2.婚約破棄と挙手(後編)
(……は!?)
戻っていた思考力は今度こそ私を驚愕させた。
表情に出すのはなんとか堪えるものの、なにを言うのかとダレル殿下を見上げる。
ようやく私を動揺させることができて嬉しかったのか、ダレル殿下はにんまりと笑みを浮かべた。
(……いや、これじゃあ、帰れないじゃない!!)
婚約破棄され、仕事をする必要はなくなった。ならとっとと帰って昼寝でもしたいのに、ダレル殿下のひと言で広間の空気は硬直した。
これは、私が一番嫌いな空気――。
(『会議中に偉い人がノリノリで言ったクソクソ案を誰も却下できなくて時間だけが過ぎる状態(略して〝ノリクソ状態〟)』じゃないのっ!!)
そっと周囲を見まわせば、貴族たちはうつむいて表情を隠しながら目配せをかわしあっている。
完全に「誰か何か言ってくれないかな、自分は怖くて言えないけど……」の空気だ。
いつもの会議なら、「騎士団を集めて俺のありがたい講話を聞かせれば士気も上がるんじゃないか」などといったダレル殿下のノリクソ案はいったん私が預かり、ダレル殿下の熱が消えた頃に再確認して「なんだか面倒になってきたな」を引きだし、闇に葬り去る。
しかし、
(残念ながら今回の議題は私――!)
決裁権は私にない。
私が私の夫に名乗りをあげて、ダレル殿下の気がすむまでかくまってあげることはできない。
結婚というのは貴族にとって、重大な政略上の判断である。
己ひとりの一存で決めるわけにはいかないし、たったいまダレル殿下から婚約破棄された令嬢の夫に立候補するということは、第二王子にたてつくことにもなる。このネチネチした性格で嫌がらせを受ける可能性が高い。
手をあげる者など、いるわけがない。
この重苦しい沈黙は、それを私にわからせるためのものだ。
お前はキズモノになったのだと、俺に捨てられたお前を望む者など誰もいないのだと――。
そんなこと、わざわざ言われなくてもわかっている。
(つまり、無駄な時間……っ!!)
私は青ざめて頭を抱えた。ますますダレル殿下を調子づかせるとわかっていても、こらえることができなかった。
ああ、帰って寝たい……。
「ふふん、いないか。いるわけがないな、俺に捨てられた令嬢を引きとる物好きな人間など。だいたいサーラ、お前は――」
ダレル殿下が私を見て、笑みを深めた。さらに追い詰める言葉が紡がれようとする。
その時だった。
「では私が夫となります」
静まり返っていた広間に、よく通る声が響いた。
「え」
「え」
「え」
私とダレル殿下、それにレティアは、同時に振り向き、驚きに息を呑んだ。
気まずそうに成り行きを見守っていた貴族たちの最前列で、高々と手があがっている。
周囲よりも頭一つ分高い長身に、流れるような亜麻色の髪を肩のあたりでまとめ、背中に物差しでも入っていそうな美しい立ち姿。
亜麻色の髪の合間から、深い青の瞳が物怖じもせずこちらを見つめる。
「ゼンコールド公爵……」
「はい。ベネディクト・ゼンコールドと申します」
私の呟きに、ゼンコールド公爵は名乗り、貴族たちの輪を離れて中央に進み出た。
しかし、名乗らなくとも誰もが知っている。
ベネディクト・ゼンコールド――『救国の英雄』。
十二年前、王都を襲った火炎竜を弱冠二十歳の若さで退け、褒賞に国境沿いの公爵領を与えられた。
その公爵領を守りつつ、現在も騎士団長として魔獣を相手に功績を挙げ続けていると聞く。
(お話をするのは初めてだわ)
十二年前に二十歳だったということは、今は三十二歳。落ち着いたたたずまいは死線をくぐり抜けた貫禄を備えている。
たしかにゼンコールド公爵なら、ダレル殿下に睨まれたところで痛くも痒くもない。国防の一角を担うこの方には、第二王子といえども――いえ、王家の一員だからこそ、頭があがらないのだ。
ゼンコールド公爵がダレル殿下を一瞥した。
鋭く険しいまなざしに、ダレル殿下がびくりと肩を震わせる。
(ダレル殿下に意見を述べるおつもりかしら)
けれど、ゼンコールド公爵は体の向きを変え、私の手をとった。
(ん?)
「では、私どもはこれにて」
そっと手を引かれる。
優雅でやさしい仕草だった。思わず従ってしまったほどに。
ゼンコールド公爵はダレル殿下とレティアに一礼をして、私をエスコートして広間を横切り、自分で扉を開けて出ていった。
もちろん、私もいっしょだ。
ぽかんとする私の手をとったまま、ゼンコールド公爵は廊下を歩き、玄関ホールを出て、馬車に乗った。




