第九二話 あの日、黒は父を奪った
城壁の上から王都の南門を見るのが、今の自分の日課だった。
復興途中の石材。
組み直された塔。
まだ足場の残る外壁。
完全ではない。
だが確実に戻っている。
あの日に比べれば。
遠くで馬車が入る。
伝令が先導している。
王都へ招かれた者たち。
名前はすでに聞いていた。
アレン。
レオン。
そして――
ユウ。
その名だけで手が止まる。
握っていた槍の柄に力が入る。
視界が少しだけ遠くなる。
風が吹いた。
乾いた石の匂い。
それだけで、昔の煙が戻る。
あの日も、城壁から黒が見えた。
最初は夜だと思った。
昼なのに空が暗くなった。
違った。
影だった。
黒い獣。
数え切れない。
地面を埋める群れ。
塔の上から見た兵たちが叫ぶ。
門を閉じろ。
構えろ。
弓を上げろ。
全部遅かった。
黒は壁を越えた。
音もなく。
父は門前にいた。
剣を抜いていた。
王都守備隊の一人として。
振り返って一度だけ叫んだ。
「下がれ!」
それが最後だった。
次の瞬間、巨大な影の爪が振り下ろされた。
石畳ごと砕ける。
兵が吹き飛ぶ。
父も倒れる。
だが終わらなかった。
黒は死体を呑んだ。
影が伸びる。
地面に沈む。
そして。
父がもう一度立った。
だが目がなかった。
声もなかった。
黒い輪郭だけになっていた。
剣を持ったまま。
影兵になっていた。
叫べなかった。
声が出なかった。
ただ足が震えた。
階段の陰で見ていた。
そのとき、中央広場にいた一人の少年が振り向いた。
黒の中心。
静かに立っていた。
年齢は自分と変わらないように見えた。
だが目だけが違った。
何も映していない。
その少年の足元から、さらに影が増えた。
街が呑まれた。
塔が折れた。
炎が上がった。
父だったものが、その黒の後ろを歩いていった。
戻らなかった。
「……副隊長?」
声で戻る。
部下が横に立っていた。
「来ます」
南門の先。
三つの影。
歩いてくる。
先頭はアレン。
その隣にレオン。
そして最後。
黒髪。
気だるそうな歩き方。
だが間違えようがない。
あの日の顔だった。
少し大人になっている。
だが同じ。
胸の奥で嫌な音がする。
手は自然に槍を握る。
だが抜かない。
抜いてはいけない。
今は王直属騎士だ。
命令は護衛。
私情は禁止。
わかっている。
わかっているのに、
喉だけが乾く。
門の前まで来たところで、その黒髪がふと顔を上げた。
一瞬だけ目が合う。
止まる。
向こうも気づいたようだった。
ほんのわずか。
だが確かに。
何かを思い出したような顔をする。
けれど、すぐ逸らした。
覚えていないのか。
当然だ。
あの日奪われたのは、こちらだけだった。
向こうには無数の一つに過ぎない。
それでも、
なぜか槍を抜けなかった。
憎しみだけなら簡単だった。
だがあの日、最後に見た。
黒の奥で一瞬だけ、その少年が苦しそうに顔を歪めたのを。
あれが何だったのか。
今もわからない。




