五話『死なせない』
――毒属性。
実際には毒ではなく、酸素だ。酸素濃度を高くし、結果として毒性を生み出しているから「毒属性」だと勘違いされたのだろう。だとしたら、他にも既存の常識とは異なる正体を持つ魔法がある可能性は十分にある。
「そういえばここ、魔道具店なのに星象かん……っ、むぐっ!?」
メグルが星象鑑定の魔道具がないことを店主に言おうとした、その時だった。
シオンの華奢な指が、メグルの口を強引に塞ぐ。あまりにも突然のこと、そして手のひら越しに伝わってくる柔らかな体温に、メグルの頭は真っ白になりそうだった。
「星象のことは、あまり口に出さないで」
シオンが透き通るような小さな声で、耳元に囁く。
至近距離から注がれる冷徹なまでの真剣さと、耳元をくすぐる吐息の熱。メグルはトドメを刺されたように硬直し、目の前真っ暗になった。
瞼を開けると、そこは見覚えのない場所だった。
異世界に来てからというもの、どの場所も知らないことには変わりないが、少なくとも今いるここは先ほどの魔道具店ではない。天井は高く、近くには食堂らしき場所がある。反対側には掲示板に複数の紙が貼ってあり、何やら文字らしきものが書かれていた。
「いきなり倒れるからびっくりした。調子はどう?」
心配した様子で隣に座っているシオンが、長椅子に横たわっていた僕に声をかけた。
――いったい誰のせいだと。
喉まで出かかったその言葉を、メグルは辛うじて飲み込む。まさか「女の子に耳元で囁かれてキャパオーバーで気絶しました」なんて、口が裂けても言えるはずがない。
「さっきはごめん。星象の話をすると、少しややこしくなるから……」
シオンは申し訳なさそうな顔と声で、メグルに謝罪した。なぜややこしくなるのかは気になるが、それよりも今のメグルにとっては、この場所の正体の方が重要だった。
「……ここって、どこですか?」
「ここは冒険者ギルド。言いたいことがあったから、ここまで運んだ」
シオンは凛とした表情でこちらを見つめてくる。その真っ直ぐな視線に、メグルは嫌な予感を隠せなかった。
「私と一緒に、冒険者やらない?」
「嫌です」
シオンの願いに、メグルは即答した。あまりの速さに、シオンは困惑の表情を浮かべる。先ほどの「気絶」の仕返しができたような気分になり、メグルは心の中で少しだけ優越感に浸った。
「メグルをこのまま一人にするのは危ないし、だからといって、私も稼がなくちゃいけないから。……だから、お願い」
シオンは獣人特有の耳を下げながら、真剣な顔で説得を試みてくる。その捨てられた子犬のような表情に一瞬怯みそうになるが、メグルも譲れない。
「それで僕が死んだら、本末転倒じゃないですか」
命の危険がある場所に、自ら飛び込むような真似はしたくない。彼女には良くしてもらっているが、それとこれとは話が別だ。何より、自分には「毒属性」という、まだ未知数で不確かな武器しかないのだから。
「いや、絶対に死なせない」
その言葉には、不思議な重みがあった。
根拠なんてどこにもないはずなのに、彼女が言うと、本当に自分は死なないのではないか――そんな錯覚を抱かせるほどの、強い意志がこもっていた。
「口だけならなんとでも言えます」
しかし、メグルは感情よりも理屈を優先する。シオンの言葉に「本当に大丈夫だ」と思わされる不可思議な説得力はあったが、そもそも彼女の強さがどれほどなのか、客観的なデータが何一つない。このまま流されるように同行するのは、生存戦略としてあまりに危険すぎた。
「わかった。じゃあ、ついてきて」
メグルの疑念を察したのか、シオンは意を決したように拳を握りしめて席を立った。そのまま迷いのない足取りで、ギルドの隅で一人、弓の手入れをしていた青年の方向へと向かっていく。
その青年は、周囲の喧騒から距離を置き、手元にある弓のコンディションを静かに確認していた。傍らの矢筒には、手入れの行き届いた鋭い矢が並んでいる。
「ねぇ、私と勝負しない?」
「えっ!?」
シオンが自信満々に、突如として勝負を仕掛けた。
青年は、弦を張ろうとしていた手を止め、見ず知らずの少女から突きつけられた唐突な挑戦状に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
「あぁ、勝負ね。あまりにも急なことだったから、少し取り乱してしまったよ」
白髪に黒い瞳、そして計り知れない雰囲気を纏ったその青年は、美青年とでも呼ぶべき整った顔立ちをしていた。驚いた表情を見せたのも束の間、彼はすぐに通常運転の冷静さを取り戻す。
「勝負って、何の勝負だい?」
視線でわかる。こちらを探るような目だ。
相手の出方を伺い、本質を見抜こうとするようなこの視線――異世界に来る前から、嫌というほど浴びてきたから嫌でも理解できてしまう。自分なりに視線がバレないよう工夫はしているつもりだが、彼はそれすらも見透かしているようだった。
「私たち二人と真剣勝負。降参した方が負け」
「……どんな状況でも、降参しなかったら?」
「殺していいよ」
シオンの条件に、青年が冷静な疑問をぶつける。
それに対し、あまりにもあっさりと「殺していい」などという物騒な言葉を投げ返す彼女。メグルはその隣で、心底からの恐怖を感じていた。
「そんな話聞いてないよ…」
メグルは完全に蚊帳の外だった。
「勝負っていうか殺し合いだろ? お嬢さんは見ればそれなりに強いのは分かるけど、そこの少年は足手まといにしかならないんじゃない?」
青年は困ったように頭を掻きながら、率直な疑問を吐き出す。
当たり前の評価だ。大した魔力もない高校生が、武器を持った実戦慣れした相手に勝てるはずがないし、シオンの高度な動きをサポートできるほどの器用さもないだろう。
「大丈夫。手加減みたいなものだから」
シオンは揺るぎない自信に満ち溢れた声で答えた。
正直、勝手に参加させられた上に、公衆の面前でお荷物扱いを受ける。これほどまでに理不尽なことが他にあるだろうか。
「随分となめられたものだな……。まぁいいよ。勝った方の報酬はどうする?」
青年は苦笑しながらも、その瞳の奥に鋭い光を宿らせた。なめられていると自覚しながら、それすらも「面白い」と受け入れる度量があるらしい。
「私たちが勝ったら、一緒にクエストを受けてほしい」
シオンが真っ直ぐに条件を提示する。彼女の狙いは最初からこれだったのか、それともこき使うだけか。
「じゃあ、僕が勝ったら金貨三枚ね」
金貨三枚。今の僕にはその価値が正確には分からないが、お互い同価値の報酬を提示したのだろう。
「交渉成立ということで……場所を移動するよ。僕をクエストに連れて行くのなら、そこの少年を複数人の相手から守れないといけないからね」
互いの利害が一致し、青年は不穏な言葉を残した。
ついてこいと言わんばかりの足取りで、彼はギルドの奥へと歩き出す。
青年の後をついて行った先には、見覚えのある森が広がっていた。村を出てどこへ行くのかと思えば、まさか最初に出会ったあの森に戻ってくることになるとは。
「ここは魔獣も多いし障害物も多い。魔獣と僕、その両方に襲われながら、その少年を守りきれる?」
青年は弓を軽く回しながら、試すような視線を向けてくる。
「魔獣に襲われるのは、あなたも一緒でしょ」
シオンが冷ややかに言い返すと、青年は「確かにそうだね」と事もなげに笑った。
「大した脅威ではないからいいけど……。さて、少年。君が死ぬか、お嬢さんが降参するか。どっちだろうね」
青年は不敵な笑みでこちらを観察する。二人の間に、張り詰めた沈黙が走った。
「じゃあ、勝負始め!頑張って探してみてね。」
青年は手を振りながら、驚くほど軽やかな足取りで森の中へと消えていった。
あまりに唐突な開始に、メグルの頭の中は疑問と焦燥で埋め尽くされる。この『正路の森』は、不慣れな者が入ればたちまち方向を見失うが、彼のような熟練者にとっては勝手知ったる庭のようなものなのだろう。迷う素振りすら見せないその背中には、圧倒的な経験の差が滲み出ていた。
さらに不気味なのは、シオンとこの森を歩いていた時には魔獣の気配が一切なかったことだ。あの静寂はただの運だったのか、それとも彼女の存在が魔獣を遠ざけていただけなのか。少なくとも、今のこの森からは、先ほどとは明らかに違う「生物の息遣い」が何重にも重なって聞こえてくる。
メグルがそんな思考を巡らせている間にも、無情に勝負の時間は刻まれていく。




