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贖罪の邂逅

 泣き止んだ彼を連れて、余った時間でこの町を回ることにした。

 すると驚く事にそこら中で『白詰草』が売られていた。書店では平置きは当たり前で、レジ前にすら山の様に積まれている。

 どこも『あなたに四葉の加護がありますように』と大々的に宣伝されていた。私は彼の担当になって半年経つが、こんな展開のされ方が行われているなんて聞いた事も無かった。

 それどころか、コンビニや花屋さんにすら置いてあるようだった。

「何かすごいですね……」

 私は音楽だけが流れる車の中で呟く。

「何が?」

 彼はいつもの調子に戻っていた。

「『白詰草』がこんなに愛されているなんてすごいなぁって」

 私は自分の本でも無いのになんだか楽しくなっていた。

 でも彼は複雑な心境なのだろう。

「もう、素直に喜んだらどうですか?さっきの女の子に、笑ってあげた時の顔。素敵でしたよ?」

 私は普段の鬱憤を晴らすように彼の弱点を責める。

「子供に……子供に罪は無いからな……」

 彼は自分の言葉を確かめながら発していた。

 『ああ、最初からそうだよ。俺は生まれてすぐ親に捨てられたんだ!』彼の言葉がリフレインする。

「そうですね。子供に罪は無いですよね」

 私は彼の言葉を、彼を肯定する。彼は子供だったのだ。

 もう、みんな彼を許している。私も、美羽お姉ちゃんも、カオルさんも、後は彼が、彼自身が自分を許せるかどうかだ。

 後一押し、後一押し何かがあれば……私はそう考えていた。

 でも、私達は既に導かれていたのだ、全てはあの夏からずっと。

「もうすぐ時間ですね」

 七時五十分。私達はカオルさんに指定されたレストランの駐車場に居た。

 入り口にはクローバーが沢山植えられていて、窓には黒猫が描かれていた。

「やっぱりこれだけ大々的だとプレッシャーですか?」

 そわそわして車から出たがらない彼に聞く。

「そんな事無い。偶然だろ」

 そんな事あるくせに。必然だってわかっているくせに。

 心の中でぼやく。でも彼が子供なのだとわかった今、彼の事が少し可愛いと感じている自分もいた。

「もう、しょうがないですね。さ、行きますよ!」

 私はシートベルトをはずし、さっさと車を降りた。彼もしぶしぶ付いて来る。

 美羽お姉ちゃんの言葉は、私達を不幸にする物じゃない。そう信じられたから、彼もすぐに幸せになれる。私はそう確信していた。

「いらっしゃいませ!」

 気持ちの良い挨拶で出迎えられる。そして予約した名を告げると、いくつもの個室の一室に通される。

 どうやら個室レストランの様で、通された部屋は四人には少し広い部屋だった。

「先にお飲み物はいかがですか?」

 こういうレストランにお決まりの文句、でも私達はお酒を飲まない。

「あ、じゃあウーロン茶と……アイスティーあります?」

 私は彼には何も聞かず、勝手に注文を始めた。

「はい、ありますよ。レモンティーと、ミルクティーと、ストレートティーの三種類用意出来ますがどれになさいます?」

「ミルクティーで」

 彼はほとんどミルクティーしか飲まない。でも私はその理由も知らない。よく考えると彼の事はほとんど知らないのだ。生い立ちも、好きな事も、彼の想いも……。

「では、すぐにお持ちしますね。注文などお決まりになりましたらそちらのボタンでお呼び下さい」

 店員さんはそう言ってメニューを置いて出て行った。

「そういえば、こうやって食事に来るの、始めてですね」

 私は彼の食事を買って行ったり、作ってあげた事はあるが。こうやって外に食事に来た事は無かった。

「そうだな」

 彼は面倒くさそうに答える。

「ちょっとは会話しましょうよ」

 私は歩み寄ろうとする。彼の担当になった当初もそうしたはずなのに、いつの間にか私はそれを諦めていた。彼の孤独に気付く事無く。ただの面倒で我が侭な作家さんだと思い込んでいた。

「何を話せば良い?」

 彼はそんな風に聞いてくる。前もそうだった。

「何でも良いんですよ。何か話したい事とか、くだらない事とか、何か無いんですか?」

 私は改めて彼の少ない言葉を引き出そうとする。

「特に無い」

 完全な拒絶。だけど今回は諦めない。

「じゃあ、私が質問するので、何でも良いから答えを下さい」

「…………」

 無言。でも諦めない。続けよう。彼だって本当は抜け出したいはずなんだから。

「日向さんはデザート以外で好きな食べ物とか無いんですか?」

 始めて彼の名前を呼ぶ。ご主人様でも、日向先生でもない。近いけど遠い。『日向さん』

「別に無い」

 うう、もう挫けそうだ……。正直この完全に相手を拒絶する態度はいつも腹が立つ。でも、今日は我慢だ。

「あ、じゃあ好きな本はなんです?」

 これなら絶対に何かあるはず。なんせ彼の部屋は本でいっぱいなのだから。

「本……か……」

 彼は少し思案した後、静かに応える。

「『銀河鉄道の夜』や『指輪物語』あと……」

 彼はもう一つ言おうとして言葉に詰まった。

「あと……、なんですか?」

「『不思議の国のアリス』」

 おおよそ彼には似合わない名前が聞こえた気がする。

「…………」

 沈黙。それをノックの音が破る。

「失礼しまーす。ウーロン茶とアイスティーお持ちしました」

 二人の微妙な空気を底抜けに明るい声が突き抜けた。

「どうぞごゆっくり」

 店員さんは会話の無い二人を怪訝に思ったのか、しぼむようにして、そそくさと部屋を出て行った。

「なんだよ。笑いたければ笑えよ」

 彼が急にそんな事を言う。

「何か可笑しなところありました?」

 私は笑ったら失礼だと思って必死に堪える。

「顔にやけているぞ」

「へ?」

 必死に堪えているのを指摘され間抜けな声をあげてしまう。

「やっぱり変だろ? 俺が『不思議の国のアリス』なんて……」

 彼の声は少し沈んでいった。

「へ、変と言うか、男の人だと珍しいですよね。あ、でも『銀河鉄道の夜』も、『指輪物語』も、『不思議の国のアリス』も、全部ファンタジーですよね。そう考えるとおかしく無いのかも。たぶん……」

 なんとか自分に言い聞かせる。どれも有名だし、私も読んだ事あるし、嫌いでは無い。ただ、彼にしてはやっぱり意外だった。

「好き……と言うより、憧れだったのかもしれない。俺は今いる世界とは別のどこかへ行ってしまいたかったんだ……。そして『不思議の国のアリス』は最初に俺を別の世界に連れて行ってくれたタイトルだから……。」

 それは彼の告白だった。

「ほら、その……美羽さんが……紙芝居読む前に言っていただろ?『それはそう、不思議の国のアリスの様に』って」

「そっか、そうでしたね。美羽お姉ちゃんが、きっかけなんですね。大丈夫です。もう笑ったりしません」

「やっぱり可笑しいと思っていたんだな」

 彼は不機嫌そうにアイスティーにガムシロップを垂らしながら言う。

「う……まぁ、あんまり男の人の口から『不思議の国のアリス』なんて聞かないですから……。でも好きな物をちゃんと好きって言える事って大事ですよね」

 そう、それは人によってはすごく勇気の必要な事。他人とは違うんだと思ってしまった時ほど恐いものは無い。

「私は、こってこての、ラブストーリーとか好きですかね。それはもうとろける様にあまーいやつです」

 彼のアイスティーを混ぜる手が止まった。じっと私の顔を見ている。

「似合わねぇ……」

 な……さっき笑うのを必死に堪えた私はなんだったのだろうかと思う程の容赦の無い言葉。だけど私にとっては、衝撃の走る言葉だった。

 彼が他人を評価している。私の事を見て「似合わない」と言ったのだ。

 今までの虚ろでどこか投げ遣りな会話とは違う。

「もう、そう思うなら笑ったって良いんですよ?」

 彼の心を探るように会話をする。一個でも間違えたら彼はまたへそを曲げてしまうかもしれない。そう思うと胸が自然とドキドキする。

「笑わないよ。お前だって我慢しただろ?」

 毒が含まれているけれど、どこか優しさを感じる言葉だった。

 そうしてしばらく好きな本の話をして過ごしていると。外から賑やかな声が聞こえて来た。

 女性二人の声とさっき電話で応対してくれた、渋い男の人の声だった。

「お酒はダメですよ?」

「えー、良いじゃない! せっかくだから美味しいワインとかさぁ……」

 一人はカオルさんの声だ。でもさっきと違ってずいぶんフランクな様な気がする。

「ダメです。真面目な話なのでしょう?」

 もう一人の女の人がカオルさんをなだめている。

「うー、じゃあマスター、アイスコーヒー二つ。それと話の折が付いたら呼ぶから、ちゃんと覚悟しておくように」

「わかりました。では、ごゆっくり」

 渋い声の人はこの店のオーナーの様だ。でも話の折が付いたら呼ぶとはどう言う事なのだろう? しかし、賑やかなカオルさんに疑問は消し去られてしまう。

「やー、おまたせー! 玲ってば中々出てこないんだもの」

「な、私は仕事で忙しかったんです!」

 玲と呼ばれた女性の顔は見覚えがあった。ネットで見た四葉総合病院の院長先生。そしてあの時、最後に紙芝居を読んでもらった日に一緒にあの場に居た人。

「あはは、とりあえず遅くなってごめんなさいね」

 カオルさんが穏やかな笑顔で謝る。

「とりあえず改めて自己紹介でもしましょうか」

 上着を近くのハンガーにかけながらカオルさんはサクサクと仕切り始める。

「とりあえず、私は田崎 カオル。当事美羽ちゃんを担当させてもらっていた看護師です。今は四葉総合病院で婦長をやっています。趣味はウインドウショッピングかなぁ、やっぱ仕事のストレスは買い物で発散するしか無いのよね」

 あはは、と簡潔に自己紹介を済ませるカオルさん。

「はい次、玲」

 マイクを向ける様な仕草で四葉総合病院の院長さんにバトンを渡す。

 その手を川崎先生は手で軽く払った。

「私は川崎 玲。四葉総合病院の院長を勤めさせてもらっています。昼間は忙しく、はるばる会いに来て頂いたのに、お取次ぎ出来ず申し訳ありませんでした」

 川崎先生はすごく丁寧に私達に謝罪をする。

「玲ってば堅いよ……。その自己紹介」

 やれやれと、次は私にどうぞとカオルさんが手をだす。

「えと、カエデ社の編集部で傘丘 日向さんの担当をさせて頂いている。葉山 慧です。当事、美羽さんから紙芝居を頂いた者です。夢は作家だったのですが御覧の通り芽が出ず、こうして仕事をしながら地道に文学賞に応募したりしています」

 こうやって改めて自己紹介するのはなんとなく気恥ずかしい。夢を口にするのはもっと恥ずかしい。でも、諦めていると思われたくなくてつい、言ってしまった。

「あの時の子かぁ……。何か時間を感じるわね……」

 カオルさんは感慨に耽っていた。

「さ、最後ですよ。日向先生」

 カオルさんが日向さんに話を振る。『日向先生』と呼んだ事に内心ひやひやしながら日向さんの言葉を待つ。

「傘丘 日向です。俺は……いや、僕は『白詰草』を書きました。でも、これは美羽さんのお話を流用したものです。完全な盗作です。本当にすみませんでした!」

 いきなり核心に入る日向さん。二人は彼の告白に面食らってしまっていた。

 そこにまたノックが響く。

「失礼しまーす! アイスコーヒー二つお持ちしました」

 元気の良い声が音の無い静かな部屋に突き抜ける。本日二度目だ。

「あ、ありがと」

 カオルさんが、なんとか声を絞り出した。

「失礼しました。また御用があればそちらのボタンでお呼びください」

 そう言って店員さんが出て行くと、また部屋に静寂が訪れた。

「ぷ……あははははは」

 カオルさんが声をあげて笑う。

「あは……あははははは」

 私もつられて笑ってしまう。きっと彼にとって一世一代の告白だったのに。

 川崎先生も声には出さないがクスクスと笑っていた。

「ごめんなさい。あまりにタイミングが良過ぎたからつい……クククク」

 必死に笑いを堪えようとしているがカオルさんはまだ笑っていた。

「ま、とりあえず。美羽ちゃんはそんなの気にしていないわよ。きっと……。むしろあなたにお礼を言うと思うわ」

「そして私達もね。改めて素敵な物語をありがとうございます。日向先生」

 そうして急に日向さんに向き直りお礼を告げるカオルさん。

「そんな……俺はお礼を言われるような事なんて……。俺は……ただ美羽さんの物語を飾りつけただけで……。素敵な物語でも何でも無いんです」

 日向さんは喋る毎に生気を奪われていくようだった。

「あら、美羽ちゃんはそれを知ってもあなたにお礼を言うと思うわよ?」

 川崎先生が声をあげる。

「私は当時、医者にあるまじき行動に出ました。まだ十六の女の子に泣きながら死を宣告したんです。私には救う術がないと。泣きながら伝えたんです」

 川崎先生は淡々と言う。

「二週間から一ヵ月。彼女にはそう伝えました。その時泣いている私に彼女はなんて言ったと思います?」

 自分の死を告げられた人の感情。それは私には考えの及ばないモノだった。

「『ありがとう』彼女はごめんなさいと泣き喚く私に『ありがとう』と言って頭を撫でてくれたのよ」

 私にそんな事が出来るのだろうか? 自分の死を告げる者に一体なんて言葉をかけられるのだろうか。

「そして彼女は諦めなかった。だから私も懸命に書物を漁り、あらゆる研究施設に問い合わせ、何とかして彼女を助けたいと思った」

 川崎先生の告白は続く。

「私は彼女を助けたかった。守りたくて仕方が無かった。どんな手を使ってでも、悪魔に身を捧げたって良い。そこまで私は美羽ちゃんに入れ込んでいた。だけど私には力が無かった。そうして絶望して、でも美羽ちゃんの真っ直ぐさが私を駆り立てて、気付くと三日三晩寝ずに。資料を漁っていたわ」

「この時点で医者失格よね。一人の患者の為に全てを投げ売っていたの。そしたら美羽ちゃん。マイペースに『紙芝居読んであげる』とか言い出してね」

「今考えると、彼女は私をなだめようとあの日、紙芝居を読んでくれたのかもしれないわね」

 遠い日を思い出すように川崎先生は少し寂しそうな目をしていた。

「あの日の夜は何故だかぐっすり眠れたのよ」

 ふふっと笑って川崎先生はアイスコーヒーに口を付ける。

「さて、次は私の番かしらね」

 黙って聞いていたカオルさんが口を開く。

「何から話したら良いか、今日は気が気で無かったのだけれど……。そうね、君に会ったのも偶然じゃ無さそうだし、あれにしようかな」

 カオルさんは日向さんを見つめながら言う。日向さんは伏し目がちに無言で話を聞いていた。

「ねぇ、君達。『死神さん』は覚えている?」

 死神さん……そういえばお姉ちゃんが紹介してくれた気がする。私が手術する前に美羽さんの前に連れて行ってもらった時に紹介してくれた黒猫だ。

「サナトリウムの方に居た黒猫ですよね?」

 私はうろ覚えの記憶を辿る。

「そそ、あの紙芝居の黒猫のモデルになった子なのよ」

「そうだったんですか……俺は知らなかったです。黒猫が居たことも」

 日向さんは余り美羽さんとはあまり関わっては居ない。小児病棟で美羽お姉ちゃんが倒れた日、その日だけと言っていたはずだ。

「そう……美羽ちゃんね、あの場所がすごく好きだったの。元気な時はいつもあそこに座って読書したり『死神さん』に話かけたりしていたわ」

 あの日もそうだったっけ……。手術する前日。真っ白な日傘の下、穏やかにそこに在ったモノ。まるで一つの風景画みたいだった。

「そして最期の三週間。玲に軟禁されていたのだけれど、一度だけあそこに連れて行ってあげたの。もうその頃には美羽ちゃん、自分で歩く事も出来なかったわ」

 ああ、やっぱり……美羽お姉ちゃんは亡くなっているんだ……。今までどこか認めたく無かった。だけどやっぱり……。

「軟禁とは失礼ね。少しでも長く生きて欲しかったのよ。一日でも、一時間でも、一分でも……長く生きればもしかしたら美羽ちゃんを治す術も見つかるかも知れないと思ったから」

「そんな奇跡は起こらない。玲が一番良く知っているはずなのにね」

「それでも認めたく無かった。私はそれほど美羽ちゃんに魅入られていたのかもしれないわね」

 ふふっと二人は笑う。

 二人の言葉はすごく非情な物に思えた。なんでこの人達は一人の人間の死をこんなに嬉々と話しているのだろう。

「それでね……美羽ちゃん。いつもの様にあの白いベンチに腰掛けて、日傘を差してね。『ねぇねぇ、死神さん』って声を掛けるの」

「本当にいつも通り、自分が死ぬってわかってしまった後でも……本当にいつも通り話しかけていたの」

 カオルさんの表情は穏やかで優しい顔だった。私は少しずつ心が曇っていく。

「『私、幸せだったよね?あのお父さんとお母さんの間に生まれて……』」

 一瞬カオルさんが何を言っているのか、わからなかった。

「『私、幸せだったよね?こんなに優しさで溢れた人達に囲まれて……』」

 言葉がズシリ、ズシリ、と音を立てて私に圧し掛かってくる。

「『私、幸せだったよね?こんなに温かい場所に来れて……』」

 この言葉を側で聞いていたカオルさんは一体どんな顔をしていたのだろう?

「『ねぇねぇ、死神さん』」

 カオルさんは躊躇いもせず、戸惑いもせず、言葉を失くす事も無く、続ける。

「『私、幸せだよ!』」

 カオルさんは最高の笑顔で美羽お姉ちゃんを再現してみせる。その頬には涙が伝っているのに。

 川崎先生も涙を流していた。そして私も……。

 私は自分が情けなくなった。この人達を非情だと思った自分が……。美羽お姉ちゃんを勝手に理想化していた自分が……。あの紙芝居を貰った自分が……。

「美羽ちゃんはすごかったわよ。正直、私達の常識とか、一般論とか、全部覆しちゃうくらいすごかった」

 十六歳の自分を思い出す。後一ヶ月で死ぬと言われて幸せと言えるだろうか? いや、今だってそんな風に言える自信が無い。美羽お姉ちゃんは一体どんな想いで居たのだろう?

「でもね、やっぱり美羽ちゃんも私達と同じだった。必死に私達が悲しまないようにしようとがんばっていたみたい。情けないわよね。看護師と医者が患者さんに気を使わせるなんて」

 涙をハンカチで丁寧に拭きながらカオルさんは言う。

「その言葉を聞いた後ね、美羽ちゃん気になる事を言っていたの」

「『ねぇねぇ、死神さん。少しだけ気になる事があるんだ……。最後に小児病棟で紙芝居を読んだ日にね。腕と頭に包帯を巻いてすごく寂しそうな目で私の紙芝居を見ていた男の子が居たの。その目がね……昔の色々諦めちゃっていた自分に似ててさ……何かしてあげたいのに……悔しいなぁ……。体が動かないよ……』そう言って泣いたの。私が悲しそうな顔をすると、すぐに笑って誤魔化していたけどね」

 自分の無力を呪う事。誰だってある事かもしれない。きっとここに居る人はそれを経験している。川崎先生も、カオルさんも、日向さんも、私も……。

 そう思って全員の顔を見渡すと、日向さんが呆けていた。

「あの、日向さん?」

 心配になって声をかける。私の目的を見失っていた。この人を助けるんだ。

「そりゃ、驚くわよね。まさか美羽ちゃんが自分を見ていたなんて思ってもいなかったでしょうからね。野川(ノガワ) 勇人(ユウト)君?」

 カオルさんが日向さんを見据えながら言う。

「その名前で俺を呼ぶな!」

 日向さんが突然叫ぶ。

「やっぱり……あなたがそうだったのね……。これも美羽ちゃんの力なのか、やっぱり奇跡はあるのか……」

 カオルさんが意味深に呟く。聞きたい事が山の様に増えていく。

「あの……!」

 言葉にしかけてカオルさんが手を伸ばす。

「まぁまぁ、落ち着いて。とりあえずご飯、食べましょうよ」

 マイペースにそんな事を言い出した。

「お腹空くとカリカリしちゃうでしょ? ちょっとは落ち着きましょうよ」

 そう言ってさっさと店員を呼ぶボタンを押す。

「ちょ、ちょっと……あの……」

 私は抗議しようとする。

「ここ、天ぷらが美味しいのよねー。でも、ビールは玲がダメって言うしなぁ……。あ、二人は何にする? 好き嫌い無いなら私がテキトウにお勧め選んじゃうけど?」

 半ば強引に天ぷら定食になってしまった。

 

 

「天ぷら定食四人前ね。後アイスコーヒーのおかわり下さいな」

 カオルさんは注文を済ませちょっとお手洗いと席を外してしまった。残された私達には微妙な沈黙が残る。それを最初に破ったのは川崎先生だった。

「ごめんなさいね。カオルってばマイペースだから……」

 川崎先生は軽い溜息を吐きながらカオルさんを弁護する。

「私達ね、美羽ちゃんの話をする時は出来るだけ明るくしようって決めているの。美羽ちゃんが私達を気遣ってくれたように私達も美羽ちゃんに恥ずかしくないようにって……」

「だけど中々これが難しくてね。だからきっとカオルにもちょっとクールダウンする時間が必要だったのよ。それと……日向先生にもね……」

 そっか、この人達はお互いを思い遣っているんだ。私にもきっとこの時間は必要な物だ。熱くならず。冷静に知らなければいけないんだ。どんな事実でも日向先生を救う為に。

 日向先生は青い顔で震えている。その手をぎゅっと握る。大丈夫。もう一人じゃない。彼も美羽お姉ちゃんが死の間際でも幸せだったと言えた世界に近付いているのだから。

 彼は少しだけ私の手を見つめた後、そっと手を払う……。だけど彼の震えは止まっていた。

 そうしているとカオルさんが戻って来る。

「あの!」

 私は声を上げる。

「川崎先生、カオルさん、ありがとうございます!」

 我慢出来ずにお礼を言う。二人は目を合わせて笑った。人は不思議な生き物だ。不安になったり、泣いたり、怒ったり、笑ったり、感動したり、恥ずかしくなったり……沢山の複雑な感情をほんの二~三十分程度で経験してしまう。

 神様は何を思ってこんな生き物を創ったのだろう?

「ねぇねぇ、死神さん……か……」

 美羽お姉ちゃんは死の神様に何を聞いていたのだろうか?そんな複雑な事を考えていると胃をくすぐる匂いと共に天ぷら定食が運ばれて来た。

「ふー、やっと来た。お腹ペコペコだったのよねぇ。本当ココの天ぷら美味しいからじゃんじゃん食べて!」

 カオルさんは無邪気に言う。

「いただきます」

 三人が声をあげる。日向さんは黙ったまま箸を取った。

「あら、日向先生。それはいけないわ」

 カオルさんが日向さんに待ったをかける。

「ちゃんと『いただきます』って言わないと!」

 まるでお母さんの様に言って聞かせる。

「いただきます……」

 呟くように日向先生が『いただきます』を口にする。

「はい、よろしい。これからもちゃんと食べる時はいただきますって言うのよ?」

 日向先生はそのまま黙々と食べていた。

「もう、愛想が無いと言うかなんと言うか……いつもこうなの?」

 カオルさんは会話していないと落ち着かないのか私に話を振ってくる。

「ええ、まぁ……普段はもっと酷い時もあるような……」

 あははと、苦笑いで答える。

「良く担当続けていられるわねー。私だったら一日でギブアップかも……」

 私は本人を前にそこまで言えるカオルさんがすごいと思います。

「まぁ、当事も相当ひねくれていたみたいだけどね」

 日向先生の箸が止まる。

「当事の日向さんを知っているんですか?」

 私は当時の彼を知らない。同じ場所に居たはずなのに。美羽お姉ちゃんが倒れたあの日、あの場所に。

「んー、知っていると言うか人から聞いたって感じかな。舞子がよく愚痴っていたから」

「カオルさんと舞子さんは知り合いなんですか?」

「知り合いも何も数十年来の悪友よ」

 黙って天ぷら定食を食べていた川崎先生が口を挟む。

「あ、悪友って……まぁ……玲にも沢山迷惑かけたけれども……」

「本当、美羽ちゃんの一件以来二人は患者さんに熱くなり過ぎる体があってね? 本当色々やってくれたのよ……。夜中に病人を連れ回したり、日が暮れるまで四葉のクローバー探しをさせられたり」

「う……。玲は逆に冷たくなったわよね……結局サナトリウムも小児病棟も壊してあんな大病院建てちゃうし」

「私はあなた達みたいに強くないからね」

 二人の会話に完全に置いていかれてしまっていたけれど何だか二人の関係が少し羨ましかった。

「あれ? でも……。その舞子さんは今どうしているんですか?」

 そうだ、私は舞子さんにも会いたい。あの人は美羽ちゃんと一番近かった人のはずだから。

「舞子ねぇ……今どうしているのかしら……?」

 カオルさんが川崎先生に聞く。

「さぁ? 今はどこに居るのか……こないだはベトナムとか言っていたわよね?」

 べ、ベトナム!? 思わぬ名前が出て咽そうになる。

「そそ、それで今度はカンボジアだっけ? とにかく国際ボランティアとか言って世界中飛び回っているわ」

 舞子さんらしいと言うかなんと言うか……。

「本当。四葉総合病院の婦長の話を蹴ってそんな危ない事して回っているんだもの、呆れちゃうわ」

 川崎先生はしれっと言う。

「そんな!国際ボランティアなんてすごいじゃないですか!」

 私は声を荒げてしまう。舞子さんはすごい。そんな善意を馬鹿にされているようで腹が立ったのだ。

「確かにすごいわね。とても私達には真似出来ないくらい。偉いわよ。あの子は……。だからこそ玲は嫌なのよね」

 カオルさんが言う。一体何が嫌なのだろう?自分の友達がそんな事をしていたら胸を張れるんじゃないだろうか?

「ええ、舞子は無鉄砲だからね……。目の届く所に居てくれないと、何しでかすかわからないし。まだ医療が確立されていない所でのボランティアなんて……。いつ死んでもおかしく無い。だから私は絶対的な地位と、お給料まで用意したのにあっさりそれを蹴って行っちゃったのよ。あの子」

 川崎先生は川崎先生なりに友人を心配していたのだ。私は全然考えの違う人とこうやって話をしている事がすごくありがたく思えた。今までと違った世界が開けていく。日向さんもそうであると良いなと思った。

「何だか素敵な関係ですね」

「ないない」

「ないない」

 二人が口を揃えて言う。その姿が面白くて、微笑ましくて、暖かかった。日向さんはまだ日陰でこっちを見ている。早くこっちに来れば良いのに。

「ごちそうさま」

 日向さんが突然そう呟く。見ると天ぷら定食は綺麗に無くなっていた。それより今『ごちそうさま』って言った!? 私の手料理にも何にも言わなかったクセに……。心の中がざわざわする。

「あら、早いわね。さすが男の子」

 そんな驚きをよそにカオルさんは言う。

 カオルさんと私は半分以上残っていた。川崎先生は食べるのが早いのかもう少しで食べ終わりそうだ。

「カオルはぺちゃくちゃ喋っているから遅いのよ」

 川崎先生が言う。

「あら、ゆっくり食べた方が体に良いし太らないわよ?それに、お喋りしながら食べる方が楽しいじゃない?ね?慧ちゃん」

「そうですね。私も喋りながら食べる方が好きです」

 正直に答える。

「ですってよ。日向先生? ほら、もっとおしゃべりにならないと!」

 あろう事かカオルさんは日向さんにそんな話を振る。

「な、俺は別に食えればなんでも……」

「そういう話をしているんじゃ無いんだけどなぁ」

 カオルさんがにやにやしながら私達を見ている。私達にそんな浮いた話を期待されても……。

「ま、良いわ。積もる話もあるでしょうしささっと食べちゃいますかね」

 そう言って「やっぱ美味しい」とか「エビはやっぱり最後よね」とか喋りながら私達も食べ終えた。

 食べ終えた食器を片付けに来てくれた店員さんに「ごちそうさま」とカオルさんは言う。

「ほらほら、みんなも……」

 そう言って勧められるまま

「ごちそうさまでした」

 と言う。そうすると店員さんは

「おそまつさまでした」

 とにっこり笑って言ってくれた。それが何だかくすぐったいけれど気持ち良い。

「ここの店員さん良く出来ているでしょ?」

 突然カオルさんがそんな風に言う。

「え、そう言えば対応とか丁寧で親切ですよね」

「まあそれも重要なんだけどね……。他にも色々あるのよ。まぁ、あなた達もこれからの人生で学んでゆくでしょう」

「また、そんな悟った様な事言って。美羽ちゃんの受け売りのクセに」

「う……。でもやっぱり『いただきます』や『ごちそうさま』は言ってもらえると気持ち良いものだものね。言葉ってやっぱり大事なんだわ。その中でも挨拶は基本だからこそ、かかしちゃいけないと思うのよ」

 そっか……。私は自分の小説に難しい言葉や難解な表現で無理やり『文学的』に仕上げようとしていた。でもこういう『基本の言葉』自体を見失っていたかもしれない。

「さ、本題に入りましょう。まずは傘丘 日向先生。さっきの名前で呼ばれるのは気に入らないみたいだから、日向先生と呼ばせてもらうけれど。美羽ちゃんはあなたを心配していたのは確かよ。さっき言っていた様に、当事あなたは、頭に傷を負い、腕を骨折して入院していたわよね?」

 皆の視線が日向さんに注がれる。

「はい……」

 日向さんは静かに答えた。

「やっぱり……。それならあなたはそんなに自分を責めないで。美羽ちゃんの声はもう聞けないけれど。あの子が自分の物語で誰かを不幸にするなんて望むわけ無いから。私はあなたの事を良く知っているわけじゃないから、あなたを弁護したいわけじゃない。これは『お願い』なの。私は美羽ちゃんの為に言っているの」

 カオルさんの言葉は容赦が無かった。だけどやっぱり私と同じ意見だ。それが嬉しい。

「私は最初、『白詰草』は慧さんが書いた物だと思っていたのだけれどね」

 川崎先生が静かに言う。

「私には才能無くて……」

 私は苦笑いで返すしか無かった。努力もしたし、沢山勉強もしたけれど結果は付いて来なかった。

「あらあら、でも諦められなくて編集社で、お仕事しているんでしょう?」

 カオルさんがさっき言った言葉を口にする。口ではなんとでも言えるけれど、私には自信が無い。

「そうなんですけどね……やっぱり、日向さんには敵わなくて……」

 また、苦笑い。いつの間にか私が追い詰められている。

「俺にだって才能なんて無いよ。現に新しい物は書けていないじゃないか」

 日向さんから思わぬ言葉が飛んで来た。

「ふふ、あなた達やっと人間らしくなって来たじゃない」

 カオルさんが突然変な事を言う。日向さんは、確かに愛想は無いし、おかしな所もあるけれど普通に人間だ。私だって普通の人間なはずだ。非凡で取り得なんて行動力くらいしかないけれど人間だ。

「それはどういう意味ですか?」

 私の声が少し乱暴に出る。

「そのままの意味よ。人は他人に認められて始めて人間になれるのよ」

 人間……。一体何を言っているのだろう。私にはわからない。

「お互いがお互いを思いやり、尊重し、互いを認める。それは人と人の繋がり。言の葉を操る人間だからこそ出来る事。それが出来るから人間なんだって……美羽ちゃんは言っていたわ」

 美羽さんの言葉……。

「そして日向先生が言った言葉は、卑屈だけれど間違いなく慧ちゃんを思いやっていた。私が見ていた限りでは今までの日向先生は他人に興味なんて無かった様に見えたけれどね」

 日向先生は否定も肯定もしない。私も言葉が見つからない。

「私達には神様の考えなんてわからないけれど、せっかく貰った能力なんだから上手く使いたいよね。美羽ちゃんはそう言って言の葉使いになりたいと、夢を語ったわ」

 言の葉使い……。最後に私達に紙芝居を読んでくれた日に教えてくれた美羽さんの夢。彼女は自分がもうすぐ死ぬと知っていたのに、私の夢を優しく受け入れ、その上で自分の夢を話してくれた。叶わないと知っていたのに……。

「美羽お姉ちゃんは、どうしてそんなに強いんでしょうか……?」

 私は言葉を上手く扱えない。日向先生を救う力も、自分の夢を掴む力も無い。美羽お姉ちゃんの強さが羨ましい。十六歳の女の子にすら敵わない自分が歯痒い。

「美羽ちゃんが特別強かったわけじゃないわ。彼女は色々な人に支えられ、それに気付けたから強くなれた。誰かを思いやる。それは誰かの為に自分を傷つける事になっても、それを選べる強さ。そして思われた相手もまた相手を思いやる。そうして無限に広がってゆく。それが美羽ちゃんと舞子が持っていた物。そしてそれは私や、玲、優さんや、日向先生、慧ちゃんに広がって『白詰草』はこの町や、全国、世界にも伝わっているわ」

 カオルさんの言葉と美羽お姉ちゃんの言葉が降り積もってゆく。

「だけど……俺は……」

 日向さんはまだ割り切れていないようだ。

「まぁ、そんなにすぐには許せないわよね。自分の罪は自分が一番重く受け止めてしまう物。玲だって、それであんな大病院まで建てたわけだしね」

「な、私は……そんな訳では……」

 川崎先生が言いよどむ。

「あら、美羽ちゃんに泣いて死を告げた事を後悔して、あの病院を作ったのでしょう?」

「そうなのだけれど……。やっぱりそれで許されたとは思えないわ」

「そ、この通りみんな中々割り切れない物なのよ。さて、そろそろもう一人の罪人を呼びましょうかね」

 もう一人の罪人? 私は唖然としている事しか出来なかった。カオルさんは何を思ったか店員さんを呼ぶ。

「マスター呼んで来て」

 そう言ってアイスコーヒーに口を付ける。

「あ、そうそう。日向先生。深呼吸しておいてね」

「え?」

 意味がわからなかった。この人は何を知っているのだろうか。

 そしてノックの音と共にあの渋い声が聞こえてきた。

「失礼します」

 全員の視線が扉に注がれる。

「うわぁぁぁぁぁぁ!」

 瞬間、男の人の叫び声が聞こえた。日向さんが扉とは反対の壁に後ずさり。叫んでいた。

「やっぱり……」

 カオルさんはこちら側に来て日向さんを抱きしめる。

「落ち着いて、もう大丈夫だから……」

 そうやって日向さんをなだめた。それを重い表情で見ているマスターと呼ばれた男性。

「な、なんで……お前が……」

 日向さんが搾り出すように声にする。その声は震えていた。

「く、すまない。いや、ごめんなさい」

 そう言ってマスターと呼ばれた男性は土下座をする。

「ふざけるなぁ!」

 日向さんが叫ぶ。私は何が起きているのかまだ理解出来ずにいた。

「許されるとは思っていない。だけど、俺には謝ることしか出来ないんだ……」

 ただひたすら床に顔を付けたまま、マスターと呼ばれた男性は謝り続ける。ごめんなさい。ごめんなさい。と……。

「彼はね……。加山(カヤマ) 宗一(ソウイチ)青埼十字孤児院で日向先生を虐待していたのよ」

 カオルさんが私に説明してくれる。虐待。私には縁の無かった言葉。そうだ世界は優しさだけで溢れている訳じゃないんだ……。私には何が出来るのだろう? この場で私には何が? いくら考えても何も出来なかった。

 カオルさんの様に日向さんを抱きしめる事も美羽お姉ちゃんの様に言葉で人の心を動かす事も。

「そんな……酷いですよ……。そんなの……」

 そう呟く事しか出来ない自分が歯痒い。

「そうね、酷い事ね。でも、彼は今、この店を経営して孤児院の子達を働かせてあげたり、御馳走してあげたりしているわ。だけど今も苦しんでいる。自分の罪を許せずにね。それは今の日向先生にならわかるでしょう?」

 カオルさんは日向さんに言う。確かに日向さんも自分を責めていた。だけど……こんなの……。

「それにね、彼が更生したのもあなた達と無関係では無いのよ? ちょうど日向先生が過度の虐待による骨折で運びこまれた日が美羽ちゃんの公演の日だったの。そして彼は日向先生が治療を受けている間に、美羽ちゃんの物語を聞いた。それで彼は自分を見つめ直し、自首をした」

「さて、これは偶然なのか、奇跡なのか、必然なのか……どれかはわからないけれど私達は一人の女の子を通じてここに集まった。私は美羽ちゃんに関わった人間として、ここに居るみんなに幸せになってもらいたい。例え誰かを許せなくても……。自分を許せなくても……。ここからどうしてゆくかはあなた達次第だけれど、私は今日話したこと、行った事を後悔はしない。美羽ちゃんや舞子の様に上手くは出来ないけれど、これが私の精一杯だから」

 そうやって誇らしげにカオルさんは言う。

「さて、みんな色々な思いがあるだろうけれど、今日はこの辺でお開きにしましょう。あ、日向先生と慧ちゃんはこれから私の家に来ない?もう夜も遅いし、こっち泊まって行きなさいよ」

 呆然とする私達を強引にこっちの世界に引き戻すカオルさん。

 最後まで加山 宗一さんは顔をあげなかった。

「ちょっと先に行っていて」

 そう言ってカオルさんは私達を先に店の外に出す。私と、日向先生と、川崎先生、この微妙な三人はさっきより重い沈黙に包まれていた。外はすっかり暗くなり近くを走る車さえまったく無く。ちょっと遠くを見れば果てしない闇だった。まるで今の私達みたいだ。

「私、明日も早いからそろそろお暇させていただくわ」

 川崎先生はそう言って去ろうとする。

「あ……、今日は突然押しかけてすみませんでした」

 私は精一杯思いついた事を口にする。本当は頭の中は色々な事がぐちゃぐちゃに回って何を言って良いかわからない。

「いえいえ、私は改めて自分を見つめ直す良い機会になったわ。ありがとう」

「あなた達に四葉の加護がありますように。それじゃあ、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 私はなんとか挨拶を搾り出した。そうして川崎先生は自分の車に乗ってさっさと行ってしまった。

 店の灯りだけが頼りない。その入り口に私と日向さんは居る。私はかける言葉が見つけられない。沈黙が重い。

「なぁ……」

 日向さんが手すりに手を付いて虚空に口を開く。

「なんですか?」

 私は『聞いていますよ』という意思表示をする。

「俺、かっこ悪いよな」

「そんなに悪くは無いと思いますよ?髪切ってからは……」

 バツが悪くてわざと見た目の事を言う。

「はは……昔は見た目もかっこ悪かったんだな」

 乾いた笑い。だけどこの人が私と会話している時に笑うなんて初めてだった。

「かっこ悪いついでにもう少しだけ聞いてくれないか?」

 酷く頼りなく震えた声が静かな夜に澄んで聞こえてくる。

「俺さ、アイツが出て来た時……恐くてさ……恐くて、恐くて、どうしようもなくてさ……」

 日向さんの言葉が聞こえる度に心が軋む音が聞こえる様だ。

「椅子を振り上げて、何度も、何度も、殴られたんだ。泣いても喚いても殴られるだけでさ……」

 ポツポツと鉄骨の手すりに黒い染みが広がっていく。

「本当は……俺……美羽さんに恋していたんだ。だけど目の前で倒れて……俺には何にも出来なくて……。駆け寄ることも出来なくて……。あの人からのプレゼントだって四葉のクローバーのしおりを渡された時すげー嬉しくてさ」

 私はただ聞いているしか出来無いでいた。

「だけど、同時に悲しくて。俺なんかが届く様な人じゃ無いって思うだけで苦しくて、俺は彼女を殺したんだ。プレゼントは大人の嘘にして。彼女は死んだ事にした。そうして悲劇の主人公のフリをして、彼女の物語を勝手に思い起こしで書いた」

「そう……ですか……」

「だけど寝る度に彼女が責めるんだ。すげー綺麗な笑顔で『私の物語で大金持ちになって羨ましいわ』って……。それとは裏腹に本は売れてどんどん騒ぎが大きくなって……。いつか責められる。気付かれる。って今度はビクビクしながら過ごして……」

 もう、限界だった。私は彼を抱きしめる。これ以上聞いていられない。彼はもう十分苦しんだ。

「もう、良いんです。美羽お姉ちゃんはカオルさんや川崎先生が教えてくれた様にあなたをそんな風に恨んだりしないです。だからもう苦しまないで……。どうしても苦しくなったらこうしてまた吐き出せば良いですから……。一人で悩まないで……」

 私は涙が溢れるのを止められなかった。気付けば雨が降っている。

「なぁ……」

 彼は消え入りそうな声で呟く。

「ありがとう」

 


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