一話『サムタイム』
身体が痛い。やはり、ソファーで寝るべきではなかった。
そのように後悔を募らせながら、少年はゆっくりと瞼を開ける。
――だが、視界に飛び込んできたのは、見慣れた自室の壁ではなかった。
そこは、森にぐるりと囲まれた、広大な花畑だった。
そして、その色鮮やかな景色がよく似合う美しい少女がそこに立っている。
あまりの光景に、情報を脳で処理しきれない。
「あ、やっと起きた。体調はどう?」
淡い青髪と青い瞳。その落ち着いた容姿にふさわしい、優しく涼し気な声が少年の耳に透き通る。
「はい、大丈夫です」
慌てて体を起こしながら答えたものの、緊張と混乱で、堅苦しい返答しかできなかった。
「……そっか。なら、よかった」
少女は一瞬、パチクリと青い瞳を瞬かせ、涼しげに微笑んだ。
「すみません、その、ここはどこですか?」
少年は愛くるしい困った表情で問いかけながら、さりげなく少女の様子を観察する。
正直、相手が信用できるかもわからないが、あまりにも情報が少なすぎる。少しでも判断材料を増やしておきたい。
彼女を見て、ある違和感に気づいた。
少年より頭1つ分ほど背の高い彼女の淡い青髪の隙間から覗くそれは、人間のものではなく、細かな毛に覆われた獣の耳だったのだ。
今までこの場所が分からなかったが――いや、今も正確な場所など分からない。
だが、ここが昨日までいた世界ではないことだけは、嫌というほど理解できた。
「ここは正路の森。よく迷子になる人がいるから、私がたまに入ってこうやって助けてるの」
彼女は慣れたように説明をする。きっと何人も迷子になったのだろう。
しかし、その説明を聞いてもあまりピンと来ない。
もちろんここが異世界であるということに気づいて話の内容が上手く入ってこないというのもある。
――それもあるが、しょうじの森?
森が破けたりでもするのか?
あまりにも現実離れした情報の数々に、少年の思考は置いてけぼりを食らっていた。
「破けたりするんですか?」
「?」
「いえ、気のせいでした」
自分の思っていることが的外れだとわかり、少し耳が赤くなる。
「私の名前シオンって言うの。あなたの名前、聞いてもいい?」
恥ずかしさで耳が熱くなっているのを見咎める様子もなく、彼女は小首を傾げてそう問いかけた。
目の前の少女――シオンが、何か悪い嘘をついているようには見えない。だが、見知らぬ場所で正体のわからない相手に、本名を教えていいものだろうか。
だが、ここで名前を答えず相手に怪しまれるような行動はとりたくない。
苗字を隠して下の名前だけなら問題ないはず、というよくわからない持論を盾にして、少年は口を開いた。
「……メグルです」
そう名乗った瞬間、それまでどこか掴みどころのなかった彼女の空気が一変した。
不意に、重苦しい沈黙が二人の間に流れる。
「……いい名前だね」
ぽつりと呟いたシオンは、さっきまでの態度からは想像もできないほど、ひどく不器用な微笑みを浮かべていた。
「そういえば、あなたはどこから来たの? 場所を教えてくれたら私が案内できるよ?」
シオンの問いかけに、メグルは一瞬思考を巡らせる。
自分が別の世界から来た人間だと知られたら、どんな不利益を被るか分からない。最悪の場合、不審者として捕まるか、あるいは奇異の目で見られるだけだ。
「僕、気づいたらここにいて……あんまり前の記憶とかないんですよね」
メグルは表情一つ変えずに、平然と嘘をついた。
その嘘を聞いたシオンは、ずっと落ち着いた表情を浮かべていた。
「そっか。そしたらこの森の近くの村に案内するから、話しながら歩こ」
シオンはそう言うと、頭の上の獣耳をピクピクと揺らしながら、迷いのない足取りで歩き出した。
見知らぬ異世界、正体のわからない獣耳の少女。ついていくことに強い不安がないと言えば嘘になる。
だが、このまま一人で不気味な森を彷徨えば、水も食料もなく野垂れ死ぬか、あるいは凶暴な野生動物の餌食になるだろう。
巡は冷静に現状を天秤にかけ、彼女の後ろ姿についていくことを選択した。
「そういえば、この森の外の世界ってどうなってるんですか?」
歩きながら、メグルは記憶喪失のフリを続けつつ、さりげなく情報を探るように尋ねた。
「この森の外には小さな村があって、そこでは、食料の調達とか星象鑑定が出来るよ」
前を歩くシオンは、振り返ることなくそう答える。
「せいしょうかんてい?」
「そ、星象は生まれ持った特殊な能力のこと。それを鑑定するの。まぁ、星象を持っている人はごく一部だけど」
異世界系によくあるスキルみたいなものだろう自分が持っている自信はないが念のためやっておく価値はあるか。
「そういえば、シオンさんはどうしてこの森で迷子になる人を助けたりするんですか?」
メグルは歩調を合わせながら、単純な疑問をシオンに問いかけた。
こんな何があるか分からない森を平然と歩き、見ず知らずの人をためらいなく助ける。彼女が一体何を考えているか疑問に思ったからだ。
「この森で迷子になっている人を助ける団体に入っているの。そこではお給料も貰えるから仕事みたいな感じ」
シオンは淡々とした口調でそう言った。
ボランティアじゃなくて、ちゃんとした組織の仕事なら、見ず知らずの僕を拾って案内してくれるのも納得がいく。
メグルは腑に落ちたように小さく頷いた。彼女がただの「お人好し」ではなく、明確な目的と身分を持って動いていると分かり、ついていくことへの不信感が少しだけ薄れる。
「へえ、そういう団体があるんですね。行き倒れる人が多い森なんですか?」
「うん。時々。……本当に、時々だけど」
シオンは表情一つ変えずに答えた。




