第九四話 まず、逃げろ
翌朝。
王都訓練場。
まだ日が高くなる前だというのに、若い騎士たちはすでに整列していた。
昨日の衝撃がまだ残っている。
拳一発で鎧に拳痕。
王直属騎士が十メートル吹き飛ばされた光景は、一晩で訓練場中に広まった。
「今日から本格的に始まるらしい」
「何をやるんだ」
「剣術か、魔力制御か……」
「アレン殿かレオン殿が最初じゃないか?」
誰もがそう思っていた。
中央にはアレン。
その横にレオン。
少し離れてユウ。
一番やる気がなさそうなのは相変わらずだった。
眠そうに目を細め、肩を回している。
弟子入りを願い出た王直属騎士――父を影に奪われた青年も最前列にいる。
昨日の拳痕入りの鎧は外し、新しい軽装に替えていた。
だが胸の奥の感覚はまだ残っている。
一撃で理解した。
この男たちは、本当に規格外だ。
そのユウが前に出た。
「じゃあ始める」
あまりにも軽い声だった。
騎士団長が横で頷く。
若い騎士たちが一斉に集中する。
ユウは片手を上げる。
「まず」
影が足元へ広がった。
黒が石畳を這う。
一瞬で訓練場中央を覆う。
ざわめきが走る。
影が膨らみ、形を持つ。
低い唸り。
現れたのは十体の影狼。
漆黒。
赤い目。
筋肉質な四肢。
地面を削る爪。
昨日地下で見た小型影獣とは比べものにならない密度。
ただ立っているだけで空気が張る。
騎士たちの顔色が変わる。
「え」
「ちょっと待て」
「訓練だよな?」
ユウは平然と言った。
「逃げろ」
沈黙。
誰も意味を理解できない。
「……逃げる?」
王直属騎士が思わず聞き返す。
ユウは頷く。
「そう」
レオンが横から補足する。
「捕まったら終わりだ」
「終わりって何が」
「訓練がだ」
アレンが苦笑する。
「まあ、死なない程度には止める」
死ぬ前提に聞こえた。
騎士団全体がざわつく。
その瞬間。
ユウが指を鳴らした。
影狼が同時に走った。
速い。
一歩目から異常だった。
「散れ!」
王直属騎士が叫ぶ。
全員が反射的に左右へ飛ぶ。
だが遅い。
一人の若い騎士が背後を取られる。
影狼の牙が首元寸前で止まる。
膝から崩れ落ちる。
「はい脱落」
ユウの声が淡々としている。
「はやっ!?」
「もう一人」
別方向。
二体目が足を払う。
転倒。
即終了。
訓練場のあちこちで悲鳴が上がる。
「速すぎる!」
「待て待て待て!」
「これ狼じゃない!」
レオンが冷静に見ている。
「足運びが直線すぎる」
アレンも頷く。
「視野が狭いな」
逃げるだけなのに誰も逃げ切れない。
影狼は追う角度が鋭い。
直線では捕まる。
王直属騎士は踏み込みを変えた。
直線をやめる。
斜めへ。
壁際。
影狼が追う。
そこで急停止。
方向転換。
一瞬だけ影狼の噛みつきが空を切る。
「……!」
避けた。
初めてだった。
ユウが少しだけ目を上げる。
「今のはいい」
次の瞬間、別方向から二体目。
横。
王直属騎士は槍を使わない。
柄で床を突き、身体を浮かせる。
すれ違う。
着地。
呼吸が乱れる。
だが生き残る。
レオンが小さく言う。
「飲み込みは速い」
アレンも見る。
「昨日の一発で何か変わったか」
ユウは腕を組む。
「悔しい方が伸びる」
一方、他の騎士たちは地獄だった。
五人脱落。
七人脱落。
十人脱落。
訓練場は逃げ惑う足音だらけ。
影狼は容赦なく狩る。
「無理だ!」
「速すぎる!」
「騎士訓練でなんで逃げてるんだ!」
ユウが即答する。
「生き残れない剣は意味ない」
その言葉だけ少し重かった。
実感がある声だった。
あの日を知る者の声。
王直属騎士は聞きながら走る。
胸が少し熱くなる。
この男は壊した側だ。
だが、ただ壊しただけではない。
何かを知っている。
だからこそこの訓練になる。
ついに最後、残ったのは三人。
その中に自分がいる。
息が切れる。
足が重い。
だが止まらない。
ユウが指を軽く上げた。
影狼が止まる。
静寂。
訓練場に倒れた騎士たちの荒い呼吸だけが響く。
「はい終わり」
誰も立ち上がれない。
王直属騎士も膝をつく。
汗が石畳へ落ちる。
ユウは平然としていた。
「明日から増える」
全員が顔を上げる。
「増える!?」
「狼二十」
絶望が走る。
レオンが横で淡々と言う。
「今日はまだ優しい」
「優しいのかこれ」
アレンが笑う。
「本気じゃないからな」
誰も笑えなかった。
ただ一人、王直属騎士だけは息を整えながら前を見る。
拳痕の痛みはもうない。
代わりに、昨日よりはっきりしたものがある。
この三人から学べるなら、自分は変われる。
そう思えた。




