特別だってことを自覚しろよ。少なくとも、おまえに簡単にできることが他の奴に簡単なわけじゃない」
異常ともとれる反射神経と運動能力。
体力のほうは、男たちと比べると華奢で小柄なため随分と劣るものがあるが、それらを補って余りある。
素晴らしい知性と運動神経の優れた彼女は優秀な軍用機乗りだ。
もっとも、とりあえずのところは彼女が血みどろの戦場に慣れることが先決だ。
「そういえば、この前は隊長と陸軍を訪問していたそうだが、どうだった?」
空軍に所属している彼女は、砲兵科や降下猟兵くらいにしかなじみがない。そもそも、基本的にザシャはパイロットだったから、彼女が接するのはパイロット仲間であったり、後部機銃手、整備兵に通信科、工兵科の兵士らくらいだ。
陸軍や海軍など婦人補助隊を除いてしまえば完全に男の世界だ。
「……えっと」
うまく言葉にできないのか、彼女は何度か口を開閉させてから黙り込む。
空軍も男の世界であるには違いないのだが、婦人補助隊の導入は空軍開設までさかのぼる。
「ひどいところだったろう、まぁ、ヒヨコが陸軍所属だったりしたら、確実に初陣で死んでるだろうしな」
淡々としたルッツ・ハーラーの言葉に、ザシャは反論できないまま目を白黒させた。
「良かったな、パイロットで」
にこりと笑った彼の笑顔に、ザシャは困惑した様子で視線をうろつかせている。ぽんぽんと大きな手のひらで彼女の頭をはたくと、ハニーブロンドの巻き毛がふわりと舞った。
「……わたし、役にたってるんでしょうか」
唐突に、ザシャがぽつりとつぶやいた。
小柄で華奢な彼女。
軍人としては体格が足りない。そして、彼女の周りにいるのは屈強な男たちばかり。自分が見劣りしてしまってもやむを得ない。
加えて、なにかにつけて体格についてからかわれれば、劣等感も生まれようというものだった。しかし、逆を言えば、ザシャに対してそれ以外のところではからかうことすらできない、ということでもあるのだ。
「役に立ってるだろう、ポーランドのときは勲章までもらっているじゃないか」
「……あの勲章は、本当にわたしの功績を認められてのものだったのでしょうか」
眉間を寄せてそうつぶやいた彼女に、ハーラーは目を細めた。
彼女は時折、なにか含みを持たせた物言いをする。
それが何を指しているのか、彼にはわからない。
「そりゃそうだろう」
「……――」
納得できない、と彼女の瞳が語っている。
「上が納得できる戦功がなければ勲章は出さないだろう」
どのみち、今後、勲章をもらい続けるならば、功二級勲章を通らなくてはならないものだった。
「……わかっていますけど」
わかっている。
それは彼女の口癖だ。
明晰な頭脳を持つ彼女は頭では理解しているのだ。
けれども、伏せられた情報によって踊らされる。
いくら人よりもずば抜けた知性の持ち主であったとしても国家規模で極秘にされている情報がある以上はそれを判断材料にすることはできない。
要するに、そこにある情報しかザシャは判断材料にすることはできないのだった。
「判断を焦るなよ」
先輩パイロットに言われてザシャは頷いた。
「はい」
自分のいる場所を見誤るな。
そう言われて、ザシャは静かに標高地図をたたんでビニールの貼られたファイルの隙間に突っ込んだ。
大ドイツ国の二月。
頭上には冷たい空が青く広がっている。
密集編隊の訓練にはそろそろ慣れてきた隊員たちだったが、それが実際の戦場で機能するかと言えば、それはそれで別の話だ。
繰り返し行われる訓練の中で、時折、着陸を失敗したメッサーシュミットBf109が爆発したとか、乗員が死んだらしいとか、重傷を負って軍病院に担ぎ込まれたと言った話しも聞こえてきた。
「そういえば、Bf109の降着装置の弱さはどうにかならないんでしょうか」
ふと話題を切り替えた彼女は、カーキ色のつなぎの襟元を指先で直しながらハーラーを見上げた。
「事故が多いからなぁ」
「脚の改善をすればそれだけで運用がだいぶ変わると思うんですけれど」
「扱いきれないパイロットの方に問題があるんだとさ」
「……それは」
ものは言いようだが、問題の航空機は戦闘機であって繊細な鑑賞用の置物ではない。
それに対して、彼らが駆る急降下爆撃機は固定脚の頑丈な構造だ。
ちょっとやそっとの不時着ではびくともしない。
「スツーカは脚が頑丈で良かったな」
「固定脚は安定してますからね」
そんな会話を交わしている二人の視線の先に、中隊長のカスパル・ファル大尉が映った。他のパイロットたちも気がついたのか、素早く整列して中隊長を待った。
ザシャも無造作に地図を飛行服のポケットに突っ込んでから意識を切り替えた。
休憩を挟んで、再び編隊行動の訓練が再開される。
短い休息にゆるんだザシャの眼差しが真剣な光がたたえられていて、ルッツ・ハーラーは表情を正すと目の前に立つ中隊長に意識を集中した。




