1 休息
「あほぅっ!」
怒鳴り声に思わず自分の耳を両手で覆ったのは怒鳴った張本人の部下たちだ。
いつものことだが、どうしてこうザシャ・デーゼナーは中隊長の逆鱗を刺激するのか。怒鳴ると同時に手にしていた日誌を地面にたたきつけたカスパル・ファルはむっつりとして一同を見渡したまま憮然として鼻から息を吐き出した。
昨日、ポーランド戦が終結したのはいい。
これで軍人である自分達も少しは休暇がもらえるだろう。
地上部隊よりも一足先にドイツ国内の急降下爆撃基地に帰った航空部隊の面々は、基地内の自分のベッドでやっと安眠を満喫できる。
軍隊である以上、規則正しい生活を強いられるのはやむを得ないが、ベッドで眠るのと野戦基地で体を休めるのは大違いだ。
もちろん正式な辞令が来てない以上、軍人はいつも通りに訓練に勤しむだけだ。
そんなことから、カスパル・ファルは早朝から点呼の訓示をしようとしたところ、どうにも隊員がひとり足りない。
「熱を出して寝込んでいます」
兵舎に勤務する軍医が慌てた様子で駆けつけて、カスパル・ファルに報告をした瞬間、彼の逆鱗に触れた、というのが事の真相だ。
「動けないほどなのか?」
問いかけた彼に、軍医の男は肩をすくめる。
「無理ですね、熱が下がらないことにはまともに立てないでしょう」
過労でしょう。
そう告げられて、思わず堪忍袋の緒が切れたファルは勢いよく地面に日誌をたたきつけたのだ。けれども、部隊の父親とも呼べる彼は部下のことをよく見ている。だからこそわかっているのだ。
彼女が倒れたのは過労などではない。
女性らしい優しい感性が、激しい戦闘の重荷に耐えられなかったのだ。それでも任務中は倒れずにいられたのは彼女が鉄の意志で精神を支えていたからだ。
終戦の宣言と共に倒れたのは、どうせそんなところだろう。
舌打ちした彼は、部下たちに訓練を命じて歩きだした。
ちなみに日誌は落ちたままだ。
「どこへ?」
隊員のひとり、フロレンツ・ギーゼブレヒトに問いかけられて、ファルは肩をすくめた。
「様子を見てくる」
口ではなんだかんだとうるさいが、部下思いの良い上官だ。
「了解」
苦笑いしながら日誌を拾い上げた隊員は、苛立たしげに肩を揺らしながら歩いて行く上官の背中を見つめて仲間に視線を返した。
「でもまー……」
ザシャが転属になってから一ヶ月近い。
その中で彼女は驚くほどの早さで精神的な成長を見せた。終戦の頃には彼女は帰投したときには嘔吐もしなくなり、そして泣くことも減っていった。もっとも、隊員たちからしてみればからかう理由がなくなってつまらない、というものもないわけではない。
「予想はできてた」
ザシャは新兵も同然だ。
ここ数日、ザシャは目の下に隈を作るほど忙しい出撃を重ねていた。「今日は何回の出撃があるんですか?」というレベルである。男の体力でもぎりぎりだったというのに、ザシャならばもっとぎりぎりだっただろう。けれども、戦時下にある軍人がそんな甘えが許されないのも現実だ。
彼女の年齢であれば、少々の女らしさや、女性的な打算もある年頃だ。
しかし彼女は軍隊に所属していたため、それらの女性らしさの一切を許されることはなかった。「予想はできていた」と苦笑しながらつぶやいたフロレンツ・ギーゼブレヒトは飛行士仲間のハーラーを見やった。
おまえもだろう?
そう言いたげな彼の言葉に、ルッツ・ハーラーは自分の肩を叩きながら息を吐き出した。
「しかし、休暇に入ってから倒れればよかったのにな」
「そりゃ、あのお嬢ちゃんじゃ無理な注文だろう、ルッツ」
「……確かに」
不器用で真面目なザシャが嘔吐もしなくなり、毎回のように泣かなくなっただけでも随分な成長と言える。
「全く中隊長はヒヨコに甘い」
やれやれとギーゼブレヒトがつぶやくと、他の隊員たちも「まったくだ」と笑った。
一方、基地を横切って兵舎の扉を蹴破る勢いで部屋に入ったカスパル・ファルは窓際のベッドに横になって布団をかぶっている金色の頭を見つけてむっつりとしたまま黙り込む。
荒い呼吸が聞こえてファルは眉尻をつり上げた。
だいたい軍人がこんな程度でいちいち倒れていたのでは話にならないし、使い物にも鳴らない。
先が思いやられる。
「……ザシャ」
声をかけながらベッドに歩み寄ると、かすかに上掛けが動いた。
横を向いて眠っていた彼女が、上官の声に仰向けになってから目をかすかに開く。
どっかりと勢いよく彼女のベッドに腰を下ろしたカスパル・ファルは、長く溜め息をついてから自分の顎を撫でた。
「も、うしわけありませ……」
よろりと体を起こそうとした彼女はけれどもうまくいかずにそのままベッドに倒れ込む。
「そのままでいい」
どうせ、と彼は思った。
彼女はこんな状態でも中隊の点呼に参加しようとしたのだろう。
溜め息混じりに彼は言って、彼女の肩をベッドに押し戻すと額に手のひらをあてた。沸騰しそうなほど熱い彼女の体に素早く状況を分析する。軍医は入院させた方が良いと言っていた。
「ですが……」
「どのみちそんな状態で訓練飛行なんぞやったら戦場でもないのに死ぬぞ、馬鹿者」
朦朧としているのか瞳の焦点が合っていない。
「飛べます、大丈夫です……」
うわごとのように大丈夫と繰り返す彼女に、カスパル・ファルは不機嫌な溜め息をもう一度ついてから、ザシャの金色の頭を一度だけ撫でてやった。
「おまえは任務をしっかりやった。だから少し入院でもして休んでこい」
新米の割りにはよくやったほうだ。
シェルショックによってパニックに陥らなかったのは、彼女が天才的とも呼ばれる飛行士だからではない。ザシャの繊細すぎる優しい心を、彼女の深層意識が保護し続けていただけのこと。
多くの歴戦の兵士たちが通った道だ。
軍人――兵士たちはそうやって戦場での強さを手に入れる。
そうした過酷な戦場での体験を辛抱し続けたことによる反動だろう。むしろ彼女の性格を考えれば高熱を出しただけで済んだことのほうが驚くべき事だった。ザシャ・デーゼナーという新米飛行士は驚くほど強靱な精神力を、どうやって身につけてきたのだろう。
「寝ていろ」
自分が新兵だったころはどうだっただろうか、とカスパル・ファルは自分の過去を思い出した。
カスパル・ファルもまた、一九三五年から始まったスペインでの内戦を義勇兵として戦ったひとりでもある。もっとも、ファルのほうはザシャとは従軍した時期が異なるため、スペインにおける彼女の活躍は知りはしない。
飛んでくる機銃にパニックに陥らなかったか。撃墜されていく僚機に心が冷えなかったか。カスパル・ファルは新米同然の女性パイロットの呼吸がやがて規則正しいものに変化していくのを見守ってから入ってきた時とは全く異なる静けさで彼女の部屋を出て行った。
とにかく、ザシャの入院の手配をしてやらなければならない。
兵舎などではまともな治療を受けさせてやることなどできはしないのだから。
多くの新米の兵士、飛行士たちは誰しもこうやって落ち着きをなくすことが多々ある。ファル自身もそうだった。
命のやりとりをしなければならないという現実感の中で恐怖や、罪悪感と戦いながら「軍人たらんとする」ことを覚えていくのだ。
誰だって最初から歴戦の猛者であるわけもない。
いっそ、そんな人間がいればお目にかかりたいものだ。
「ヒヨコに甘い、か……」
顎に指を当てたままで彼は考えた。
カスパル・ファルはザシャ・デーゼナーに甘い。それが、隊員たちの一般的な中隊長に対する評価だ。
もちろん言っているほうも、「えこひいき」的な意味で言っているわけではないということをファルもわかっている。
ザシャの飛行技術は超一流だ。
彼女が女性であるからと言う理由で目をかけているわけではない。ファルがなによりも目にかけているのはその優れた技術だ。
シュトルヒを駆っていたときはどんな飛び方をしていたのだろうか、と思わせる程、ザシャの技術はぬきんでていて、まるで自分の体と同じように扱っているのではないかと思わせた。
今回の大きな作戦を通じて、ファルは彼女を教えた教官たちが「天才」と呼ぶことにも納得できた。
これから彼女はどんな化け物に育っていくのだろう。
カスパル・ファルは兵舎を出て歩きだすと晴れ渡った青い空を見上げて目を細めた。
ちなみに、その後、入院する結果になった仲間の元を、同僚たちが代わる代わる押し寄せて見舞いに来たのは言うまでもない。
彼らにとって、中隊とは家族みたいなものなのだ。




